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ポケモンキッズと旅する 第48回 ヒノアラシ|大阪府岸和田市

本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

第四十八回、ヒノアラシと岸和田です。

大阪府岸和田市・岸和田城は、大阪南部(泉州)の要衝として重要な地位を占めていました。

城の西側は紀州街道に面しており、交通の要衝でもありました。

一見ほぼ平地にありながら、そこは防御に適した立地となっています。

実は台地の端に築かれているため、岸和田城の東側は急峻な崖となっており、現在でも急坂となっています。

また古地図によれば、岸和田城の堀はかつて二重・三重に設計されており、より堅固な防御体制が敷かれていました。

これにより、敵が堀を越えることが難しく、城内への侵入を阻む重要な要素となっていました。

このように、堀の水面に反射した天守閣の姿も見ることができます。

岸和田城は、織田信長による第一次紀州征伐の際、中継地点となりました。

この時、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)も織田信長の配下として征伐に参加しています。

その後、小牧・長久手の戦いの隙を突いて、紀州征伐の対象だった根来衆や雑賀衆などが反撃に出ました。

この際、岸和田城は大量の蛸が現れ敵を撤退させたことで救われたという伝説(蛸地蔵伝説)があったりしますが、岸和田城の東側の崖や、複雑な堀の構造が、攻撃側の進軍を阻む大きな要因となったのでしょう。

岸和田城の「蛸地蔵伝説」。
戦国もののゲームはもっと積極的に大量の蛸が岸和田城を救ったことをモチーフとしてゲームに落とし込んでいただけませんか?(小声)

結果として、岸和田城は陥落を免れ、根来衆や雑賀衆などを退けることに成功しました。

そして、秀吉自身が岸和田城に入り、第二次紀州征伐として根来衆や雑賀衆などに反撃に出ます。

現在の天守閣は1954年に再建されたものですが、その姿は往時の威容を偲ばせます。

天守閣からは大阪湾やさらにその対岸の六甲山系まで一望することができます。


岸和田城の天守閣前に広がる「八陣の庭」は、諸葛亮の「八陣の法」をモチーフにしています。

「八陣の法」は、天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の8つの陣形を組み合わせた戦術です。

庭園は中央に「大将」を象徴する石組みを配置し、その周りを8つの石組みが取り囲み、それぞれが「八陣の法」の各陣を表現しています。

例えば、「風陣」は横長の石で暴風を、「龍陣」は斜めの長石で昇龍を表現しています。

諸葛亮といえば石を積み上げた陣で陸遜を撤退に追い込んだ「石兵八陣」が有名ですが、この岸和田城の「八陣の庭」は「石兵八陣」とは異なります。


岸和田城の南隣に位置する五風荘は、かつて城内にあった「新御茶屋」の跡地に建てられた和風建築です。

江戸時代、この地は岸和田藩主の接待などのための茶屋として使用されていた、城の付属施設でした。

門をくぐると、池泉式の日本庭園が目に入ります。

庭園の中心には「ひょうたん池」と呼ばれる池泉があり、周囲の緑と調和した美しい景観を作り出しています。

池の中島は蓬莱山に見立てられ、不老不死の妙薬を運ぶ舟を象った舟石が配されるなど、象徴的な意匠が施されています。

これは、シャッターを切る瞬間にわざと回転させてブレさせた写真です。

現在、五風荘は和食レストランとして公開され、庭園は無料で開放されております。

岸和田城の「八陣の庭」は枯山水庭園として、石と砂利で自然の景観を表現しています。

一方、五風荘の庭園は、池を中心とした池泉回遊式庭園として、水と緑の調和が生み出す生きた風景を楽しませてくれます。

この二つの庭園は、静と動、抽象と具現という対照的な日本庭園の概念を、至近距離で体験できる稀有な場所と言えるでしょう。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。