見出し画像

「象は鼻が長い」について

昨日、Youtubeでこのような動画を発見し興味深かった。

要するに、「象は鼻が長い」という文はどれが主語かということで大正から日本語研究者の間で長い間、論争が続いていたという。
これについて、考えがまとまったため、文章にまとめて残しておこうと思う。

「象は鼻が長い」論争の略歴

まず、この論争は橋本文法と呼ばれる二重主語説で一応の決着はなんとなく着いているらしい。

[橋本文法](二重主語説)
全体の構造 主語:象は、述語節:鼻が長い
述語節の構造 主語:鼻が、述語:長い

それ以前は、戦後、三上文法と呼ばれる<「象は」は主語ではなくて主題(~についていうと)である>という解釈が発表された。当初は保守的な学会には相手にされていなかったようだった。ところが、旧ソ連の言語学者によって、大発見のようにもてはやされたことによって、この解釈は広く認められるようになった、ということだ。

ところが最近、橋本文法を根底から覆す論説もあるらしい。それは、文法概念はヨーロッパで発達したもので、その枠に日本語を当てはめること自体がナンセンスではないか、という論説だ。主題優勢言語という必ずしも主語を必要としない言語が韓国語・中国語・インドネシア語など東アジアに多く見られるそうで、その研究に基づいているらしい。

▼三上文法(下側)と橋本文法(上側)のイメージ

象は鼻が長い

私的見解:主位変化説

私は、「象は鼻が長い」について、主語と見られる「象」と「鼻」はどちらかが主語でもなく、どちらも主語でもない。と考える。つまり、どちらも主語でどちらも主語ではないという、"重なり合い"の状態になっていると考える。これは量子物理学で言う『シュレディンガーの猫』のようだ。文単体ではどちらが主語かは定まらず、前後の文脈によって主語と述語が定まると言える。主語の位が変化するから、主位変化説というわけだ。

「象は鼻が長い」は、どちらも主語になりうる変換可能な文と言える。

変換の例

・象についていうと、鼻が長い(主題型:三上文法)
・象は鼻の長い動物だ(象が主語:橋本文法の変形)
・象の鼻は(が)長い(鼻が主語)

象は鼻が長い2

文脈によって主語の変わる例を挙げよう。

「本日はお集まり頂きありがとうございます。象は"鼻が長い"。今日は、その話をしたいと思います。」
(象についていうと鼻が長い)

「実は太古の昔、象の先祖は水中で生きていたという研究が新たに発表されました。だから、"象は"鼻が長いのです。」
(象は鼻の長い動物だ)

「外敵から身を守るため、動物は嗅覚が発達し、さまざまな鼻を進化で獲得していきました。魚には鼻腔と呼ばれる鼻があるし、"象は鼻が"長い。」
(象の鼻は長い)

「私は様々な動物の鼻を撮影するカメラマンなんです。こうやってみるとどれも個性的な鼻です。しかしそれにしても、"象は鼻が"長いんですよ。」
(象の鼻が長い)

「様々な生物が地球上にはいます。アリクイは鼻が長いですよね。しかし、象は本当に鼻が長い。」(象こそ鼻が長い)

「~が」「~は」「~の」について

「~が」や「~は」は、「~の」という意味も持つ。例えば、以下の例文、どれもニュアンスが違うが意味としては通る。

「りんごの赤は恋の色。」
「りんごが赤は恋の色。」
「りんごは赤が恋の色。」

「~が」「~は」「~の」はお互いに変換可能なのではないだろうか。

「象の鼻は長い」という文は、主語が「象の鼻」と一見して読める。しかし、この文でさえも「象」を主語と捉えることができる。
例えば下記。

「見よ。この美味なるイカの塩辛。これぞ、ご飯の進むことよ。」

この場合、「ご飯の進むことよ。」は、「ご飯」を主語、「進むこと」が述語として、捉えられる。よって、日本語は、「象の鼻が長い」でも「象は鼻が長い」でも「象」も「鼻」もどちらも主語として変換して捉えることができる。

「象は鼻が長い」・・・「象」「鼻」どちらも主語とも考えられる。

「象の鼻が長い」・・・一見、「鼻」が主語だが、前後の文脈次第で「象」を主語と考えることもできる

「~が」と「~は」の使い分けについて(『間』について)

本稿の議題から逸れるが、「~が」と「~は」の使い分けについては、日本語学者の野田尚史氏が五つに分類している。

(1)新情報か旧情報か。
(2)現象文か判断文か。
(3)主格がどこまで係るのか。
(4)主格が対比の意味か排他の意味か。
(5)指定文か措定文か。

▼この5分類を一覧表にしてみたもの

象は鼻が長い3

参考:アークアカデミー日本語教師養成講座

私は「~が」と「~は」については、『間(ま)』で捉えるとより適切だと思うし、一つの概念だけで意味の整理ができる。日本芸術でも『間』は日本独特の価値評価基準だ。

①「~が」は<間の近さ> ②「~は」は<間の遠さ> を表しているのではないだろうか。『間』という言葉は、日本語独自の概念で多層な意味を持つ言葉だ。だから、日本人は「~が」と「~は」の使い分けが容易だが、外国人にとっては習得が難関なのではないだろうか。

象は鼻が長い4

象は鼻が長い7

『間』の持つ多層な意味については英語であてはまる言葉が見つからない、という事例を見るとわかりやすい。

例えば、空間という意味の間を表す時は、「Space」、何もないという意味では「Empty」、距離という意味では「Distance」、時間的な意味では「Time」や「Timing」、音楽的な意味では「Pulse」、湿度という意味では「Humidity」、霊性(幽玄)という意味での『間』を表すに至っては英語では語が見つからない。

『間』は遠近感を表すというよりも、<近奥的(きんおうてき)>に捉えるとわかりやすい。「奥」という言葉も英語にするのが難しい。「Back」「Inner」「Core」などがあるが、どれも「帯に短し、たすきに長し。」だ。

▼近奥とは何か、についてはこちらの記事をどうぞ

長谷川等伯の国宝「松林図」は日本水墨画を完成させたと同時に日本独特の『間』を表現している。日本人ならば見れば、『幽玄の美』を表したいのだろう、と一目見ればわかるが、日本人以外にこの『間』が伝わるのだろうか。

画像5

▼松林図についてのおすすめ解説動画

また、室町時代に完成した能にも『間』が顕現されている。能は地明かりと呼ばれる全体をぼやっと明るくする調光不要の特殊な照明で設計されている。その空間自体が一つの『間』になる。また、音で盛り上げる囃子も日本独特の『間』で表現される。音楽にはパルス(pulse)という「脈」を意味する概念がある。日本以外の通常の音楽ではパルスはイン・テンポ(in tempo=一定の速度)であるし、ルバート(rubato=柔軟にテンポを変える)だとしても4拍子や拍が定められている。しかし、囃子にはそもそもtempoという概念もrhythm, beatという概念がない。現代的な前衛音楽も驚きの無拍子、無テンポである。では、なんら時間的ルールも定められていない中、どのようにして交響音楽として成立させるかと言えば、『<間>に気が満ちる』という独特の価値観で囃子が演奏される。「よ~~~ぉ、ポン!」の世界だ。お互い前提や価値観を共有したうえでのハイコンテクストこのうえない文化といえよう。これは1拍目や0拍目など西洋音楽の拍子としては捉えられない音楽次元と言える。

画像6

「~が」「~は」「~の」は変換可能だとして

「~が」↔「~は」→「~の」変換が可能であることはここまで見てきた(勿論、伝えたいニュアンスは変わる)。もう一つ、例を挙げたい。

「象は鼻が長い」というと、象と鼻、どちらが主語かわかりづらい。ピントの合っていないカメラのようだ。だからこそ、「象は鼻が長い」論争を巻き起こしているとも言える。

しかし、「象こそ鼻が長い」だと象が主語だとわかりやすい。カメラのピントが合ってハッキリとした像になっているように感じないだろうか。

「彼こそ名探偵コナンだ。」(「彼」が主語)
「アリクイは鼻が長い。だが、象こそ鼻が長い。」(「象」が主語)
「アリクイは鼻が長い。だが、象は鼻こそ長い。」(「鼻」が主語)

やはり、象でも鼻でもどちらも主語になりうる。

そもそも日本語は名詞から成立した言語ではないだろうか。主な述語である動詞・形容詞・形容動詞は全て元々は名詞だったと考えられる。主語は主に名詞だから、元が重なり合いの状態になっているから、一つの意味に定めることが難しいのではないだろうか。「象は鼻が長い」論争はこれも関連していると感じる。

▼名詞から動詞が生まれたのでは?ということに関して別の記事です。

日本語は、単語だけを並べても意味がなんとなく通じる。主語が定まっていなくとも、意味が通じてしまうのは名詞が基本にあるからではないだろうか。

そして、特に「〜が」「〜は」は基本の助詞だ。根源的な助詞になる。故に、多層な意味を含むことで主語を定めるほど強い意味を持たないのではないだろうか。よって「象は鼻が長い」という文の主語はどれかという論争が発生するのかもしれない。

日本語は記録ではなく、相手の顔を見ながら、話すことに特化している。

ここまで何が言いたいかといえば、日本語では、「~が」「~は」「~の」という助詞によって主語を定めることができない。日本語は前後の文脈ありきで主語が確定する言語なのではないか。ということだ。

これは何故かと言えば、話し言葉に特化した言語だからではないだろうか。

英文学者であり言語学者である外山滋比古氏は、<漢字は見る文字であり、ひらがなは読む文字である>という考えを示した。万葉仮名以前、古の日本では書き言葉は漢字であり文法も中国文法に習っていた。いわゆるSVO文法だ(主語・動詞・目的語)。何のために漢字と中国文法を輸入したかと言えば、記録のためである。中国は科挙という官僚制が発達している。漢字は元は呪術だ。呪術とは占星術だから行政的といえる。

また、アルファベットのルーツは海洋民族であるフェニキア人である。海洋通商をする民族だから、アルファベットは記録のために開発されたのだった。

※この辺の論拠はもっと詳しく調べ比較する必要がありそう

<文字>はなぜ生まれたのかと言えば、記録である。日本人には記録するための文字を独自に持っていない。片仮名 / 平仮名も漢字の崩し字だから、他国の文字のアレンジだ。

島国で大陸からの侵略の心配がなかったからこそ、同じ前提条件を共有する日本人同士でコミュニケーションを取ればいい。だから、日本語の文法は話すことに特化しているのではないだろうか。

日本語は動詞が最後に来るため、必然的に結論が最後にくる。従って、文末で結論を変化させることができる。そもそも言葉はコミュニケーションの手段であるという本質を忘れてはならない。相手の顔を見ながら結論を変化させ、円滑なコミュニケーションができる、というのは日本語という言語の利点と言える。日本語は、構造上、結論を定めることがないのと同様に、文中の主語を一つに定めることもないのだ。だから、論文などの書き文の場合の全体構造も、結論を最後に持っていきがちだ。

▼日本語は時間軸によって結論のポジネガを変化させることができる

象は鼻が長い6

しかし、文章として記録するにあたり、結論を最後に持っていくと読みにくい。結局、何を言いたいのかが不明瞭になり判りづらいからだ。記録に特化した言語は、何が起きたのか、何をしたのか、主語と結論を冒頭で表すのではないだろうか。英語の論文は全体構造として結論を冒頭に持ってくる。

そして、これはフランス料理や中華料理に代表されるコース料理(一品づつ)と、日本のすき焼きなどの鍋料理の関係に似ている。コース料理は、一品一品が完成された料理(スープ、麻婆豆腐など)でふるまわれる。主語と結論の始末がハッキリしている。しかし、鍋料理の場合は結論がない。主語と結論の始末がなく輪廻の関係になっている。線因果と同時因果の違いのようなものだ。

象は鼻が長い5

▼美味しい麻婆豆腐の作り方はこちらの記事を参考にしてください

私見まとめ

言いたいことを端的にまとめると以下の通りだ。

・日本語は結論を変化させることと同様に主語も変化する(主位変化説)
・「~が」「~は」の違いは『間』を基準にしている
・コミュニケーション手段としての日本語は記録言葉ではなく話し言葉に特化している。
・日本語の構造は文脈上で、文と文同士の関係により意味が変わる同時因果の性質を持っている。

誰かが既に同じ説を唱えていそう、と思いつつ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?