『マッドマックス:フュリオサ』
貴種流離譚としてMAXな出来。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の前日譚であるため前作で登場したキャラクターおよび場所および名称が次々と出てきて楽しく、「これがああ繋がってたのか~」という答え合わせ的な喜びがあります。そしてそれは『怒りのデス・ロード』に対して新たな視点、新たな読み方を与えるという行為でもあり、その点で『ゴッドファーザーPartⅡ』が行っていることと近い。楽園から出ることを余儀なくされた少女が荒れ果てた世界に投げ出され、怒りを燃料にしながら生き抜く、というこのお話は、続く物語『怒りのデス・ロード』というアクションのみでガシガシ話を進めていた映画を、ひとつの壮大な叙事詩の一部、つまり、マッドマックスサーガにおけるジハードであったのだと、そのような意味づけを行っており、語り方は必然的に叙事寄りのものとなっています。
マッドマックスの世界は、核兵器によって第三次世界大戦が起き、石油が枯渇したため生存者達が物資を奪い合い、砂漠化した地において車こそが至上の価値を持ち、生活を支える道具となったーーそのようなポストアポカリプスな世界観です。
緑の地に住むフュリオサは、たまたまその地を見つけたバイカー集団から「楽園」の秘密を守るため、危険を顧みず敵の襲来を告げ、誘拐されてしまいます。ここからの追走劇で見えてくるのは、荒れ果てたマッドマックスの世界においてフュリオサが住んでいた場所がいかにすばらしい場所なのかということ。つまり緑の地とは「楽園」を意味していて、そこから追放されることでフュリオサの物語が始まるというのは、とても示唆的でした。
本作においても話や登場人物の関係性は会話シーンよりもアクションシーンでガシガシ進行する場合が多く、この点で本作も「雄弁」なアクション映画の側面を持っています。冒頭でフュリオサの母親が見せる追走劇からしてそうで、バイクの部品を手際よく付け替えることや、ライフルを使いものすごい精度で次々に敵を仕留めていくシーンを見ているだけで、この人物がどのような人生を歩み、緑の地がどのようなシステムで成り立ち、いま何を思っているのかが想像できるのです。そこに説明的な台詞は不要。なにより『マッドマックス:フュリオサ』において最も雄弁な要素とは「眼光」であり、登場人物たちの人間性はここの部分を見ているだけで十分すぎるほど伝わってくる気がしました。
また、今回のアクションは空中戦や高低差を活かしたものが多く、『怒りのデス・ロード』を繰り返し繰り返し観たような人にも新鮮さを提供しています。そしてこの高低差を活かしたアクションの多くは、いまいる場所を俯瞰的に見せる効果ともなっていて、この世界の「全体像」を観客に共有させようとしているようでした。
おそらくは前作に比べて「もっとたくさん派手なカーアクションだけをみせてくれよ!」と感じる人もいるでしょう。しかしこの映画はそもそも前作をカーチェイスを快楽の面から超えようなどとは鼻から考えていません。5章に分けて紡がれるフュリオサの物語には、ディメンタスとイモータン・ジョーとの40日戦争が関わってくるが、しかしその詳細や結末は描かれない。なぜならこれは抒情の物語ではなく、叙事だから。監督であるジョージ・ミラーがなしたその選択は、本作が、続くジハードの前段階であるのだと意味付けをする行為であり、逆に『怒りのデス・ロード』からすれば、アクションのみで語っていた究極のアクション映画が、数々の言葉によって作られた大いなるサーガの一部である、という意味にもなる。
章を分け、フュリオサの人生を語ることで、怒りを燃料に突き進む者と、狂気に身を委ね虚無に浸る者との対比を見せていくが、しかしこの映画は終盤において更なる文脈を物語に与えます。復讐の物語として描かれた『フュリオサ』は、怒りを燃料としてでも生きる力が得られるのであればそれも時には必要なことなのだと、復讐を肯定的に描いていた――はずでした。
しかし終盤のディメンタスとの会話によってこのふたりが似た者同士であるという事実が突き付けられ、その上で「フュリオサが最後に何を為したのか」「復讐はどのように果たされたのか」「どの通説を信じるか」という曖昧性を自ら生成します。
叙情ではなく叙事寄りの語りはここで確かな意味を持ち、ここまで語られてきた『フュリオサ』の物語をどう汲み取り、続く『怒りのデス・ロード』にどう繋げるのかは、ある程度観る者に委ねられていく。ここで語られた物語はフュリオサの人生ではあるものの、それは「歴史」あるいは「神話」として語られてきたものであるがゆえに、不確実性も同時にはらんでいるのです。
この点でジョージ・ミラー監督の前作である『アラビアンナイト 三千年の願い』とも接続するようなテーマ性を本作は帯び、新たな物語を立ち上がらせるということは、未来の話であれ、過去の話であれ、結びつく別の物語にも新たな文脈を与えるのだと、そのことを曖昧性とともに私たち観客は知ることとなる。つまり『マッドマックス:フュリオサ』を観るということは、すでに想像された世界の解像度を上げるということだけではなく、別軸の物語に新たな文脈が与えられる瞬間に立ち会うということに他ならない。
……という文脈の話はここまでにして、今作も派手で外連味たっぷりのMADな映像が目白押しです。また、主演のアニャ・テイラー=ジョイは鋭い眼光でフュリオサの”怒り”を力強く表現していました。つまりこれは眼光映画です。目力の強いやつこそが勝つという世界。それが『マッドマックス:フュリオサ』なのだ。ガンつけ合うのも多生の縁。目力を制する者は世界を制す。鬼に金棒。虎に翼。フュリオサに眼光。ベイブに真珠。イモータン・ジョーに酸素マスク。刮目せよ、我らがジョージ・ミラーの作り上げた新たなサーガを。知るがいい、その眼光に射すくめられる喜びを。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?