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鍼治療、翌朝の"気"の流れ


朝、目が覚めてから試しに"気の流れ"を確認してみた。

両方の手のひらをくっ付けないで合わせて、手の中に温かさを感じられるのかどうかを確かめる。分かりやすくは言い切れないのだけど、そのような事をしてみていた。

手を擦り合わせてから"気"を確かめる方法があるようだけど、私は昔から何もしない状況からこっそり確かめていたので、そのようにしていた。多分、"気"の存在を信じたいし、"気の流れ"はあると思ってもいるのだけど、そう思っているとはどこかで思われたくないという矛盾した気持ちがあるから、ちゃんとした方法を探しもしないで、そのままに在るのをただ確かめたかったんだろうと思う。
屈折しているのに絶大な信頼を寄せていたのがこの事からも分かる。この言葉を知っている方なら、どうして屈折した言い回しをするのか、多少の同情はして下さると思う。

普通は鍼治療を受けた翌朝、患部がどれだけ回復しているとか(今回も腰をスムーズに捻る事ができるようになって、姿勢まで良くなっていた)、足首から膝上の太腿までほっそりとして浮腫みが取れていたのを驚くべきだと思うし、その凄さだって分かっているのだけど、二度目の鍼治療後、朝起きるまで気を失うかのように熟睡をした時と同じくらいに「掌と掌の間が温かった」ことに感動していた。

"気"のお話をすると、手の温かさでしょ?と言われることがあるけれど正確にいえば違うと思っている。何故なら、その温かさがある時はむしろ手を合わせてみると少し冷たく思うから。手に温かさが無いのではなくて、それより間にある温度が高くて、手を合わせると少し低い感じがするように思っている。

池上正治さんの本の中で紹介されていた、手の間にゴム風船のように感じられる"気"というものを、私は子供の頃はいつでも簡単に体験する事ができていた。

あやとりのようなポジション?から、アコーディオンをひくように軽く左右に腕を動かして、掌を近づけたり離したりするだけで温かさと弾力のある感触があった。私の場合はゴム風船の手触りで、手の間の距離も30センチもないぐらいだったけど、開いた手が引っ張られるように近付いていったのは覚えている。

子供時代は掌と掌の間隔が近い時にはゴムボールを触ったような弾力性のある感触が得られていました。(大人の今では調子のいい時だけ)

『気のトレーニング』として、そのモワモワとした手触りのある感じから始めて上に書いたようにアコーディオンを弾くような動作をしながら少しずつ距離を伸ばしていく方法を教わっていたのを書きました。
その時、最大に離した場合が30センチぐらいの間隔だったというお話です。それ以上開くと、気配が無くなってしまったので。

漢方薬を飲んでいた時に教わった人体を構成する要素としての「気・血・水」。
文字から一般的にイメージされる事とは違った東洋医学独特の考え方を学ぶ基礎の言葉となっていると聞いた。

生まれ持った"先天の気"と食事その他から自分で獲得していく"後天の気"という二つのものがあって、成長に伴って人生の始まりの頃には沢山あった"先天の気"を少しずつ無くしていくという考え方からすると、手の中の気配もまた感じ辛くなっていっても不思議ではないのかもしれない。
でも、池上正治さんの本の中にいらした"気"の先生はお若い方ではなかったようだから鍛錬する中で年齢とは関係なく、強く"気"を流す事はできるんだろうと思う。

蟹ヶ谷スポーツ整骨院からの帰り道、向かい合わせた掌が3センチ程の間をあけても温かかった。こんな事は久しく無かったので嬉しくて泣きそうになっていた。

一度目の鍼治療の後よりも、手と手の間にある距離を伸ばせている。
でも、喜んでいたのも束の間、子供時代に感じていた"弾力のある感触"は帰り道で消えてしまっていた。

生き生きとした植物を見るのが好きなのもそのエネルギーを感じられるからなのかと違う意識で見始めるようになりそう



鍼治療の翌日、お昼前。
まだ少しぼんやりしているのは午前中、横になっていたからかなと少し思っていたけど、どこかでそうではない事を期待しつつ、また手を向かい合わせてみていた。
すると朝と変わらない"温かさ"が感じられた。

あの特有の弾力のようなものは本当にない。でも、強い温かさは手と手の間に確実にある。無意識に更に強い温かさを求めるように右手を左手と少しずらすように自然に指先の向きを変えていた。
それからまた、間にある空気を撫でるように手を回していると多少弾力のようなものを感じ始めて、頭もぼんやりとしてきた。左手の薬指の付け根のあたりがヒリヒリとしてもきた。利き手から流れ始めて左手に流れていっているのか、よく分からないけれど、そうだと思える。

これって仏像とかインドネシアのダンスに似てないかな?とふと思った。
もじゃ先生の指ストレッチを見た時に労宮というツボを意識したけど、あの動きも考えてみれば手首の返しがダンスに似ている。

私の掌の合わせ方を検索してみる。見つかると思っていなかったけど"合掌 形"で検索するといくつか出てきた中に自分のスタイルが見つかった。

「虚心合掌(こしんがっしょう)」というのがとても似ている。
掌同士を合わせて少し隙間をあける形で、合掌の基本スタイルでもあるみたい。
祈る時の所作としか思ってこなかった合掌が実は"気"を出す動作なんじゃないかと、私は自然にそれに近付いたんじゃないかとそう思えてきた。

これも壁投げの時と同じに、感覚でやっていた事が実は正解だったらいいのだけど、そう思いながら続けていると、掌にもう一度、弾力を感じ始めて眉間の付近も次第にぼんやりしてきた。

手塚治虫さんの漫画「ブッダ」で、胡座をかいて座っているブッダのバックに小宇宙が描かれているというのがあったけど、今みたいな状況かと想像する。宇宙の中に浮かび上がっているというのではないし、そんなビジュアルが見えているのではないけれど。

冬場なのに爪も眉毛も伸びるのが早い。新陳代謝が早まっているのかもしれない。
知りたかった事でもあるし、信じたかった事でもあるのに、実感しながら本当の事に思えないというのも何とも言い難い感情がある。
それでも、"気"関連の文章によく見られる西洋医学の言葉では表せられない何かを感じている気がする。実際、血流も代謝も良くなって数字として見られる状況にあったとしても。


"気"は変調された低周波の赤外線などからなると、1977年の上海で発表されたとも本にあった。鍼治療に加えて受ける赤い光は単純な温かさだけではないのを理解できた気がする。


岩松先生に何度目かの鍼治療の後、頭がぼんやりしたことをお伝えすると、頭に上がり過ぎないように下半身だけじゃなくて肩にも首にも打って調整をしますとの説明を受けた。
今回の私の治療の場合、下半身にだけ鍼を打つと身体の下の方だけ血流が良くなり過ぎて頭の方にあがる一方になるので、上半身も血行を良くして循環していくように調整されるというお話だった。血の巡りをお風呂の水を温める事に例えるお話を聞いたことを思い出しつつ、身体の中の対流を想像しながら聞いていた。
それは身体への負担を考えると正しい方法かもしれないけど、少し残念な気もしている。

あの感覚は人生を取り戻しているような、そんな実感を持たせてくれる。特に自分が今現在不幸を味わっているというのではない。でも、歳を重ねるに連れて、老化に伴うのか漠然とした不安感というのを少し味わうような時も増えてきていたのに、それとは真逆の充実した何か。達成した時のような多少高揚する感覚を味わえる気がしている。

語弊があるのを承知で書くと、どこかで読んだドラックを使用した人のその時の感覚を思い出してもいた。

「気」で観る人体の中に鍼治療が薬物依存症の緩和ケアに利用されているという一文があった。検索してみると、今は熊本で小雀斎漢方鍼灸治療院をなさっている八尋優子先生のレポートで実際の所を少し読む事ができた。

薬物依存症に対する耳鍼治療
薬物依存症者回復過程における鍼灸の可能性  
薬物依存症に対する耳鍼治療の実践は欧米で活発である。1991年より、NIH(米国国立衛生研究所)の下部組織であるNIDA(米国薬物依存研究所:National  Institute on Drug Abuse)によって研究支援を受けることとなり、1993年にはNADA(米国薬物依存症回復支援耳鍼協会)の耳鍼が依存症から生じる渇望の回復に有効であり、副作用もなく安全で、安価であるとの調査報告が発表された。
覚醒剤などの薬物を使用すると依存が形成され、離脱症状に苦しむことはよく知られている。病気治療に必要とされる処方薬でも、誤った使い方を続けていると、同様の状態になることがある。
現代医学的観点からは、認知行動療法などの心理療法に併せて、対症療法として向精神薬等の投与が行われている。

薬物依存症の緩和ケアにおいて、今の日本では向精神薬を使用して対処されているとのこと。でも、治療者も本人も薬物治療に異なる薬物を使用する葛藤があるから、その時に鍼治療を使えば「薬物依存症者の回復の妨げとなる離脱症状、心身の不定愁訴を緩和し、自然で円滑な回復を助ける可能性がある。」というお話だった。

私が知っている耳鍼はダイエットの為に有効という食欲を抑える為に使われる、主に美容の用途でしか聞いたことがなかっただけに、このレポートを読んで、とても驚いている。
ダイエットの時の食欲を抑えるのも相当辛い事だけど「薬物依存の渇望」はその比ではないとも聞くので、鍼の効果の高さを改めて知った気がしている。

私にはドラックの体験はないから、片側だけの経験で語ることになってしまうけれど、薬物を使用した時の世界の見え方とか、特有の高揚感の説明し難い状況が書かれたお話と鍼治療を終えた後がとても似ていると思えた時があったから、緩和ケアに鍼治療の効果があったと聞いても何の不思議もなく理解できる気がしている。

ただ、残念なことも書かれていた。

日本においても鍼灸師の活躍の可能性は充分に考えられる。しかし、欧米とは薬物政策が異なり、同様の形での鍼灸治療は行われていない。

一野球ファンとして、どうしても考えてしまうのは清原さんのこと。野球選手は体力も精神力も圧倒的なものを持っているから、抑えにくい辛さを抑えてこられたのかもしれない。

精神力が体力に支えられる事があるのを、体力の衰えと共に強く感じ始めてきていたから、難しい局面でのサポートは「普通の体力の人」であれば、より必要になるかと思う。

八尋優子先生のレポートで、覚えておきたい言葉を見つけた。

乱用期間が短く軽度である者も、偏見が社会復帰を困難にさせる。医療の対象となる事で「犯罪者」から「患者」へと肩書きを変え、社会での受け入れを容易にする

私が年末から体験してきた事は、良い面での身体の不思議だったけれど、ある意味で身体に振り回されてきたのは事実なので、私より厳しい状況に置かれている方が得られるサポートの選択肢が少しでも多くあればと思い始めた。

身体に振り回されるといえば、時期的にも花粉症を思い出したので、「気」で観る人体 からもう一つのお話を紹介したい。

これからの季節、花粉症で悩まされる人が増える時期に、温灸をお勧めしたくなっている。

たしかにスギの花粉は、春先、大量に飛ぶのであり、杉林の上空は黄色くなる。だがしかし、その下にいても、花粉症にならない人はならない。要は本人しだいなのである。
「気」で観る人体  214頁

今まで花粉症ではなかった人が急にある年から症状に悩まされるのも珍しくないので、確かにそうだと思う。

かくいう筆者も、花粉症に悩み、大量のティッシュペーパーを消費する一人だった。だった、というのは、その症状をかなり軽減することに成功したからである。肝経を利用したもので、いとも簡単な方法である。

こういうエピソードは所謂「騙されたと思って方式」を採用するしかないのだけど、漢方薬に関してはタイミングを外さなければ自分でも活用できる機会は何度もあったので、私はこういう実際を見かけるとワクワクしてしまう。

勿論、薬局で処方して貰えば、一も二もなく確実なのだけど、こうして探し出す楽しみというのは老いていく身体とのお付き合いを嘆くばかりではなくしてくれるし、薬局や整骨院に行く際にも役立つ事があると思う。

最近の灸は便利なものがあり、伝統的な直接灸のほかに、温灸(おんきゅう)と言われる間接タイプのものが何種類もある。そのどれでもいいが、朝のうちに太衝に灸をすえると、夕方くらいまでは、花粉症の症状から解放される。

"お灸に要する時間は数分〜十分ほどである"そうなので、日々のルーティンにも組み込みやすいし、何よりティッシュを沢山持ち歩いて鼻の下が痛くなるのを思えば、試してみたくなる人もいらっしゃると思う。

首より上にある目のかゆみに、足の先にあるツボが……と疑問をもつ方もあるだろう。そうした方のために、中医学の古典の一節を紹介する。
「肝気は目に通じ、肝が和すれば、目はよく五色を弁ずる」(『霊枢』「脈度」)
「(肝は)……目に開竅(かいきょう)する」(『素問』「金匱真言論」)

沢山の本を訳された著者ならではの文章としては、ここを紹介するのがスマートだったかもしれない。でも、一見して分からない"気"のお話に付いていけるように行きつ戻りつするのが、この本の一番面白い所だと思うので、最初に"合谷"の説明を紹介したかったし、自分自身これからも身体の不思議を味わいながら、何度も読み返していきたいと思っている。



少し前まで、簡単な検索で見つけられなかったのに、言葉にする中で検索に入れる言葉選びが少しうまくなったのか「気のトレーニング方法の動画」を見つけられたので貼っておく。


中日新聞の和気信一郎先生のコーナー、気のボールを作ろう!というページの中で動画が紹介されていた。

気のボールを作ろう!
気のボール感覚は掌感覚です。人によって感覚の表現には違いはあるんですが、掌の皮膚がジーンとしたり、ビリビリしたり、モワーと温かい感じがしたりする感覚です。
和気信一郎の養生気功の実際(中日新聞)

子供の頃に教わっていたものと再会したのも不思議なお話だと思いながら、また今日も手と手を向かい合わせてみようと思う。



年を重ねると自然に親しみたくなるのも気分転換などではなく自然から"気"を受け取りに行きたくなっているのかもしれない。


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