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好きなもの、が欲しい

昔からずっと、趣味を聞かれることが苦手だった。音楽も読書も映画も、スポーツも勉強も、食べるものや飲み物まで入れたとしても、語れるほど好きなものなど特にない。こだわりがない、といえばそれはそれで良さそうなものだが、大学生くらいの頃は特にそういう自分がなんだかひどくつまらない人間のように思えて、人と初めて話すような場面は緊張したものだ。そしてその「好きなものがない」というある意味では強い自負は、今も変わらず強いコンプレックスの一つとしてあり続けている。

だから近年の「オタク」の地位の向上…というかもはや若い世代では何かしらの分野のオタクであること、もしくは「推し」を持つことがアイデンティティのようになっている現状を好ましく見つつも、今自分が学生の立場だったら…と震えるような気持ちにもなる。
オタクを自称できる人はうらやましい。オタクになれない自分はみじめだ。だから、心の中で「推し」って言い方はなんかダサくない?などと罵ることで心の安定をはかったりしている。

…好きなもの=心の安定剤、と考えればそれらを持たない自分はある種強いメンタルの持ち主とも言えるだろうか。だがそうであったとして、別に嬉しくもない。

こうした悩みを持っている人も少なからずいるのだろうか。
でもこれは共感して欲しい悩みというよりは、「あなたの好きなものはこれなのではないか」と見出して欲しい、そして安心したいということのような気もする。
そうだとすれば、わたしの好きなものというのは所詮他人によって規定されるようなものなのだろうか。

…と、巡る思考を書きつらね、こうして文章を書くことも「好き」とまでは言えないなと途方に暮れる月曜の夜中なのであった。

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