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進撃の巨人、エルヴィンから考察する

『進撃の巨人 ファイナルシーズン 完結編 前編』が放送されましたね。すごかった、、、。

すごい漫画(アニメ)だなーって思います。歴史に残る、もはや思想書。

登場人物がそれぞれに背景があり、それが丁寧に描かれ、その背景ゆえの「今の葛藤」がある。
背景が違うと、同じ状況においてもそれぞれの選択が違う。その選択の違いが対立となり愚かな戦いは繰り返される。
これでもか!ってくらい、正義と対立が描かれる。人間に対しても社会に対しても、絶望と愛が繰り返し描かれていて、、、笑。

そして人物に対しても感情移入(投影)したくなる。
僕が投影してしまうのは、アルミンとライナーとエルヴィン。

弱さゆえに対話を志向するアルミン。
実直さゆえに重ねてしまった罪を背負いながら試練に臨むライナー。
リーダーゆえの葛藤と重荷を背負い続けるエルヴィン。

今日はエルヴィン団長について書くことにします。

調査兵団という「死地への冒険といずれほぼ確実な死」が前提とされた軍隊の団長であるエルヴィン。彼には隠された夢があります。
その夢は本人にとって私的なものとして捉えられ、夢を叶えるために「冒険と死」の世界に飛び込み、そしてそこで力を発揮することで出世し、団長まで登りつめる。
でも立場が上にいくにつれ語られる言葉は制限される。正義を語り、正しい戦略を示し部隊を鼓舞する。語られる言葉は嘘ではないけど、本当の想いとは常に葛藤がある。己の夢は私的なものとして心の中に押し込まれるけど、でも、手放されてはいない。

巨人たち(や人間たち)との戦いの中で部下はたくさん死に、その死を背負うことでより重たい大義をさらに背負う。
背負った大義に歯を食いしばり、目的を果たすために部下の死を厭わず、一方で、部下の死を最小限にするために戦略を練り上げる。絶望の死地で決断して仲間を救って帰還しても、その決断を責められ、そこでも言い訳をせず、また大義を語る。背負うものは増えるけど夢は叶わない。

なんか地獄です笑

会社のリーダーとして生きてきた自分にいつの間にか重ね合わせてしまって、彼が死を迎えるシーンは(とんでもなく名シーン!)涙なしに見られない笑

エルヴィンかっこいいなー。

でもねー、エルヴィン、不自由そうなんだよな。

息苦しそう。背負えば背負うほど、苦しい。眉間に皺がより、絶望の中で生きていかないとならない。正しさを背負うほど息苦しい。その正しさは確かに正しいんだけど、でも正しいのに苦しい。

そんな話を友人としていたんですけど、「でも、風の谷のナウシカのナウシカって自由そうだよね。なんでだろ?」と言う話に展開しました。

コミック版のナウシカ、さまざまなものを背負っている、ものすごく葛藤しているし地獄を生きている。エルヴィンと同じく人類の存亡を背負っている。背負いすぎってくらい背負い、そこで苦悩する。

でもなんか根底に「自由」がある。そんな感じがある。

その違いってなんだろね、、、って。

僕たちが大人になる。大人になると背負うものが増える。
家族だったり会社での責任や社会的責任。
より多くの人生と共にありながら、その人の何かを引き受けることになる。重たい言い方に聞こえるかもしれませんが、長く生きてそれなりの立場に立つと、多かれ少なかれそうなります。

なんか息苦しい?
それともだからこそ自由?

それって重たいことなのだろうか?
それとも祝福に近いものなのだろうか?

そんなことを考えながら、進撃の巨人を見て、これまでを振り返っていました。とにかく『進撃の巨人』は繰り返し見よ!って言いたいのです笑

重苦しい正義と責任か。
ある種の重さを背負った柔軟な正義と自由か。

二者択一というわけではないです。
ただ、人って「善いこと」をしようとして一定の経験を積むとだんだん前者に寄っていくんだなーって思います。
それが悪いってわけではなく、自覚し、後者に寄せ直す。両方を行き来する。そんな営みが必要なんだなって思うのです。
秩序と混沌を行ったり来たりする、そんな営み。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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