八月の虹
八月は、二回もおおきな虹をみた。
暑さにうんざりしている日々だけれど、時々秋からやってきたような、からっとした風が吹くようになって、今年も夏もようやく終わるのだなとほっとするような、どこか切ないような。
暑すぎる、冬が恋しい、とさんざん夏を恨めしく思っていたくせに、いざそれが終わるとなると、どこか切ない気持ちになってしまうのは、どうしてなんだろう。
何かが終わるのは、寂しいことが多い。好きなドラマの最終回や、最後にとっておいたショートケーキの苺、映画のシリーズ最終作品や、恋など。それは、はじまったそれが好きだったから、好きが終わることが寂しいから、どうか終わらないでと願うのではないか。
けれど、夏はどうだろうか。夏が始まって、夏が好きだ!と思ったことは、ない。むしろ暑すぎて嫌いだ、と日々考えていた。そして、夏に対して、どうか終わらないで、、と願ったこともまた、ない。早く秋になればいいのに、と炎天下で思っていたし、今もそう思っている。
それなのに、夏が終わると聞くと、なぜか切なくなるのだ。ひと夏の恋があったわけでもないし、夏に悲しい思い出があるわけでもない。
夏の終わりに思い出すのは、小さいころ初めて食べたアイスキャンデーの固さや、ぜんぜん割れない西瓜、祖父がこっそり台所で心太をすする音や扇風機の首振りを止めるスイッチみたいな部分、そういうありきたりな情景ばかりだ。
本当は、晩夏の切なさの正体を私は知っているような気がする。戻りたくても戻れない「あの頃」があって、忘れてしまった「あの頃」のできごとも沢山ある。今年の夏のことを「あの頃」と呼ぶ日がきて、その時に私は、この夏の何を覚えていて、何を忘れてしまっているのだろうか。
切なさの正体なんて知らないふりをしたまま、去ろうとしている夏を、なーんか切ないなぁと言いながら今年も見送るとする。
美味しいごはんが食べたいです