ティールの価値規範とその困難さ

子ども支援の事業をやっている僕たちがティール組織を目指してみた  第6話

前回の敬語をやめた話。
現在、14名のスタッフがいますが、敬語をやめて、愛称を使うことに抵抗を示す人もいました(最終的にはみんな受け入れますが)。「年齢が高く」「男性」であることは傾向を持ちやすいと感じています。これまで働いてきた組織での経験、そこで培ってきたプライド、男性的なホモソーシャルな組織集団での生育歴(部活やサークルなど)などが影響しているのかな?と思いますが、ここでは仮説に留めておきます。

何が言いたいかというと「ティール組織的な何か?」に取り組もうとしていると、ティール的な経験や考え方を持たない人たちによって、抵抗を受けるってことです。っていうか僕も含めそもそもみんなそんな経験をしたことはないのです。

そう、そもそもそんな経験をしたことがない、もちろん僕も。ティール組織をつくろう!ってなっても、そこからのスタートなのです。ひええ…!

ではティールの価値規範とはなんでしょうか。
僕なりに一言で言うと「自分の真性さに気づき続けること」と言うことかなって思います。そして組織としてみると「組織は生命体である」ってこと。

一部抜粋します。
「自分のエゴを一定の距離を置いて眺める」
「支配したい、自分を好ましく見せたい、周囲になじみたいといった欲求を最小化する」
「人生がエゴを失う恐れによって反射的に振り回されることはない
人生の豊かさを信頼する」
「欠乏と恐れにまみれた人生か、信頼と潤沢に満ちた人生か」
「意思決定の基準が外的なものから内的なものへと移行する。自分の内面に照らして正しいかどうか、つまり「この判断は正しいそうか?」「私は自分に正直に生きているか」「自分がなりたいと思っている理想の人物は同じように考えるだろうか?」「私はこの世界の役に立っているだろうか?」を重視する」
自分が何者で、人生の目的は何か、と言う内省に駆り立てられる」
大志を抱いているが、野心的ではない人
分離が私たちの人生をいかに粉々にし、それがどれだけ負担になるかについての感覚が鋭くなる」
全体性(ホールネス)を心の底から渇望するようになる」
(全て『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』より引用)

どうでしょうか。
ここから「ティールでないもの」を引っ張り出してくるともっとわかりやすいでしょう。
不安や恐怖、欠乏や損得を前提に行動しているうちはティールではありません。
他者に合わせて汲々としている、他者の顔を見にまとう、他者の評価を恐るなどもそうです。
自分や他者との関係の部分に焦点を当ててバラバラにしてしまう。
ある種の関係性(上下関係)の中で支配・被支配の関係に陥る。
自分や他者の欠点や欠落ばかりを見る。
ノルマや売上など、わかりやすい数値化可能な達成を追い求める。
これらはティールとは言えなさそうです。

むしろ「自分らしくあること」「自分を統合的を見ること(全体性)」そして「内的な基準からさまざまな判断基準・行動基準を作っていくこと」こういった視点に立てている一部の人たちがティールの価値規範の中に生きていると言えそうです。

考えてみれば、僕たちがそのように生きてきたか、そして生きられるような環境に身を置いたことがあるか?と言われるとほぼほぼ「否」と言わざるを得ないのではないでしょうか。
特に日本人は欧米に比べれば、学校で、会社で、ヒエラルキー前提の指示・命令前提の、自分の主張するよりも忖度や建前が前提の社会の中で生きています。だから、この国においてティールの価値規範(パラダイム)を実感してもらいながら組織を作っていくことは困難を伴うんだなーっていうことを僕は実践の中で感じていくことになります。もちろんその可能性の大きさも感じながら、です。

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