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言葉のないゲームとは――『上田文人の世界』を読んで

人は大抵のものに無意識下で物語を与えてしまう生き物だ。道ばたに空き缶が落ちていれば、誰かが捨てたんだろうなと想像するだろうし、その「誰か」がどんな見た目で、どんな性格かまで何となくイメージしたりも出来る。目の前にあるそれぞれの断片に想いを馳せることで誰しもが物語を生み、そうして自分の中に、自分だけの「世界の像」を持っている。

物語として世界を捉えるということ。

そのことから人は逃れることが出来ない。私たちの人生という時間はその集積によって出来上がっていて、他者とのすりあわせに寄って徐々に形を変えながら、なんとかかんとか「実像」に迫ろうとするけれど、それはまるで蜃気楼みたいにいくら目指しても届かない虚ろなものだ。私たちはそんな不確かな中でなんとなく生きている。海の向こうで起こっている戦争も、父や母から聞いたあなたが生まれる前の話も、宇宙飛行士が月へ行ったというニュースも、ふわふわとした「像」へと変換されてしまうのはそのせいなのだ。

そんな猥雑で不確かな世界を「言葉」や「映像」にデフォルメしたものがフィクションなのだろう。だから私はフィクションを求める。虚像であるところの世界を、少しでも確かな形として捉えたくて。ファンタジーやSFの役割はそこにあって、私たちが感じている「像」と、作り手の「物語」が重なったとき、少しだけ世界の霧は晴れ、見えなかったものが見えるようになる。

上田文人さん(以下敬称略)のゲームが特殊なのは、私たちが持つ「世界」という虚像の捉えづらさを、必要以上に「言葉」に置き換えることなく、そのままの形で据え置き、ひとつの作品としている点にある。ゲーム内で語られた物語はあくまでその世界全体からすれば「一部分」に過ぎず、些細なことだ。
主人公たちは世界を救う訳でもなければ、偉大な何かを成し遂げる訳でもない。だが、そうして語られた「個人的な物語」は強く強く私たちの胸に残る。同時に、一部分のみを見せられることでより「外側」に思いを馳せることとなるのだ。

では、それは具体的にどの様な形で成されているのだろう?今回『上田文人の世界』という本を読んで、彼のゲームの特徴を「作家性」という観点からを改めて見つめ直したいと感じ、この記事を書くこととした。

本の副題に「言葉のないゲームはどのように生まれたのか?」とあるように、上田文人のゲームは敵であれ味方であれ言葉が通じないことが多い。
相手は”城に捕らわれた神秘的な雰囲気を放つ少女”であったり、”自分の数十倍はある巨像”であったり、”犬・猫・鳥などの要素がキメラ的に配合された大鷲”であったりする。
上田文人のゲームにはいくつも特徴があり、例えばミニマルなゲームデザインや、”掴む”というアクションの重要性、「ゲームらしさ」とは何かを見直すアートワークの美しさが上げられるだろう。だが私が何よりも彼のゲームをプレイしていて感動してしまうのは、いずれの作品も意思疎通が困難な相手との「コミュニケーション」を描こうとしてる点なのだ。

さてそれでは、上田文人の作家性として挙げられるその「コミュニケーション」の重要性について、それぞれのゲームの思い出を振り返りつつ考えてみよう。

『ICO』

「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから——。」

『ICO』キャッチコピー

『ICO』は2001年にPlayStation2用ソフトとして販売されたゲームだ。霧に包まれた城で少年と少女が出会い、内部の仕掛けを協力しながら解き、共に脱出を目指していくという物語。ストーリーそのものはとてもシンプルで、誰にとってもわかりやすいファンタジーとなっている。だが、ゲーム内でその細部について語られることはない。上田文人のゲームの特徴として「語りすぎない」というものがあり、細部の「何故」という疑問はプレイヤーそれぞれに答えを委ねているのだ。
当時、ドラクエやFFなどのRPGばかりやっていた私には、そのゲームデザインは非常に新鮮だった。
何故主人公の少年は頭に角が生えているのか?何故少女ヨルダは城に幽閉されているのか?何故黒い影たちはヨルダのことを連れ去ろうとするのか?そういった疑問はゲームを進めていっても明確な答えを提示されることは無い。だがそれは不親切さを意味しておらず、ゲームをプレイした人の中に『ICO』という「像」を形成することに繋がっている。これによって解釈の幅はより広がり、ゲーム「外」にまでプレイヤーの想像は働いていく。例えば、作家の宮部みゆきさんはこのゲームに感化され、ノベライズという形で本を出版した。この本ではゲーム内で語られることのなかった、少年イコが生け贄として城に連れてこられる前の物語が描かれており、それぞれの登場人物に、より明確なキャラ付けが施されている。『ICO』は、物語内で語られることのなかった「細部」や「外側」をプレイヤー自身が想像するデザインとなっているのだ。

こういった「語りすぎない」という点は、ストーリーの見せ方だけでなく、全体のアートワークにも言えることだ。光と影を印象的に魅せる画面構成は、ステージごとに一枚の絵画のような趣があり美しい。画面には主人公の体力ゲージや、能力を現す数値の類いは一切無く、ミニマルなデザインとなっている。この点も当時の私にとっては新鮮で、アドベンチャーゲームの中でここまで徹底して「ノイズ」を排除しているゲームは他になく、ひどく感動したものだった。

「手をつなぐ」というアクション

上田文人自身がインタビューで語っている通り、本作は「実在感」というものを意識して作られている。Rボタンによって行うヨルダと「手をつなぐ」というアクションはその代表的な例としてあげられるだろう。私が驚いたのは、ヨルダに用意されたモーションの繊細さだ。例えば少年がヨルダと手を繋ぎ唐突に走り出そうとすると、ヨルダは一瞬よろけそうになる。この些細な動きにこそ「実在感」は宿っており、他の作品とは一線を画した手触りを生み出している。

イコが地面に倒されたときに見せる、起き上がるまでの歯がゆそうな動き。
ヨルダを一定時間放置することで見られる鳥を観察する動き。

本作にはそのような繊細なアートワークが随所に見受けられる。ゲームの「当たり前」をひとつひとつ見直しながら作られたそれらのデザインは、ある面ではハードの容量や制作期間の関係で取捨選択された結果としての形でもあるけれど、それこそがこの作品に独特の「実在感」を与えているのだと私は考える。

特にヨルダと共通言語を持たないという点は重要で、言葉を超えた体験をユーザーに提供することに繋がっている。つまりこのゲームは「言葉」以上に「体験」を重視しており、ヨルダと向き合うということは、『ICO』というゲームそのものと対話することなのだ。わからないものに少しだけ歩み寄るということ。それこそがこのゲームの主題であり、インタラクティブ性を活かして特別な体験をプレイヤーに提示していた。

ゲームをプレイした人ならば、あの、波が打ち寄せる浜辺で少年とヨルダが再び出会い、スイカを食べている後ろ姿を覚えているだろう。風の音を聴き、鳥のさえずりに耳をすました記憶を。影たちを木の棒で追い払った感触も、ヨルダと手をつないだ感触も確かに残っているはずだ。その感触にこそ言語を超えた「体験」が宿っている。

ワンダと巨像

上田文人作品の定型として挙げられる「言葉が通じない相手とのコミュニケーション」は、このゲームにおいて”巨像という戦う”という形で表現される。
この作品の主人公ワンダは、立ち入ることを禁じられていた「古の地」に赴き、モノという名前の少女を死から蘇らせるために16体の巨像と戦うこととなるのだ。巨像に乗ったときの臨場感はすさまじく、コントローラーを強く握りしめながら夢中になって遊んだことをよく覚えている(というかいまでもたまに引っ張り出して遊んでいます)。私はこのゲームほど敵キャラから「存在感」を感じたことは無かった。それまでのゲームが点対点の戦いだとすれば、このゲームは点対面という印象になる。いわば巨像自体がフィールドそのものとなっており、まるで自分の手を介して巨像に掴まっているかのような感覚をプレイヤーは味わうこととなるのだ。その「実在感」は当時の私にとって衝撃的だった。
そして、やはりここでも巨像と「言葉」のコミュニケーションは用意されていない。

ゲームという文脈において必要な「目的」は、オープニングでほぼ全て語り尽くしたと言うように、物語の詳細を説明されることはなく巨像退治は進んでいく。言葉を介したやり取りはドルミンと名乗る謎の声からの一方的な指示のみで、ワンダは孤独な戦いを続けることとなるのだ。ゲーム全体には寂寥感が漂い、巨像を倒した瞬間はやりきれない気持ちになる。

最後の一撃は、せつない。

『ワンダと巨像』キャッチコピー

ちっぽけな存在であるワンダを操作し、アグロと共に大地を駆け、巨像を倒すということはある面で爽快感に満ち、ただただ楽しい。だが同時に、意思の疎通を図ることが出来ない巨像を一体一体駆逐することで生じてくる”疑問”は少しずつプレイヤーを蝕んでいく。それでもプレイヤーは「モノを救いたい」だったり、もっと単純に「より強い巨像と戦いたい」という理由から物語を進め続ける。ここで重要なのはその「巨像退治」を自らの意思でやっていたのだという感触をプレイヤーに与えているということだ。
物語の寂寥感や虚無感の正体はそこにあり、”疑問”は徐々に”罪悪感”へと姿を変える。

巨像たちと戦うことは「コミュニケーション」などという生やさしい言葉に置き換えることは出来ないけれど、言葉を介さず他者と接触するというデザイン自体は上田文人の他作品とも共通していると言えるだろう。最終的にワンダは呪いを一身に引き受け、自らがドルミンの受け皿となることで"モノを甦らせる"という目的を果たす。対価として自身の存在は赤子の状態まで戻されることになるわけだが。

そう、これは「呪い」についての話であり、行為に対する「報い」をうけるお話。

「巨像」以外に戦う相手は存在しないミニマルで箱庭的な世界設定や、「敵」である巨像をプレイヤーの意思で一方的に倒すというストーリーは、ある意味で既存のゲームに対するカウンターのようにも見える。言語が通じない相手とは、あるいは人種が異なる存在とは、分かり合えないのだろうか。『ワンダと巨像』において是とされてしまったその問いは、次作『人喰いの大鷲トリコ』において、また違ったアンサーを見せる。

人喰いの大鷲トリコ

『ワンダと巨像』から11年ほど経ってPS4用ソフトとして販売された本作は、"トリコ"という大鷲と共に遺跡のような場所を探索するアドベンチャーゲームだ。『ICO』の反復の様な内容にも見えるが、『ICO』においてプレイヤーが「守る側」であったのに対して、『人喰いの大鷲トリコ』では操作キャラとなる少年は「守られる側」となっている。そしてここでもやはりトリコと少年は言語を介した意思の疎通が出来ない。少年はトリコに対して何らかの「指示」は出来るが、必ずしもプレイヤーが思った通りにそれが伝わるとは限らず、歯がゆい気持ちにさせられるだろう。しかしその「思い通りにいかない」という体験はトリコとのかけがえのない思い出となっていく。

「思い出の中のその怪物はいつも優しい目をしていた。」

『人喰いの大鷲トリコ』キャッチコピー

このゲームはいわゆる一本道のゲームなので、ゲーム内で体験する出来事自体はみな同じだ。違うのはおそらくトリコとの「思い出」という部分で、一緒に迷子になったり、傷ついたトリコの羽を撫でてあげたり、一休みしていたらトリコが糞をしているところを目撃してしまったりと、プレイヤーの性格によって、微妙に違う体験が得られる。そして、その差異は「トリコ」の存在そのものに対する印象の違いとして現れるのだろう。人によってこのゲームはプレイヤーの指示に従ってくれないトリコに対してイライラするかもしれないし、あるいはそこが可愛いのだと感じる人もいると思う。そうしてそれぞれが、それぞれの形でトリコとコミュニケーションを取りながら生まれるのは、あなただけのナラティブだ。

前作『ワンダと巨像』において「敵」のシンボルであった巨大な存在は、今作において「味方」として配置され、共に旅をする頼もしい相棒となる。やがて少年とトリコのあいだには言語を超えた絆が生まれるわけだ。出会い方や向き合い方によって相手との関係性は変わる。ゲームの終盤では、トリコと同じ姿の凶暴な大鷲が複数襲い掛かってくる場面があるわけだが、この場面はそのことをわかりやすく表わしていると思う。

言葉のないゲームとは

「コミュニケーション」とは相手のことがわからないところからスタートするものだし、必ずしもわかり合えるとは限らない。上田文人のゲームはそのこと自体がテーマとなっており、いわばコミュニケーションにおける「可能性」の話をしているのだ。そしてそれこそが彼の「作家性」であり、言語に依らない関係性から生み出される物語はプレイヤーに物語の「外側」まで想像する余地を与えている。
ゲームの強みが「インタラクティブ性」にこそあるとすれば、彼のゲームほどその強みを活かした作品は珍しいだろう。本書『上田文人の世界』ではそんなゲームがどのように生まれたのかを、豊富な資料と共に辿ってゆく。それは私にとって当時プレイしたゲームの思い出を辿ることにもつながり、豊かな読書となった。

物語として世界を捉えるということ。

上田文人のゲームをしていると私はそのことの豊かさに気付かされる。物語として世界を捉え、他者とコミュニケーションを取りながら、実像に迫るということの豊かさに。それは言葉に依らないゲームデザインならではの強みだろう。

その作品に触れ、それがひとつの指標となる。
そんな作品に出会ったことはあるだろうか。私にとって上田文人さんのゲームはまさしくそのようなもので、彼のゲームに触れた「以前・以後」で私の中のゲーム像は更新され、ひとつの明確な基準となった。それほどに『ICO』『ワンダと巨像』『人喰いの大鷲トリコ』は特殊なゲームだった。
上田文人さん、素晴らしいゲームを作ってくださってありがとうございます。次回作も期待しております。なあに10年待たされたのだから、いくらでも待つ覚悟は出来てますよ。


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