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【小説】神社の娘(第29話 桜はクラスメイトを見かけ、葵は一人でバケモノに立ち向かう)

 春休みも近づき、桜の通う女子高では早帰り期間が始まった。

 しかし、赤点生徒には補習がたっぷり待っている。生物だけ赤点を取ってしまった桜は、午後も学校に残り、同じ赤点組と机を並べた。

 とは言え、いつもよりは早く帰れる。たまには寄り道したって罰は当たらないと、桜は街の小さな書店に寄った。最近は「なゐ」のことばかり調べていて一般の本に触れておらず、新しい本の匂いに懐かしさを感じた。

 新刊コーナーや注目本コーナー、平置き本を一通り眺め、気になった小説や新書、漫画などを手に取り、帯やあらすじを読む。

 その中に目を引く物があった。ハードカバーの小説なのだが、装丁の風景イラストが橘平の描いた精密な絵を想起させる。桜は内容を確かめもせず、いわゆるジャケ買いをした。

 買ったばかりの本をカバンに仕舞いながら書店を出ると、クラスメイトの大石朋子が、何人かの女子生徒に囲まれ、どこかへ連れていかれるのが見えた。

 ソフトボール部に所属する朋子は明るくはきはきしたタイプで、スポーツ系女子グループの中心的な存在である。囲んでいるのは優等生グループの女子たちだ。

 7対1。

 よからぬ雰囲気を感じた桜は、こっそり後をついていった。

◇◇◇◇◇  

 朋子が連れていかれたのは墓地だった。常駐する僧侶のいない小さな寺院に隣接している、薄暗い場所。あまり家族や地域の管理者が訪れることのない墓地なのか、花が生けてある墓はほとんど見当たらないし、草も生え放題だ。

 優等生グループが朋子を墓の隅の方に連れ込み、ぐるりと囲む。

 リーダー格のウルフカットの女子は腕を組んで、朋子に荒々しく話しかけた。

「カナの煙草チクったの、あんたでしょ?」

 両手を腰に当て、堂々とした立ち姿で朋子は言い返す。

「悪いことしてんだから、通報するのは当たり前じゃないか。何逆切れしてんの?」

 取り巻きたちが「正義のヒロイン気取りなワケ?」「クラスメイト売って内申稼いでんじゃねーよ」と突っつく。

「悪いことは悪い。それだけじゃないか。優等生のくせして、あんたたちバカなんだな」

 7人の圧迫に全く怯む様子のない朋子に、周りはイライラしてきた。彼女らは「うっせーブス」「デブ」「運動できるからってなんだし」「いい子してんじゃねーよ」優等生とは思えない貧困な語彙で罵倒を浴びせ続ける。

 この優等生グループの柄の悪さに、桜は驚きを隠せなかった。先生の言うとおりに学校生活を送り、成績も行儀も良い人たち、という印象だったが、裏の顔もあったのだ。静かな場所に呼び出し、しかも多勢で一人を攻撃するという卑怯なグループ。友達思いと言えば聞こえはいいのだろうが、おそらく彼女たちも何かしらの校則違反を犯している。だからこそ、朋子を攻めているのではと桜は推測した。

「そもそも、学校で吸ってるからバレるんだよ。こういう墓で吸ってりゃ私になんて見つからなかったのに」

 リーダー格の女子が朋子の頬を叩いた。

 朋子も負けじと叩く。

 すると周りの女子たちも手や足を出し始めた。運動神経の良い朋子でもこれはさすがに勝てないようで、袋叩きになってしまった。

「大石さん…!!」これは見ていられない、いや傍観しちゃいけないんだと、桜は躍り出た。「何やってるんですか!!」

 桜の登場に、優等生たちは動きを止めた。「誰に見つかった!?」と焦りや恐怖を感じた彼女たちだったが、相手が「友達がいない大人しいメガネ女子」の一宮桜であるとわかると、笑いが起こった。

「なーんだ、一宮さんか。粛清だよ粛清。あんたも誰かにチクるわけ?同じ目に合わせるけど」

 桜は武道をやっていた。とはいえ、多人数を相手にしたこともなければ、ケンカするようには稽古をしていない。あくまで自分の身を守る手段としてしか身についていないのだ。朋子とともにこの場から逃げる方法を一生懸命考えたが、全然浮かばない。

 優等生グループたちが桜に向かってくる。走っても追いつかれるだろうし、朋子を置き去りにはできない。

 立ち向かうしかないと腹を決めた。

「一宮さん!!」

 優等生たちの手を離れた朋子が桜に駆け寄る。

 叩かれる、と桜はカバンを顔の前に盾として構えた。しかし、優等生たちの拳は一向に降ってこない。

 カバンを少し降ろし、ちらりと目をやると、彼女たちは桜の顔や体のすれすれのところで手を出せないでいた。

 これ以上、桜に近づけない。そんな風だった。

「あれ、なんで進めないの」

「何よこれ!?」

 これ幸いと桜はこの空間を抜け出し、近くまでやってきていた朋子の手を取って走り出した。

◇◇◇◇◇  

 さきほどの書店近くまで逃げてくると、桜は朋子の手を離し、頭を下げた。

「あの、大石さん、差し出がましい真似を」

「顔上げてよ!」

 朋子は桜の両肩に手を載せ、そうするよう促す。桜はゆっくりと頭を上げた。

「ありがとう一宮さん。一宮さんいなかったらあたし、ボロボロだった。助かった。ってか、めっちゃくちゃ勇気あるんだね。尊敬だよ、あたし同じことできないって」

「ゆ、勇気だなんて」

「そういや話したの初めてじゃない?ねえ、ちょっと時間ある?」

「あ、は、はい」

「そこの喫茶店よってこ。あたし、一宮さんともっと話したい。いい?」

「…もちろん!」

「桜って呼んでいい?」

「うん、じゃあ朋子ちゃんでいい?」

 創業50年は越えていそうな老舗の喫茶店に二人は入っていった。

 向日葵との女子会も楽しいけれど、同年代の女子会はまた違った楽しさがあった。学校という共通の話題や悩みについて、同級生と話したことがなかった桜は、自分の中にある「普通の女子高生」の部分を味わっていた。

 また朋子と話していて分かったのは、彼女の母親は桜の住む村の出身であり、彼女はお伝え様にも毎年初詣に来ているということだった。

「桜ってあそこの子だったんだ。うそー、私さ、毎年あそこの神社で家族の健康とか安全とか祈ってるんだよ」

「そうなんだ!ちょっと縁を感じる」

「ちょっとじゃない、すっごく感じる。私のこと助けてくれたしさ!今、神様と会ってる気分だよ」

 その一言に、桜はメロンソーダのストローを少し噛み、じゅっと吸い込んだ。

◇◇◇◇◇ 

 朋子との女子会を終え、桜はバイクでゆったりと帰宅した。

 初めての同級生との喫茶店。興奮は冷めやらず、また行きたいけど自分から誘っていいのか、誘われるのを待つか。次に繋げるにはどうすればいいのか、よくわからない桜だった。

 バイクが村の敷地内に入った。田んぼ畑が広がる中を、ぽってりした小型バイクが走っていく。向日葵たちの働く役場もちらりと見えた。

 頭の中が喫茶店から先ほどの「現象」に移った。墓場で女子たちが止まって見えたことだ。

 あれは普通の事ではない。明らかに何らかの力が働いていたように思えた。

「私の能力は壊すことと治すことだしなあ」

 ふと、森のバケモノに踏みつぶされそうになった時のことを思い出した。

「あの時も、止まって見えた…同じだ」

 帰宅した桜はさっそく、通学カバンの前ポケットを開けた。向日葵にお守りの書かれた小袋を持っているように言われ、入れておいたのだ。

 袋を取り出すと、後ろに描かれていたはずのお守りマークの部分だけ、切り取られたように穴が開いていた。

「…橘平さんの…」

 桜は早速、橘平にメッセージを送った。

〈橘平さんすごい!!〉

〈なんかあった?〉

〈あった!〉

〈なになに?〉

〈文字無理。電話していい?〉

〈OK〉

 ワンコールで橘平は出た。


 毎日元気、三宮伊吹。それを煙たがる人間もいるが、そんなことは気にしない。

 もちろん月曜の朝からも元気な伊吹は、廊下で出会った部下の葵に「おはよう!」と白い歯を見せ挨拶した。

「おはようございます、伊吹さん」

 普段であれば、葵は美しい無表情で挨拶を返す。

 しかし、今日はわずかにだが口角があがり、目じりが緩んでいる。葵が微笑んでいる。多くの社会人や学生が憂鬱になる月曜日の朝だというのにだ。

 伊吹は葵に良い変化を感じた。

「今日はご機嫌だね。何かいいことでもあったのか?」

 その理由は、向日葵が一人で家に来てくれて、なおかつナポリタンを二人だけで作って、さらに二人きりで食べたからである。彼女との関係は「なゐ」を消滅させるまではきっと思うようにいかないけど、一歩でも半歩でも近づいてくれた。それだけでも、葵にとっては大きな出来事であった。

 そんなこと、一回り近く年上のお兄さんに正直に話す訳がない。葵は適当に答えた。

「朝、クモが枕元にいたからです」

「おっ、それは縁起がいいな!機嫌もよくなるはずだ」

「そうでしょう?伊吹さんは毎日、機嫌がいいですね」

「当たり前だ!生きているからな!」

 伊吹は特大スマイルと響くいい声で返した。

「なるほど、深いですね。生きている限り、伊吹さんはいい感じなんですか」

「そうだ!何があっても生きていればいいのだ。葵君も生きるといい。素晴らしいぞ」

「参考にします」

「よし、じゃあまず、朝起きたら水を一杯飲むと良い!」

「へーそれでいいんですか」

 伊吹と葵は別方向ながら同じ天然である。二人が会話すると、だいたい意味が分からないのにかみ合うという不思議が起こるのだ。

 同じ人種でありながら、葵は伊吹の事を子供のころから「面白いけどめんどくさいなあ」そう思っている。

 一方、伊吹は意外と葵のことをよく見ている。落ち着いて見えるけれど、実際は悩みがちで、それを人に言えず抱え込んでいる子。「何でも言える友達でもいるといいのに」と、葵が子供のころから心配している。

 例えば職場で先輩や上司からつつかれても我慢している。桔梗は葵をおもちゃにするし、蓮はなぜか目の敵にしている。課長は誰に対しても失礼なので省く。向日葵は仕事で辛いことがあると桔梗に相談しているようだが、彼は同年の向日葵、仲良しの樹にも話していないようだ。

 伊吹は葵が入職した日「なんでも話してくれ!!」大きく手を開き、そう言った。葵は冷静な顔で「はい」と返した。

 いまだに話してくれたことはないし、葵の性格からして実際には話してくれるとは伊吹も思っていない。それでも、いつかは心を開いてほしいという気持ちを持って葵に接していた。

 彼の微笑に、伊吹はさらに機嫌がよくなった。

「生きているといいことがあるもんだな!」言いながら、課の入口をくぐる。

「何ですかいきなり」

 伊吹は葵の肩を組み「君が元気だからさ!」そう言い、自身の席に着いた。

 意味がわからない葵だったが、伊吹の元気さには悪い気がしないのだった。

◇◇◇◇◇ 

 そしてご機嫌な葵は、朝から善行を積み始めた。

 廊下で大量の資料を抱えているご婦人の資料を一緒に運んであげたり、給湯室の高い棚に届かない女性職員の代わりにおぼんを取ってあげたり。

「いやあ!ゴキ!」

 虫が苦手な樹の代わりに男子トイレのゴキブリを始末したり。

 貧血を起こした若い女子職員を医務室に運んだり、バケツに躓いた八神課長を倒れる寸前に後ろから抱えたり。

「ひえ!ありんこ!」

「樹ちゃん、よく田舎で生きてこられたな」と、虫が苦手な樹の代わりに彼の机に現れた蟻を逃がしたり。

 もちろん、普段から困っている人がいれば無視はしない。素行がいいからこそ、女性たちから人気があるのだ。

 ただこの日の葵はいつにも増して優しく、きらきらしていたという。貧血を起こした女子は、「お姫様の気分を味わえた」と自慢したところ、しばらく周りの女子職員から無視を決め込まれたとか、されていないとか。

 その上機嫌が終了したのは午後2時だった。

 二宮課長は給湯室で淹れてきたコーヒーを手にし、「うわー、やばいよ葵君」そう言いながら課に戻って来た。

「どうしました」

「感知したよお」

 今、課内には課長と葵の二人しかいない。

 誰も駆除が終わっていない、他の仕事がある課員もいる、自然環境課にも声をかけたが業務が忙しく手を貸せない。そんな状況である。

「どうしよう…」

 課長はマグカップを両手で包み持ち、葵の机の側でつぶやく。

「弱くはない、かな…ほんとは二人一組じゃなきゃいけないんだけどさ…たぶん、まだしばらくは誰も…」

「…一人で行きます」

 そう言って葵は立ち上がった。

「え、大丈夫?」

「課長来てくれますか?」

「お腹痛くなってきた」

「だめなら電話します。早急に誰か寄越してください」

 葵はお守りが描かれた小袋を作業着のポケットに入れ、日本刀を入れた猟銃用ケースを背負って役場を後にした。

 一人での駆除は初めてだった。

 というより、これまで一人で駆除に出た課員は皆無だ。基本は二人一組が規則であり、今回は緊急対応である。課としても、葵としても初めてのことで、どう転ぶかわからない。

 これまでのような大したことのない妖物ならば、一人でも不安はなかった。

 けれど弱い方が少ない今、いかに優れた能力と武術を持つ葵と言えど、いつもの何倍もの緊張は嫌でも強いられる。

「蓮さんでもいいから、誰か来るかな…」

 葵に嫌味を言う蓮の手ですら借りたい。それでも今は、一人で行かねばならない。葵はメガネを外し、日本刀を手に車を降りた。

 到着した東南地域の山間には、「弱くはなさそう」な妖物が待っていた。

 2トンはありそうな、巨体の豚型だ。前足が異様に太くぼこぼこしたイボが体中にはびこっている。そして耳と尻尾がない。

 葵に気付いた豚は、のそりと彼に正対した。

 どちらも間合いを図り、動き出しは慎重になっている。葵の足元で小枝がぱき、っと折れる音がした。

 その音に気を取られた瞬間、豚が葵をめがけて走って来た。そのまま切れる、と袈裟懸けに刀を振るも、豚は寸ででひらりと避け、葵を飛び越えて背後に周った。大きさのわりに身のこなしが軽い。

 急いで豚の方に向き直り、間合いを取り直すも、豚はまた襲ってきた。葵は近くの木に急いで登った。

 豚はがりがりと幹を掻く。木には登れないらしく、途中から諦め下から仰ぎ見ている。

「このまま降りれば…突けるか?」

 呟いた時、豚は巨体を木にぶつけてきた。激しく揺れる枝から振り落とされないよう、葵は踏ん張った。

 妖物がまた体当たりの姿勢に入ったところで、葵は刀を下に向けて飛び降りた。

 敵は意外にも判断力に優れ、さっと移動する。葵は飛び降りるだけになってしまった。急いで刀を持ち直し、豚がいる方向とは逆に走り出した。もちろん、豚は追いかけてくる。

「っはあ、逃げてるだけじゃ、埒が…!!」

 走りながら、ポケットの中の小袋を思い出した。小袋を取り出し、葵は急停止して振り返った。

 そして、迫る妖物の前に「お守り」を突き出した。

 やはり豚は止まった。止まる、というより手足を動かしてもこれ以上進めない、そういう風であった。

 左手でお守りを突き出しつつ、葵は右手で豚の喉に日本刀を突き刺した。閃光とともに、豚は溶けていった。

「…これは」

 溶けていく様子と左手の小袋を交互にみる。お守りマークの部分だけ、穴が開いていた。

「有術だ…」 

 葵は確信すると同時に、感じたことのないほどの緊張と不安から解放された。

「なんなんだ、橘平君!」

 その場にしばらく座り込んだ。

 退勤時間10分前に葵は役場の玄関をくぐった。

 そこから課に戻るまでの間、妙に多くの視線を感じた。すれ違う人や窓口の職員、用事があって来ている村民-すべての人が葵を見てくる。

 もしかしたら、作業着の土汚れがひどいとか、顔が汚れているとか、もしかしたら妖物から飛び散った何かが付着しているのだろうか。そう思い葵は一旦お手洗いに寄ってみるも、作業着と顔に多少、泥や砂が付いているくらい。特別視線を集めるような汚れはなかった。

 よくわからないまま課に戻ると、唐揚げ課長と樹が「良かったー!!生きてるー!!」と飛びついて来た。

 向日葵の兄だけあり、骨が軋むほどの力で抱き着く樹。厚い体のせいか暑苦しい。

 一応、武道家で、なかなかの腕力を持つ課長。しかも、油っぽい腹と腕と顔が密着してくる。

 逃げたくても逃げられない葵は、息も絶え絶えで訴える。

「か、簡単、には、し、死にませんから!は、離して、ください、くるし…」 

「わーん、ごめん」ぱっと樹は手を離した。

 課長も「すまんすまん」と言いながら離れ、「はー、良かった~定時で帰れる~。あ、報告書は書いてから帰ってネ」時間でさっさと退勤してしまった。

 唐揚げって登録しようか、ぼんやり考えた葵だった。

 席についた葵は、さっそく報告書に取り掛かった。いつもより顔が軽い感じがしたけれど、気にせずパソコンへ向かう。

 実はこの時、葵はメガネをかけ忘れていた。彼は一族の中でも有術の才能が抜群である。それゆえに、能力が勝手に溢れてしまうのであった。手にするものすべてが武器になるのは危険なため、特殊なメガネで有術を抑えている。一人での駆除という初めてのことで心身ともに使い切ってしまい、メガネことを失念していた。それに、有術を抑える必要もないほどに、彼は心身の力を使い果たしていた。

 ゆえに、妙に多くの視線を集めすぎてしまったのだ。素顔の葵を見かけてしまった女子は狂気し、男性陣の目も惹いていた。メガネには顔のきらめきを抑えておく役割もあったらしい。

 他部署だけでなく、駆除で見慣れているはずの環境部も同様だった。緊張感が走る仕事中と、落ち着いた室内では、葵の顔は違って見えたのだ。

 ただ、退勤することしか頭にない課長はそんなことに気づきもしない。

 誰よりも素顔を見慣れている向日葵は、今さら何も思わなかった。帰るついでに「メガネかけ忘れてる」そう言おうとした。

 ところが、最近配属された職員の一宮あさひが「アオイくん、メ・ガ・ネ」と先に指摘してしまった。

「あ、車だ。まあいいや」葵はそのまま報告書の作成を続けた。

「結構うっかりさんだよね」あさひが葵の両肩に手を置く。「また明日」息をたっぷりに耳元でささやいたが、葵は無視した。

「アオちゃん」

 カバンを手にした樹が声をかけた。

「子供の頃も思ってたけど、女の子のアオイちゃんも見てみたかったナ…」

 樹はそっと葵を抱きしめ、帰っていった。

「は?女の子の俺?意味が分からん」

 現在も中性的な顔立ちで、幼少期に「女の子みたいだ」と言われたことがあった葵。大人になってから、また似たようなことを言われるとは意外だった。

「……このナリで女の子って」

「それだけおキレイなお顔って意味よ。メガネってけっこー顔変わるから。じゃあね」と桔梗は去っていった。

 子供のころ、水泳だけは仕方なくメガネを外していた葵。その時の違和感もメガネの有無だったのかと、今になって納得したのだった。

 環境部の前を通った八神幸次は、一人残業に励む葵を見つけ、声をかけた。

「葵君、午前中は助けてくれてありがとう」言いながら、葵の机に近づく。

「いえ、そんなお礼を言われるほどのことは」

「おりょ、君、メガネどうした?」

「車に置いてきてしまって」

「無くても見えるの?」

「…まあ、近視用ではないんで」

「ふーん、パソコンメガネか何かかな」

 幸次はメガネを外し、葵の顔を至近距離でじろじろ眺める。

 知り合い程度の人に顔を近づけられ、葵は変な緊張を感じた。

「素顔、予想以上にかっこいいねえ。きっとあのアクセサリーも似合うな」

「…向日葵から受け取りました、ありがとうございます」

 幸次は葵の顔から離れ、メガネをかけ直した。

「あれね、某高級ブランドの男女兼用デザインでさあ。シンプルだからさりげなく付けられそうと思って、お土産に渡してもらったんだよ」

「そうでしたか」

「うん。じゃあ残業頑張ってね。それじゃあ」

 入口に足を向けた幸次だが、ふと思い出したように言った。

「そういや、向日葵ちゃんもあれと同じデザインの色違い持ってったねえ。あの子がゴールド、君シルバー。じゃあ、帰るね」

 幸次はそう言い残し、帰っていった。

「…向日葵とおそろい…」

 葵はしばらく、幸次の立ち去った先をぼーっとみつめていた。

◇◇◇◇◇

「ほんとすごいの!すごいすごい!」

『え?え?』

「すごいのよー!跳ね返しちゃう感じ!」

『ちょ、ちょっと落ち着いて!何がすごいの?』

 桜は昼間に優等生たちを撃退した八神の「お守り」について、橘平に報告すべく電話をかけていた。しかし、桜は興奮で具体的な説明ができず、橘平は困惑していた。 

「あー、ごめん。だってすごいもん。バリアしてる感じ」

 桜は制服のまま、畳に三角座りし、大きな丸いクッションを抱え込んだ。

 彼女の部屋は8畳ほどの和室。小学校の頃から使う学習机や大き目の本棚が置いてあり、本棚の一角には黒猫やピンクのウサギ、トイプードルなどのコロンとした小さなぬいぐるみが飾ってある。一見、シンプルで片付いているように見えるが、他の荷物は押し入れに詰め込んでいる。

『バリア?』

「森の巨大なバケモノがさ、私たちを踏みつぶそうとしたじゃない?」

『したした』

「あれとおんなじことが起こったのよ」

 放課後に起こった出来事を、桜は橘平に語った。彼女の話の最中、橘平は一言も発さずにじっくりと聞いていた。

『森のあれも、八神のお守りの効果だったってこと…なのかな』

「絶対そうだよ!」

『すごいんだな~お守り』

 橘平の言葉は、あくまでも「八神のお守り」に対する感想だ。

 桜はお守り自体というより、「…お守りっていうか、橘平さんの有術じゃないかな」。

 がた、ぼと、っと何かが落ちてぶつかったような音が、スマホから聞こえてきた。

「橘平さん?どうしたの?」

『まじで?え、俺が超能力者ってこと?』

 声の感じからすると、橘平は混乱しているようだった。

 それも当然だろう。今まで平凡な環境で育ち、学校でも目立たない生徒として生きてきたのに、突然、超能力に目覚めたかもしれないのだ。

「お守り自体に効果があるならさ、私が描いても効果があると思うけど」

『あー、八神の人間が書かないと効果ないって聞いたな』

「そういうことよ。八神の人しか使えない有術なのよこれ」

『…そう、か…』橘平はゆっくりと『父さんやじいちゃんも使えるのかな…?』疑問を口にした。

「可能性はあるよね。でも、今それを聞いていいかどうか」

『そうなんだよなあ、まもりさんのことより聞きにくい。それに封印の事とか桜さんたちの事とかバレたくないし』

「ごめんね、橘平さん。気を使わせて…」

 桜はクッションをぐっと掴む。

『こっちこそだよ!勝手に俺から首つっこんでるわけだからさ、ほんと、桜さんは気にしないでよ!!』

 何を言っても、何をしても、橘平はどこまでも優しい。優しすぎて不安になるくらいだった。

「ありがとう、橘平さ」

「おねえちゃん」

 桜が顔をあげると、横に妹が立っていた。

 話に夢中で、部屋に誰かが入ってきたことに気が付かなかったのだ。

「つ、ばき…!」

 橘平に何も言わず、桜は急いで通話を切った。
 妹はいつから居たのか、電話の内容を聞いていたのだろうか。

「おでんわしてたね」

「う、うん、そうだね、お電話してたよ」

「めずらしい」

「そんなことないよ、電話くらいするよ」

「だれ?」

「友達」

「きっぺーだれ?」

 しっかりと、電話相手の名前を聞いていた。桜の心臓は激しく動く。痛む幻覚を持つほどに。

 桜の小さなミスで、橘平に危険が及んだら大変なことになる。強い恐れを感じた。

「ちがうよ、朋子ちゃん。朋子ちゃんと」

 桜はクッションを投げ出し、椿に向き合った。

「きっぺーって言ってたよ」

「と・も・こ。朋子ちゃん」

「ちがう、なんでうそつくの」

 言いくるめられてくれない妹に、桜は苛立ちが隠せなくなってきた。椿の腕を指の跡が付くほどに強く掴み「朋子ちゃんって言ってるでしょ!!」と怒鳴った。

 叱られた椿の目に、徐々に涙がたまる。

 桜は焦った。大声で泣かれれば、きっと母がやってくる。なぜ泣いているのか問われるだろう。まだ小さい椿は、そのまま、電話の事を話してしまう恐れがあった。

「ご、ごめんね!ごめん、お姉ちゃんが悪かったね。つ、椿は、何しに来たの~?」

 急いで椿をなだめる方向に転換した。

「あ、あそ、あそびたいから…」

「うん、わ、わかった!遊ぼう!何したい?」

 椿は顔をくしゃとさせ、ひくひくと肩を震わせる。

 桜は妹を抱きしめ背中をさする。

「泣かないで、泣かないでね。お姉ちゃんが悪かったの。落ち着いてね」

 妹をなだめるとき、桜は無意識に向日葵がするようなことをなぞっている。向日葵は彼女が落ち込んだり泣いたりすると、よく抱きしめて背中をさすってくれたのだ。母よりも身近な女性なのだ。

 椿の様子が和らいできたところで、桜は抱きしめていた手を離し、椿に座るよう促す。椿は素直に畳の上に正座した。桜も合わせて正座する。

「遊んであげるからさ、一つ、お願い聞いてくれないかな?」

「いいよ」

「私が橘平っていう人と電話してたこと、お父さんにもお母さんにもおじいちゃんにも、神社の人にもお守りの子にも、とにかく絶対、誰にも言わないでくれる?」

 桜は念のため、椿に約束させようとする。

 幼い子供にこの内容と意味が理解できるのか、約束をして効力があるのかは不明だ。けれども、何もしないよりはマシだろうと思った。橘平のことを隠し通すために、今思いつく限りのことはやらねばならない。

「ないしょ、するの?」

「そう、内緒にするの」

「なんで?」

「お姉ちゃんがその人と話したことが誰かに、特にお父さんやおじいちゃんにばれたら、そうだな、私、家を追い出されるかもしれない」

「え!?やだ!!」

「イヤでしょ?それにぶたれたり蹴られたりもするかも」

 妹が怖がりそうに、多少大げさに話す桜。大げさとはいうものの、本当に橘平と親しいことが発覚したら、桜はもっとひどい折檻がありそうだと感じている。そして、橘平にはいったいどんなことが待っているのか。想像もつかなかった。

 椿は桜の膝に両手を載せ、スカートをくしゃっと掴む。

「おねえちゃんかわいそう!!」

「そう、可哀そうなの。だからお願い、言わないでね」

「うん。ぜったいいわない」

「約束」

「やくそく!」

 桜は自身の小指を椿の小指に絡ませ、指切りをした。

 機嫌が直った椿は、桜のひざにごろんと頭を載せる。

「ねえ、きっぺー、ともだち?」

「…まあ」

「おねえちゃんのおともだちなら、つばきとあそんでくれるの?」

「友達とか関係ないと思うけど、優しいから遊んでくれるかもね」

「ふーん」

 椿はぱっと立ち上がり「ねえ、はやくあっちであそぼ」小さな手で桜の指をぎゅっと握り、遊び部屋に行こうと引っ張った。

 桜は引っ張られるまま、部屋を出た。歩きながら、反対の手に持ったスマホで素早く橘平にメッセージを送った。

 

〈いきなり電話切ってごめんね。妹が部屋に入ってきちゃった〉

〈あー、そうなんだ。そりゃしょうがないね。じゃ、また〉

 本当にどこまでも優しい橘平。甘えてしまう桜なのであった。


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