死について

昨年、30歳を迎えた。そしてここのところ、僕は毎日、死を意識するようになった。

理由は、時々、心臓が痛むのだ。明らかな頭痛もある。父は血管が弱く、心筋梗塞や脳梗塞にかかったことがあるので、遺伝を気にせずには居られない。

一方、一日に仕事のできる時間が徐々に減ってきたことも感じている。集中力が保たないことと、前述の心臓の痛みと身体の怠さが原因である。
年を経るとは、どういうことか身をもって実感するのだった。

例えるなら、べっとりと背中に死が張り付いている。そんな感覚を、ここ、ふた月ほど感じている。当初は、そのことを重い荷物を背負うかのように感じていた。

しかし最近は、その背中にべっとりと張り付いている死こそが生を支えていることを悟り、その死と向き合うことで前向きになってきた。今や死は恐怖の対象ではなく、親しい友人のように感じられるようになったのだ。

そして、もしも、ここ最近の体調不良が一過性のものだったとしても。精々、残り50年か60年"しか"生きることが出来ないのだと感じられるように意識が変容してきた。

何故なら、一日の内、集中力を保って作品創りが出来るのは、5-6時間。コーヒーなどを摂取し、多少無理をして15時間。年を経るごとに年々、その時間は減っていくことを考えると、本当に残された時間は少ないのだ。僕は残りの人生のうち、あと、どれだけの作品創りに関わることができるだろうか。

そうやって考えると、自分が今までどれだけ、尊い時間を無駄にしてしまったか、そして他人の時間をどれだけ無駄にさせてしまったのかが悔やまれる。後悔先に立たずとはこのことだ。

死とは人生の〆切のようなものだ。〆切までにいくつの作品を残せるか。〆切まで余裕があると悠々と過ごしていては、大抵の場合、〆切ギリギリで慌ててしまうものだと、僕は現場の経験で知っている。

それどころか、明日、突然に死がやってきて、人生の終わりを告げるかもわからないのだから始末に負えない。しかし、〆切があるからこそ、やってやろう。という気になるということも、僕は現場の経験で知っているのだった。

人生の〆切がいつやってくるのかは神のみぞ知る、と云えようが、兎に角、もう少しだけ作品を創らせてほしいと願ってみるのだった。

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