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時間が経つと

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先日、ある方から、
「年をとるにつれ、友だちは減るものだ」
と言われた。
“知り合い”が増えることはあっても、
“友だち”というのは淘汰されていくもの、
ということらしい。

知り合いから友だちになるとしても、
また、どんな昔からの友だちでも、
“友だち”であり続けるかはわからない、と。
時間が経つ中でさまざまなことがあるから、らしい。
物理的に離れてしまって疎遠になる、
人生の過ごし方によってそれぞれの価値観が変化し、
理解しあえなくなる、人づきあいが億劫になっていく、
など。

ふむ。 わかるような、わからないような。

では、もともと“友だち”の少ない自分は、
どうなるんだろうか?
ゼロになるのか?

“友だち”って何だろう?なんて、
小中学生時代に 感じた素朴な疑問まで、
ふとよみがえってきてしまった。
この年になってそんな疑問をつい反芻してしまうとは!

振り返ってみると、食べ物の好き嫌いについては
だいぶ克服した人生ではあるが、 人についてはどうか。

明確に「嫌いだ!」と言うような相手はほとんどいない。
信頼できて安心できて、大切な人、といえるような人たちは
確かにいる。

一緒にいることがうれしい相手。
存在に感謝できる相手。
安心・信頼できる相手。

ただ、かかわりのある人たちのうち、
上記のような「価値ある存在」としては、
友だちだけでなく、ほかにも家族とか仲間とか
別のカテゴリーもあるよな、と思う。
「場」によって呼び方が変わる、という単純なことでは
ないだろうけれども――。

いずれにしても、自分にとっては大切な相手であっても、
相手がそのように思っているとは限らない。
こちらは友だちのつもりでいても、相手はそう思っていない、
ということがある。

ふだん、だれかの役に立ちたいと願う。
相手が、自分にとって価値ある大事な人たちであれば、
なおさらである。
同じように、わたしのために心を尽くしてくれている
だれかもいるだろう。
尽くされたら報いたいと願っているけれども、
逆のことが常にあるわけではない。
相思相愛的に双方向で一致していることもあれば、
そうでないこともある。
そして、常に双方向であるべきものとは思わない。

いつの頃からか、わたし自身は、少なくとも“友情”については
「これ以上は期待すべきではない」、とでもいうような水位を
設けている気がする。
だから、友だちを減らしている側にいるのかもしれない。

でも、時間の経過につれて、友人が減っていくのが
必然だとしても、
どんな物理的な距離があったとしても、
最後まで「友だち」と思うひとが――思えるひとが
ひとりはいる、と信じていたいかな。

一方的な勘違いであっても、ね。

(Facebookノート投稿)
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ノート機能がなくなるときにまとめて保存したので、保存日時(2021年3月)しか残っておらず、いつ綴ったものなのか不明ではある。

ただ、この内容はいつもふだんから意識していることで、今もあんまり変わらない思いでいる。
そもそも対人関係についての心の持ちようなどは、そうそう変わらないものかもしれない。

どんな人と出会ったとしても、いつもできるだけフラットに接していきたいと思っていたし、今もそうありたいと心がけている。
それぞれの「場」にはフラットな気持ちで臨む。そのうえで、そこで自分がちょうどいいと感じる距離を測って動く――ようにしている。
が、果たしてできているかどうか。

しかも、今はとくに、どのような「場」でかかわる相手なのかによって、距離感が変わっているように思う。
「場」は、仕事上の付き合いなのか、自分のプライベートな生活圏の中での知り合いなのかの大きな枠から始まって、さらに細かく分化されていく。
仕事の中でも、ビジネスライクにすませたい人もいれば、かえって親近感のあるひともいる。プライベートの枠の中だからといって、親しくしたい・できるひとばかりではなく、できるだけ距離を置きたいと感じてしまうひともそれなりにいるのだ。

年々いろいろなことに自分が臆病になっていることもあるんだろう。
たぶん、深入りして傷を負いたくない、みたいな気持ちがどこかにあって――「ひとり」でいることの穏やかさを感じながら、そのくせ「孤独」という言葉が、ぴったりとした空気感で連れてくる寂しさを妙に意識する。

平穏と胸騒ぎの往来を繰り返す中で、最終的に思うのはいつもこれだ。

ひとは究極的にはだれもが「ひとり」。

結局は神さまだけが裏切らない存在であって、だれもが孤独な存在、「ひとり」であるはず。
けれども、それでもやはり前述の通り、最後にどこかにひとりは、信じられる「友だち」といえるひとがいる――と信じていたいと思ってしまうのである。
最後の最後、人生の終わりの一瞬を、たとえひとりで過ごしている状態であったとしても。




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