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『聖なるズー』を読んだらもう猫は飼えないと思った

読んだ感想としてはタイトルの通りだが、その他雑多な感想も含めて。

獣姦、は知っていたけど「zoophilia(動物性愛)」は初めて聞いた。著者が受けた性暴力体験からの始まりは読んでいるだけでつらいものがあったけど、”zoo”たちへの興味関心が必然から生まれたことがよくわかる。

”zoo”とは、動物性愛者を意味する「zoophile」の略称であり、彼ら自身の呼び名でもあるという。動物とsexする特殊性癖の持ち主かと思いきや、zooは動物との対等性や愛とはなにかを自問し続ける、まさに”聖なるズー”とでも呼ぶべき存在だ。(もちろんそれ以外の考え方の持ち主はいると思うが)

ズーの考え方として興味深いのは、パートナーとする動物の「パーソナリティ」を重要視するところだ。キャラクターではなく、パーソナリティはその相手と共有した時間から生まれるという。日本語ならば人柄でもなく、性格でもなく、個性でもなく、「わたしにとってのあなた」とでも言い換えられるだろうか。確かに誰かと関係性を深めるときに重要なのは「わたしにとってのあなた」だ。ズーたちはそれをパートナーとする動物との間に見出している。

また、人間でなく対動物という点で最も異なるのは言語を介さないコミュニケーションであるということ。sexに限らず、ズーたちはパートナーである動物たちがいま何を欲しているのか、どんな気持ちなのか、仕草や表情を見ることで手にとるようにわかるらしい。

読みすすめるうちに、自分の性体験や誰かに向けた愛情のことを考えずにはいられなくなる。誰かと対等に愛し合ったことなど、あったのか?よく”好きになったほうが負け”というけれど、負けとまではいかなくてもたしかにそういう側面は経験として持っている。対等な愛なんてそんなものあるのだろうか?
相手の気持ちが手にとるようにわかることなんて、あっただろうか?自信はない。むしろ、わからないという前提で生きている。

最終的に著者も言及しているが、

ズーたちにとって、動物は動物でなければならない。

という。ズーたちは相手が動物であるからこそ、というか動物であるからして成り立つ”対等な”コミュニケーションを育んでいる。
人間は人間とコミュニケーションを取るべきだと思うわけではないが、どうしても人間とのコミュニケーションを諦めた人たちに見えてしまった。まぁそれも別に何ら問題はないのだが。その点、後天的に人間の異性のパートナーのセクシュアリティとしてズーを受け入れ、2人と一匹の関係を育む男女のカップルの存在がとても印象的で、新しい可能性を感じた。

もうひとつ、本書での重要な指摘として「去勢」が取り上げられている。
わたしは動物と生活した経験がなく、これまで考えたこともなかったが、飼い猫や飼い犬には去勢をすることが当たり前(というか常識的な行動とされている?)であることやペットの性を無視することで家族の中で”末っ子”という立ち位置とすることの違和感に気付かされた。
最近、猫かわいいな~飼いたいな~などと結構本気で思っていたのだが、守るべき存在、可愛がる存在、擬似的な”家族”の一員としてペットを迎え入れることはもはやできないとある意味では絶望し、読む前の自分をうらやましく思ったりもしてしまうのであった。

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