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デジタルと格闘する日々が運命を変えた【僕が映画を作ろうと思ってから Vol.13】

(前回のあらすじ)

大学時代最後の作品を完成させ、
上映会は大盛況に終わる。

そして、

「映画づくりとどう向き合うのか」を
保留にしたまま社会人生活が始まってしまう。

第一回はこちら

 * * * *

西暦2000年という時代は、僕にとって大きな変化の年でした。

まず、社会人になったこと。

そして、何もかもデジタルに移行していったこと。

社会人になって、プライベートでのデジタル機器も少しずつ揃えていくことができました。
それまでカメラなどすべて借り物の、ケチケチ映画人生だったのに、突然高額な買い物ができるようになったわけです。

初めて買ったSONYのデジタルビデオカメラ。
たしか20万円くらいだったと記憶してます。

ビデオカメラもいっぱいあって、どれがいいのかなんて分からない。
機能も、調べても調べてもよく分からない。
何もかもが、それまでよりよく見えたからです。

だから金額的に出せる上限いっぱいで、一番機能が良さそうなもの、あとは直感で選びました。

デジタルカメラを手にしてすぐ、今度はパソコンを購入。
15万円くらい。

CPUとかメモリとかさっぱり意味が分からない。
だから、それぞれの数値がよりよいものを選びました。

「金額的に出せる上限いっぱいで、一番機能が良さそうなもの、あとは直感」
カメラと同じです。

それから動画編集ソフトを購入。

これまた違いがわからない。
「金額的に出せる上限いっぱいで、一番機能が良さそうなもの、あとは直感」

もうほとんど、「ええい、これでいいや!」という感じで選びました。

VideoStudioという1万円くらいのソフトでした。


 * *

「よく分からんまま、サラリーマンになってしまったなあ・・」


それが正直な当時の気持ちでした。
そしてそのことにじんわりと危機感も感じていました。

僕自身がどうしたいのかはっきりしない、という面もありますが、
何より怖くなったのは、僕の周りの人たちの変化でした。

まず、会社の事業をどうするか、みたいなことを熱っぽく語る奴が現れた。

これは当然ですし、とてもすばらしいことですよ、もちろん!
でも僕はそれが不思議で。
ついこないだまで学生だっただろ、君・・と。
そんなにガラリと頭の中を切り替えられるものなんだ・・と。

そして何より、僕と同じ人種だと思っていた学生時代の演劇仲間たちも、ことごとく「会社の人」に切り替わっていったのに驚きました。

あれだけ演劇について熱く語ってたみんなだから、全員とは言わないまでも、そのまま活動を続ける人が大半だろうと考えていたのです。

当時、仲間がみんな書き込むネット上の掲示板がありました。
BBSと言われてたもの(!)。
そこには、みんなの仕事の状況が次々書き込まれていきました。

なんだか、オセロゲームで自分の周りがみんな白から黒に一斉に裏返されていく感じ。

僕はこの違和感、そして気味悪さ(※個人の感想です!)を忘れないようにしよう、と考えました。
ただ、我に返ってみると、自分自身もサラリーマンじゃねえか、と愕然ともしました。

何とかしよう。

僕は、行動しながら悩むことにしました。


最初に決めたこと。

それは、毎朝出社30分前に会社近くの喫茶店に入り、映画づくりの準備をすること。

1日の始まりは、必ず映画のことをする。
シナリオを書いてもいいし、アイデアを練ってもいいし、絵コンテを描いてもいい。

その後何年もサラリーマンは続くのだけど、僕はほぼ毎日これを続けました。
時には5分になったり、前日のお酒が残ってボーッとするだけだったこともあるけれど、意地になって続けました。
そうしないと、身体の隅々まで何かに変わってしまう気がしたのです。

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ちなみに今も、仕事や打ち合わせの30分前に現地近くの喫茶店に入る習慣になっています。

余談ながら、今の僕はサラリーマンという職業を否定していません。

当時はサラリーマンであることが悪だと考えていたふしがあるけれど、その後、すごい人、かっこいい人にたくさん会って考えが変わっていきました。

サラリーマンだろうがフリーだろうが、すごい人もくだらない人もいます。
その人を決めるのは肩書きではない。

それにどっちであろうと、人生とお金のことをシビアに考える必要があります。


夕方、定時ピッタリに立ち上がり、「お先に失礼します」と言ってそそくさと帰宅。
当時住んでいた会社の男子寮に帰宅し、せっせと新作映画の準備をしました。

週末は撮影です。

僕は役者とスタッフが待つ新宿駅前に向かいました。

甲州街道沿いの歩行者通路で、僕はしゃがんだままバッグを開けます。
それを役者とスタッフが覗き込む。

僕は、銀色にキラキラ輝くデジタルビデオカメラを、うやうやしく取り出しました。
「おー!!」という声が聞こえ(た気がし)ました。

その瞬間、

「はい、そこ何やってんの!!」

しゃがんだままの僕が振り向くと、警備員が立っています。

僕は出したばかりのデジタルビデオカメラを素早くバッグに入れ、立ち上がりました。
「みんな行こう」

少しだけ場所を移動し、警備員の姿が見えないことを確認すると(警備員というのは広範囲をチェックするんじゃなく、自分が管轄するビルとかエリアだけ気にしている)、また僕はうやうやしくデジタルビデオカメラを取り出しました。

それまでのカメラと何が違うかというと、液晶モニターがついていること。
ファインダーを覗かなくても撮りながらしっかりと確認することができる。

僕は液晶モニターを見てその画質の鮮明さに思わず声が出ました。
「きれーだ・・すげーきれーだ・・・」

カメラを向けられていた女優さんが、何とも言えない顔をしているのに、少ししてから気づきました。

 * *

会社の寮の自分の部屋に戻ると、まずはパソコンを立ち上げます。
そしてネットにつなぐ。

ピーガラガラガラ・・と音がしてネットに繋がり(!)、メールの受信チェックです。

メールというのは、コミュニケーションを簡単にしました。

簡単というのは、便利という側面もありますが、同時にやっかいなこともすぐに追いかけてくる。

映画のスタッフ、役者への連絡はとても簡単になりました。

が、パソコンのメールを持ってない人も多く、みんなに連絡がつくわけではない。また携帯メールに送るには文字数の制限があるので長い内容が送れません。

そういったことも考慮しながらメールを書きました。


一部のスタッフには長いメールを送り、相手もまた、メールで言い返してくる。そうするとだんだん感情的になってくる。言い訳や相手への不満も夜中にしたためることになる・・。

これが楽しいやり取りなんかになるわけがない。
こんな、不毛な喧嘩をよくやっていました。

メールには負の感情を載せない。

これはその時の教訓になりました。


また、いろんな人との交流もできてきます。

ある時、「映画を作る集会があるよ」と言われ、行ってみたこともあります。

会場に着いて巨大な会議室の片隅に座っていると、ニヤニヤした人が壇上に上がりスライドを見せ始めました。
詳しくは書きませんが、とある商材を販売するとこんなに儲かる、それを人に紹介して買ってもらうとどんどん儲かる、ウハウハでたまりません!ということを笑顔で絶叫していました。

僕は聴けば聴くほど冷めていきました。

映画じゃないじゃん・・・。

そして猛烈に腹が立ってきました。

社会人になって一番困ったのは、自由になる時間が少ないことでした。

土日は貴重な貴重な映画づくりの時間。
それをこんなところで関係ない話を聞かされるなんて!

この時知り合ってしまった”その業界の人”からはその後も連絡が続きました。

電話は切ればいいけれど、メールも来る。
僕はそこに書かれている内容にいちいちメールで反論しました。すると、長ーい反論が返ってくる。
夜の大事な時間をずいぶん吸い取られていきました。

あれは、応対すべきでなかった。

後年、こういった業界の人に何度か出会うことになりますが、僕は嗅ぎつけると一切やり取りを止め、ピシャリと容赦無く関係を断ちます。

いろんなメールのせいで夜のやりとりが長くなり、睡眠不足になっていく。

朝の通勤電車では人ごみで立ったままドアにガンガン頭をぶつけていました。

 * *

ところで、

デジタルビデオカメラで作った最初の作品は、お蔵入りになります。


撮った映像をパソコンに取り込む。
編集ソフトで編集する。

ここまではなんとかスムーズに進みました。

問題はそのあと。

編集ソフトの映像を、書き出すことがどうしてもできなかったのです。
マニュアルを何度読んでも、いろいろ試しても、どうしてもうまくいかない。

編集ソフトのサポートセンターにメールすると、あれこれと教えてくれます。
しかしそれら一つ一つすべてうまくいかない。

僕はこの作品を、ある映画祭に応募するつもりでした。
その応募期限が一週間後に迫り、僕は焦っていました。

せっかく作った作品が完成して目の前にあるのに、パソコンから取り出すことができない・・。

最後はサポートセンターの人に、泣き落としのようなメールを送りましたが、返信はありませんでした。

サポートセンターの人を責める気はありません。丁寧に対応してくれてました。ただ、うまくいかなかった・・という気持ちだけ残りました。

 * *

その頃僕は会社で、ノイローゼ気味になっていました。


プログラミング研修があり、どうしてもどうしてもうまくできなかったのです。自分が何が分からないのかも分からない。

研修は数ヶ月間、毎日続いていて、気分転換もできません。

毎朝の喫茶店での時間も、気分が乗らない。
そして研修所に行くと、トイレにかきこみ胃液を吐く。

ある時、昼の休憩時間に研修所の近くを一人でトボトボ歩いていました。
少しでも研修所から離れていたかった。

小さな本屋さんを見つけ入ってみると、目に飛び込んできたのが『神楽坂映画通り』という本でした。

映画を作りたいともがきながら妙な人々と交流を続ける著者の自伝的小説。
これがもう、当時の自分に当てはまりまくって、周りが全く見えなくなるくらい没頭して一気に読みました。

この著者、小林政広監督は後年、『バッシング』など数々の作品で海外でも注目されるようになります。

プログラミングに悩む僕は、週末、大きな本屋に行きました。

当時は今みたいに、初心者向けプログラムの本なんてほとんど見つかりません。がっつり専門家向けっぽいのだけ。
C言語とか、COBOLとかそういうプログラム言語の本棚を眺めながらため息をつきました。

そんな僕の目に入ってきたのが

HTML言語

という文字。

なんだろうと思って手に取ると、ホームページを作るためのプログラム言語みたい。

その瞬間、「そうだ」と思いました。

自分のホームページを作る、という目的があるなら勉強にも張りが出る!何冊か見比べて、一番簡単そうな本を購入し、寮に戻りました。

ちょうどゴールデンウィークが始まるところ。
僕は3日間、本と首っ引きでHTML言語とやらと格闘しました。

そして2001年5月5日、カルフのホームページが完成。

・トップページ
・団体プロフィール
・作品紹介
・絵コンテの描き方
・掲示板

という、たった5ページのささやかなもの。

このホームページこそが、
その後の僕の人生を変えてしまうことになります。


(つづく)


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