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『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』惨劇の歴史、虚ろな肖像。

齢80にしていまなお現役、映画を愛し、映画を撮り続けてきたマーティン・スコセッシは、人間の欲望をどこまでも冷徹に、何のロマンティックさも無く、「映画」という魔の装置に映し出す。これまでも、これからも彼はいつだって本気なのだ。そこにある現実を、映画こそが、映画のみが確かな形で伝えられるのだと信じており、実際に、全く容赦なく、我々に見せつける。3時間26分にわたる血と欲に塗れた大作、それが『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』だ。

「アメリカ」と「ダメ男」。
マーティン・スコセッシが描いてきたモチーフをふたつあげろと言われたら、きっと私はこのふたつを選ぶだろう。みんな大好き『タクシードライバー』の主人公トラヴィス・ビックルだって悪のカリスマのような扱いをされることはあるけれど、彼は精神を病んだ帰還兵の一人であり、自身の起こした行動をたまたま良い方向に取ってもらえたにすぎず、言ってみればただのボンクラだ。その意味で『レイジング・ブル』も『キング・オブ・コメディ』も『グッドフェローズ』も主人公はみーんなダメ男。それでも何故かかっこよく見えてしまうのは、演じているロバート・デ・ニーロの俳優としての圧倒的な存在感・佇まいだったり、マーティン・スコセッシの卓越した撮り方からくるものだろう。でも時代を経るごとにその語り方は監督の中で変化しており、彼らの属する職業や、行動がどんなものであれ、中身のすかすか具合を知らしめるような方向にシフトしていく。そのため『ウルフ・オブ・ウォールストリート』におけるディカプリオの人間としての軽さなんてびっくりするほどだ。マーティンは自身が作ってきた映画の主人公たちが世間でかっこいい存在とされるほど、まるでそれを否定するかのようにだんだんと男たちの描き方を変え、さらには、ひたすらに「暴力の快感」というものを抑え込んできた。そして今作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』において、監督の描く「アメリカ」と「ダメ男」は、もはや憧れる余地などまったく残さん、とでも言わんばかりの徹底した”ろくでもないもの”して顕現する。

まずは、本作の時代背景を説明しよう。

1890年代、アメリカ南部のオクラホマ州で石油が発見されたことを機に、先住民族であるオセージ族は巨額の富を手に入れる。1920年代には一人当たりの所得が世界で最も多い状態となり、彼らは裕福な生活を送っていた。世間の関心は高まり、アメリカ内では「オセージ族には金銭管理能力がない」という抗議の声があがる。これを受けて、政府および裁判所はオセージ族に権限を持たせず、「保護する」という名目で自分たちにとって都合のいい制度を整備していく。1921年には純血のオセージ族およびオセージ族の血を引いた多くの人が、自らの能力を証明できない場合、白人の後見人を任命する制度が作られる。こうして白人たちが平然と悪事を行うことができる状況が整い、多くの怪死事件へと繋がっていく。
本作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』はこのような状況から始まる。

「嵐には力がある、だから静かにするの」

嵐がくる。惨劇が起こる。モリー(リリー・グラッドストーン)がアーネスト(レオナルド・ディカプリオ)に言うこの台詞には映画で巻き起こる惨劇の予感があり、その後実際にモリーの家族たちは次々と不審な死を遂げていく。すべては”キング”ことウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)の果てしない欲望からくるものであり、モリーの一家を皆殺しにすることで、彼らオセージ族の資金を奪う策略は、アーネストや町に住む白人ぐるみで進行していく。始め、自殺に見せかけていた殺人は、やがて邪魔者を排除する手段と化し、力によってオセージ族たちを殺し、殺し、殺していく。
そしてこの『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、ことさらに彼らの犯した罪を断罪するようなことをしない。
そんなものをわざわざ語る必要がないからだ。
ロバート・デ・ニーロの紳士でマイルドな雰囲気からそこはかとなく放たれる醜悪な欲望は、映画が後半になるにつれどんどん露になり、街にいるごろつきや医者さえも仲間にして殺しを繰り返す。そこにあるのはどこまでも自身を正当化する男の姿であり、かつてあった歴史を物語ることでおぞましい現実と、彼ら白人たちの邪悪さを徹底的に画面へと突き付けている。

そして映画は、その邪悪な歴史を、ひとつひとつじっくり時間をかけて見せる。退屈はしない。退屈などしていられない。かつてそこで巻き起こった惨劇は嵐となり、私たちに去来する。
オセージ族の暮らしと、彼らにたかる白人たち。流された血と、欲や権力のために平然と行われる殺人。それらを極めて冷静に、ドラマチックにし過ぎることなく映す。

きっとこの映画はアーネスト以外の誰かを主人公にすることもできたはずだ。キングを主人公にすれば凶悪犯罪を行ったボスの栄枯盛衰物語が出来ただろうし、トム・ホワイト演じる捜査官を主人公にしたならサスペンスフルな探偵風ドラマになっただろう。あるいはモリー視点からすれば次々と家族や隣人が殺害されていくホラーの出来上がりだ。でも本作はそんなありきたりな語り方をしない。話の中心となるのは、ひたすらに矮小でちっぽけな男であり、どこまでもどこまでもかっこ悪いアーネストという存在だ。彼に英雄的なところは全くなく、ただ流されるまま犯罪に手を染めていくその姿には、トラヴィス・ビックルのような「アウトローの魅力」は皆無であり、憧れの念など抱きようもない。
凄まじいのはこれほどの時間をかけながら、アーネストはその中身が「空っぽ」なのか、それとも「欲に塗れている」のか、あるいは「別のなにか」に突き動かされているのかがわからない点だ。後半、裁判のシーンが始まってからは、巻き込まれ、まるで被害者のような面をしていたアーネストの犯してきた罪がいよいよ露になる。脚本・構成はアーネスト自身の定まらない、自身の行動理由さえ規定することのできない彼の愚かさを反映しているかのようだ。「自分は自分なりの誠実さを持ってやってきた」という醜悪。偽善にさえならない普遍性を欠いた彼という存在。同時に、そうすることで多層な面を持った人物としての「アーネスト」が浮かび上がる。
きっと、彼の行動原理は彼自身もはっきりしないのだろう。
妻を愛する気持ちは確かに持っていて、しかしある種の確信を持ちながら注射を打ち続けることもしてしまう。愚かであり、したたかでもある卑近な存在。でも私にはそれがすごく「当たり前」のようにも思える。人は自分の狡さや残酷さを知っていても、わかっていながらも、それが自明であるがゆえに行動をし続けることができる。そんな残忍な生き物なのだ。
私がわからないのはむしろモリーの方で、インスリンではない薬を投与されている可能性があるとわかっていながら、それを許していたことだったりする。それは夫への愛か、あるいは諦念なのか、それとも別のなにかだったのか。愛する者に日々殺され続け、それを受け入れる彼女の胸の内にあるものとはーー。結局それが如何なるものだったのかはわからないのだけど、そこには彼女なりのしたたかさのようなものも見え隠れし、その忍耐力に感じ入ったりもした。

わかっていながら、愛していながら、誤った行動をする人間。
自分自身の気持ちにさえ目を逸らし、偽りながら行動するアーネストという男は、いまマーティン・スコセッシが最大限の真摯さ持って伝えられる卑小で冷酷でリアルな人間像だ。この長きにわたる物語の主人公は最後の最後に至ってなお、彼自身の弱さから逃れることはできない。

映画の終わりでは、ラジオ番組のような形でその後の彼らの人生がダイジェストで語られ、惨劇は歴史へと、歴史は物語の一部へと収束していく。それは軽快に、コミカルに語られ、そうされるほど私にはグロテスクにも感じ、「予定通り」の地点に否応なく辿り着いてしまった私たち観客の心は彷徨したままだ。

なお、オセージ族たちの魂が報われることはない。

「映画を観る」ことの愉悦。これほどまで悲惨な物語でありながら、映画は「語り方」次第でこうも人をくぎ付けにし、満足させることができるのか。マーティン・スコセッシによる重厚で、冷徹な、どこまでも愚かな男の物語。こんなに「映画を観た」という充足感に包まれたのは久しぶりだ。


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