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遠慮の塊

半年ぶりに家族と食事をした。すると、いつも通り、残った最後のローストビーフに誰も箸をつけなかった。弟と妹に食べていいよと伝えると、遠慮しながらも食べてくれた。

これは気遣いなのか、遠慮しているだけなのか、主張が弱いのか。

誰かと食事をすると、肉の一切れ、サーモンの切れ端、一口サイズのサラダが最後に残ってしまう。食べ始めは勢いがあったはずなのに、時間が立つにつれその鳴りを潜め、遠慮しあって手が進まなくなる。

食材の好き嫌いや空腹具合は関係ない。
なぜか残る。遠慮の塊というやつ。

遠慮の塊はあまり良くない日本人の特性と捉えられている。と感じている。もっと強引にすることが大事、周りのことを考えすぎと聞いたこともある。

しかし思う。
遠慮の塊という空間は幸せな空間だと。

誰かが誰かに気持ちよく食べてほしいと願う気持ちが重なった結果である。気遣い出来る人が揃ったからこそ、その気まずい空間となる。

遠慮の塊にこそ、その人の本性が表れることもあると思う。普段何も話さず自分の事しか考えていないように見える人、豪快に物事を進める人。

だから遠慮の塊に立ち会ったときには何か幸せを感じる。誰かと食事をするという行為は、その人の気遣いや優しさが出る。

届かなく探していた醤油。トイレに立ちたいが動けない一番奥の席。
そういう優しさは誰かとの食事でしか立ち会えない。

誰かと食事をすることの幸せを噛みしめて、そして大切にしたいと思う。

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