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Fマニアクス

F先生といったらそりゃもちろん藤子・F・不二雄先生のことである。まあ呼び方については「藤子先生」とか「藤本先生」とかケースバイケースで言いかえているのだけど、私にとって「先生」といったらこの人のことなのだ。なんでか藤子先生には先生って付けたくなるんだよな。手塚治虫も萩尾望都も鳥山明も三浦建太郎も伊藤潤二も「先生」とは付けずに呼んでいるのだけどこの方に関しては先生と付けて呼びたくなる。不思議。すこしふしぎだ。
たぶん自分のなかではそれくらい作者自身のことを尊敬しているってことなのだと思う。
藤子・F・不二雄。『ドラえもん』の作者。先生。
『ドラえもん』。言わずと知れた国民的漫画。大傑作。心の友よ。
私にとって『ドラえもん』はものごころついた頃から常に身近にあった漫画で、飽きもせず繰り返し繰り返し読んできた作品だ。だからきっと私の成分の何割かは『ドラえもん』で出来ている。それくらい藤子・F・不二雄先生の作品は自分に馴染んでいるという感覚がある。それはつまり作者本人からの影響もたくさん受けていることを意味している。先生の作品には先生の好きなものがたくさん詰めこまれていて、歴史や恐竜、宇宙、西部劇、野球、鉄道、映画、ジオラマ、SF、落語、エトセトラエトセトラ……とにかくたくさんあるわけだ。そしてそういう先生の趣味が作品の内容にめいっぱい反映されており、私の色んな興味の多くはそこからスタートしたものばかりなのだ。SFが好きになったのも、映画がすきになったのも、先生からの影響だろうし、生き物を愛するという気持ちも、いろんな人がいて、いろんな感情があることも、たぶん私は藤子先生から教わった。
そんなわけで藤子・F・不二雄先生は、私にとっての「先生」なのだ。

ちなみに今年は藤子・F・不二雄生誕90周年の年で、昨年12月1日(先生の誕生日)あたりからちょこちょこそれに合わせた企画も行われていて、ファンとしては楽しい1年になりそうだなと思ってる。そういえばドラミちゃんの誕生日って12月2日という設定なのだけど、これって先生はなにか意識して決めた日にちなのかしら。自分の生まれた次の日にドラえもんの妹の誕生日を設定するってなにかしら意味を求めてしまうのだけど。てかドラミちゃんってもともとは読者公募が原案で生まれたキャラなんですよね。だから初登場時は見た目も設定も微妙に違っていたわけで、先生にとっても徐々に固まっていったキャラだったのかな。

まあいいや。この記事ではそんな感じで個人的な『ドラえもん』についての想いとか、F先生についてを書いてみたいと思います。だからいつもみたいに個々の作品の魅力を解体するように語るってことを目的にはしていません。どちらかと言えば私にとって「藤子・F・不二雄」という人がどんな立ち位置に来るのかってことを書きだした記事になると思うし、『ドラえもん』を中心とするF作品について思うことを「あれっていいよね」とか「~好きだったな」みたいな感じでそのまま綴っていくだけのまとまりのないものになる気がする。そうなる自信はある。「模範手紙ペン」でもあればスラスラ綺麗な文章が書けるんですけどねえ。そうもいかないもんな。とりあえず、そういうだらだらとした随想みたいなものでも歓迎ですよ、という奇特な方好奇心旺盛な方にお付き合いいただければさいわいです。

※なお、書いていたら8千字を超えました。なんかすみません。やたら長くなったのでおわびとして、この焼いたモチでも召し上がって下さい( ・・)つ#Ω#Ω#

アニメについて

先に、ものごころついた頃には漫画を読んでいたと書いたけど、テレビアニメもそれは同様で、テレビ朝日系列で放映されていた『ドラえもん』も、私にとっては幼少のころからすぐ近くにあった藤子・F・不二雄作品だった。金曜日の19時に『ドラえもん』を見るってことはもはや「決まった」行事であり(ひとむかし前までドラえもんは金曜日にやっていたんですよ、ええ)、当たり前のことだった。大山のぶ代さんのあのだみ声を聞くといまでも妙な安心感を覚えるし、「あんあんあん、とっても大好き、ドラえ~もん~」というオープニングも懐かしい。視聴率を意識しながら観ていたわけではないのだけど、1979年から2005年まで続いたこのシリーズの平均視聴率は非常に高かったらしく、放送開始から4年後の1983年2月11日の放映回ではなんと31.2%を記録していたとのこと。ドラえもん人気ってすごいですねー。まだインターネットが普及する前だったこともあって、テレビの力は強かったんだなあとしみじみ思います。にしてもほんと毎週よく見てたなあ私。「お約束」で出来上がってるようなところのある作品なのだけど、だからこそ安心感があり毎週楽しかったんだろうな。

1980年からは大長編シリーズがはじまり、一作目『のび太の恐竜』が大ヒット。以降映画は毎年の恒例行事となっていますね。そしてこのイベントは私にとっても恒例行事であり、いまでも毎年3月ころになると映画館に足を運んで新作を見ることに決めています。映画館でみるドラえもんはいい。とってもいい。ドラえもん映画には「日常→非日常」という流れが基本としてあり、そのフォーマットをいかに”守るか”、あるいはいかに”くずすか”がひとつの見所だと思う。でもよく考えたら「ドラえもん」という存在自体がそもそもは非日常であるはずなんだよね。それを「日常」の一環としてはじめから受け入れちゃってるというのは、それだけ多くの人に「ドラえもん」という存在が根付いていることの証左であり、すごいことだよなーと感じます。だってもはやいちいち「このネコ型ロボットは未来の国から来ていて~」とか「ポケットの中には便利な道具がたくさん入っていて~」なんて説明する必要がまったくないもんね。逆にいまさらドラえもんという存在や、登場するひみつ道具に対してまわりが驚愕する、みたいな展開があったら笑えるかも。いや、でも私は「ドラえもん」という存在があたりまえのように馴染んでいるあの世界観がすきだからなー。それをやられたら笑うかもしれないけど、あまりうれしくはないかもな。

2005年にはそれまでの声優が一新され、長く映画の監督を務めた芝山努さんらが降板。あたらしい体制へと変わり、現在も続く人気アニメとして定着しています。そういえば以前ドラえもん好きな友人と『ワンニャン時空伝』を一緒に観たとき、冒頭で大山のぶ代さんが演じるドラえもんの声を聞いて、ふたりして涙ぐんでしまう、なんてことがありました。声ってすごい。ほとんど刷り込みみたいに記憶と連動していて、だから懐かしさも一緒に込み上げてくる。水田わさびさんのドラえもんも良いなと思うけど、個人的には最初に出会った声が大山のぶ代さんだったこともあり、完全に刷り込まれちゃっている。「もう、しかたないな~」とか「まったく、きみってやつは……」なんていう台詞を言っているドラえもんを思い浮かべるとき、私の脳内には大山のぶ代さんの声が響くのだ。

映画話でいえば、かつてはドラミちゃんが主役の短編作品や、ロボット学校時代のエピソードである「ザ・ドラえもんズ」シリーズを同時上映をしている時期もありましたね。単行本における人情味の強い人気エピソードを短編映画化した作品「おばあちゃんの思い出」や「のび太の結婚前夜」をやっている時期もありましたし、あれ良かったなー。いまは映画一本のみという作り方になっていて、それはそれで満足度が高いのだけど、たまには原作の話を高クオリティにした短編なんかも見てみたいぞ。私はギャグ漫画としてのドラえもんを愛してるので、ギャグに振り切った原作の話とか、しょうもないオチがつく話をやってくれると歓喜すると思います。やるわけないだろうけどやってほしいなあ、「アスレチック・ハウス」とか「ホンワカキャップ」とかくだらなければくだらないほど歓迎なので。

漫画について

んで原作について。てんとう虫コミックスの漫画版は全部で45冊(+大長編17冊)が出ていまして、いま現在も収録作品を選別したかたちで新刊が出ることがたびたびあります。F先生は『ドラえもん』を小学1年生から小学6年生まで6誌で同時に連載していた時期があり、学年ごとにキャラクターの等身やコマの数を変えていました。うーん、いつ聞いてもすごいなあこの話。1学年ごとに微妙に変化をほどこしながら絵を描くって、しかもそれをひとりの漫画家がやるって、改めて考えるとかなり大変な作業だろうし、繊細さもモラルもセンスも必要になるはずだろうから、やっぱりすごい。
なお、すべての作品を収録しているわけではないことから、てんとう虫コミックス45冊はある意味で「傑作選」の意味合いを持っています。なので『ドラえもん』を読みたいと思ったら、まずはてんコミを手に取るのがおすすめ。選んでいるのはとうぜん藤子・F・不二雄先生ですし、間違いない。ちなみに、ここに入らなかった作品は「大全集」に収録されていますので、さらにドラえもんを深掘りしたいという方は「大全集」や「ドラえもん+」(てんコミからもれた作品を集めたもの)を読んでみるのがいいんじゃないかな。例えるならてんコミとは「正典」であり、2010年初頭から発刊されていった大全集は「死海文書」みないな立ち位置にくる作品群なわけです(とても荒っぽい例えですが)。だからこの「大全集」が出た当時はうれしかったなあ。これまで読んだことのなかったドラえもんが大量に読めるってことで、大喜びしながら読んだもんね。

ドラえもんという作品の魅力はいっぱいあって、一言では語り切れないのだけど、私には作品に漂うからりとした空気感、ある意味ですこし”冷めた”部分がひとつの魅力だと思っています。言ってみれば原作はちょっとドライなんですよね。やさしさの中にあるドライさ、あるいはドライさの中に潜むあたたかさ。そういうすこし冷めた空気感が原作『ドラえもん』の本質、かどうかはわからないけど、作者である藤本先生の作家性ではあると思う。じゃなければあれほど突き放した視点をもった短編『ミノタウロスの皿』や『メフィスト惨歌』を描くことはできないはずだし。
藤子先生はふしぎだ。先生の描く漫画作品は、表面的に見れば子どもむけのほんわかとした優しい雰囲気がある。そしてその見方はもちろん間違っていないし、先生本人もそのように良心的な意識を持って漫画を描いていたと思います。でも私がいいたいのは(というか興味深いと感じるのは)、先生の描いた漫画には、常にそれらすべてをすこし冷めた視点で見つめているようなところがあるんじゃないかってことなんですよね。それは独特でシュールな笑いに繋がっている場合が多々あり、ねらってやってるのかどうかはわからないけど、私的にはすごくツボにくる。この「冷めた笑い」については「変ドラ」というサイトで”しらけ”という観点からおもしろく解説・言及されているので、ひまな方はぜひそちらも見てみてほしい。

あと藤子先生の「絵」についても一言もの申したい。あの良さについてもの申したい。『ドラえもん』にしても他作品にしても、藤子先生の絵って内容に比べて語られることが少ない気がするのだけど、先生の絵はすごい。なにがすごいって洗練度がすごい。子どもを対象とした漫画を描き続けてきたということもあり、コマごとに配置された情報の取捨選択、デフォルメしたキャラクターを自由に動かす画力、線の丁寧さとやわらかさ、親しみを感じるまるみを帯びたキャラクターのデザイン。そういった絵の魅力、絵のすごさってもっともっと語られていいと思う。なんていうか見てると心をなごませる力があるですよね、藤本先生の絵って。そして、それらを総合した「漫画力」の高さが藤本先生の絵の特徴であることは間違いありません。「表情」を描くときは、鼻水をだらだら流していたり、ラリったような表情をしていたり、憤死するんじゃないかってくらい強烈な怒りを表現することも出来るのだけど、なぜかそれでも品を感じるのもふしぎ。うん、そうだな、なんていうか先生の絵って親しみやすさと同時に「品」みたいなものがあるんだよな。先生の描く線はどこか品がある。相方であった安孫子元雄氏の線がどことなくどろりとした、人間のいやらしさを捉えているのとは対照的に、藤本先生の絵は常にやわらかさとドライさを保っている。そんなところが私にはとても魅力的なのだ。

同様のことは、台詞の部分にも言える。先生の漫画は子ども向けであることを前提に描かれているため、文字数を極力減らしている場合が多く、パッとみでリーダビリティがすごく高い。けどその上で、キャラクターごとの性格や状況に合わせたわかりやすい台詞を置き、さらにズバッと核心にせまるような台詞、あるいは笑いが込み上げるような面白い台詞を配置してくる。だから記憶に残りやすい。これはたぶん先生が落語すきなことも関係しているはずで、キャラ同士の掛け合いで生まれるワードのセンスがすごくいいのだ。
例えばてんとう虫コミックス45巻に収録された「トロリン」にはドラえもんとのび太の会話でこんなやりとりがある。

のび太「ぼくの顔色……青いだろ。」
ドラえもん「青いというよりうすぎたない。けさも顔を洗わなかったな」

これ、この話の一番最初の会話なんですよ。すごくないですか。これで幕があける話ってどんなものなのか気になりません? のび太の青ざめてどんよりとした表情に対して、ドラえもんの白けた表情と、本やどら焼きをまわりに置いてくつろいだ様子。その対比がすごく良い。このコマだけで相当おもしろです。そして、この会話ができるということは、イコールのび太とドラえもんの関係がもう熟年の夫婦なみに完成されていることを意味しているんです。この会話からスタートさせても大丈夫だというF先生の自信やセンスのよさを感じますよね。てかこの話のドラえもん、最後のコマにいたるまで一貫してしらけてるなあ、ほぼ無表情。結構たいへんな事態になってるのに「あ~あ」くらいのテンションでしかない。一応これが最終巻なので、もう並大抵のことにはいちいち驚かないってことなんですかね。良いですね~、このしらけたドラちゃん。こういう、キャラクターのちょっとした表情に注目して読むと、思いのほかジワジワくるコマが見つかったりするので、ぜひこの読み方を試してみてほしいなと思います。

で、今回適当にパラパラ読み返していてなんとなく感じたのは、むしろこのしらけた状態のドラえもんをそこはかとなく配置しているからこそ、嬉しそうなドラえもんや怒った顔のドラえもんや怖がった表情のドラえもんがより印象に残るんじゃないかということでした。どら焼きに目がくらんで周りが見えなくなっているドラえもんも、ネズミに遭遇してまともじゃなくなっているドラえもんもすっごく印象的な顔してるもんね。つまりそれはこういう無表情の、しらけた顔をしたドラえもんが描かれることによる「ビートの変化」みたいなもので、それだからこそ感情的な顔がより印象に残るんじゃないかな。
『ドラえもん』は全巻通して読むとわかるけど、同じような話を繰り返しているように見えて、実はそうではないんです。似たような話、例えば「パパが禁煙しようとする話」でも毎回ちょっと"ずらし"ながら描いている。まるでリッチー・ホゥティンのアルバムを聴いてるかのように、あるいは定食屋で定番メニューを食べるように「お約束」が繰り返されながらも、「前回」あったことをふまえ、そこから微妙に違う展開をたどる。私にはそのビートのズレみたいな部分から浮かび上がるそれらの「差異」がすごく面白く感じるのだ。
ジャイ子のキャラクターの変化(成長とも言い換えられるかな)も面白いし、徐々に登場回数と存在感が増していった出木杉くんという存在。主要な5人以外にもパパやママというレギュラーの他、一回限りのゲストキャラも数多くいて、「安定した日常」と「変化にとんだ日常」が同時に味わえる。そういうところもこの漫画の魅力だと思う。

そういえば、この「ドラえもん」「のび太」「しずかちゃん」「スネ夫」「ジャイアン」という5人のキャラの配置も改めて考えるとすごいよな。それまであった漫画の典型的なポジショニングを整頓して配置しており、いまではこの種の漫画におけるテンプレートとしてとらえられるに至っている。完成しすぎてこれ以上変えようがないっていうのは、ハサミや鍬の形があれ以上進化しようがないのと同じようなもので、この5人のフォーマットは実に美しい。


F作品群について

どの作品が一番好きかと言えばとうぜん『ドラえもん』です。というか自分の中で特別な位置にある作品なのでわざわざ何番目とかいうのが野暮に感じてしまうくらい。でももちろん他にもF先生の作品には好きなものがたくさんあって、『エスパー魔美』『モジャ公』『T・Pぼん』なんかも夢中で読んでいたし、短編作品でも気に入っている作品はいっぱいある。すきなものだらけ。てか短編については気分次第でわりと簡単に一番が変わってしまうので選べまへん。いまの気分で選ぶなら『箱舟はいっぱい』ですが。
そもそもF先生が短編漫画を描きはじめたのは1970年ころからのことで、ビッグコミックやSFマガジンでブラックユーモアやSFといった「異色短編」を試しに描いてみたら予想外に上手くいき、以降児童向け漫画と並んで作者の持ち味を示す代表作となっていった、という経緯があります。私がここで面白いと思うのは、児童向けの漫画から「絵柄」を変えなかった点。『劇画オバQ』などを見るにつけ、絵柄を変えようと思えば変えることは出来たのだろうけど、同じ絵柄にすることで子ども向け漫画の「延長」としての意味合いを持ち、作者の新たな境地となっている。そうして新たな「遊び場」を見つけたF先生は実験的な作品や自身が好きなSF作品をアレンジしながら短編作品を生み出していくわけで、相当ノリノリで書いたんだろうなって作品を読んでると伝わってきます。

「空き地」があって「どかん」が置かれ、そこで遊んでいる子どもたちがいる。いまは見ることがなくなった昭和の風景に「ドラえもん」という未来の存在を重ねる。日常と非日常の境をとりはらい、すこしふしぎな世界を描くというのは『ドラえもん』に限らずほとんどどの作品にも共通している部分だ。『パーマン』や『オバケのQ太郎』はまさしくそうだし、『チンプイ』や『キテレツ大百科』も同様。『21エモン』なんかはそれとは逆バージョンで、「非日常のなかにある日常」を描いている。それが藤子先生の漫画の特徴であり、私が大好きな点だ。F先生の作品にふれることで、私にとってのSFのイメージや、ものごとに対する関心領域は作られてきた。それは間違いなくあると思う。「描くぼくが楽しみ、読んでくれる人も楽しむ、そんな漫画がずっとぼくの理想なんだ」という藤子先生の考え方も込みで、私の中には藤子先生が宿っている。


とりあえずの締め

まだまだ語り足りない。というか先生の作品はいたるところに足がかりとなる部分があり、語ろうと思えばコマ単位でいくらでも語ることが出来てしまう。例えばほかにも、ドラえもんはどのタイミングで未来に帰ったのかとか。『ガッコー仮面登場』の話で登場する中学生になったのび太の日常についてとか。映画それぞれの話もしてみたい。
とはいえ長くなりすぎた。調子にのって書きすぎた。読む人も大変だろうからここら辺でいったんやめよう。

この文章を読んだ人が『ドラえもん』をはじめとするF先生の様々な作品に興味を持ってくれたらうれしいな。そしてそこから好奇心の枝葉がひろがり、いろんなことに興味を持ってもらえたら最高だ。私はなにかの文章を書くとき、作品単体についての感想だけでなく、そのまわりにあるものにも興味をもってもらえたらいいなと思ってる。そうしてあなたの世界が広がっていったらそれはとても素敵なことだと思うから。きっとF先生もそういうことを考えて漫画を描いていたんじゃないかな、と私は思うのだ。


ギア~♪





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