クライシスコールについて

本記事は下記投稿の無料公開程度の前知識があることを前提に執筆いたしますのでご了承下さい。
https://note.com/karu_asd/n/nec8d57382031

はじめに

本記事は筆者の個人的な考察であり、「先行研究等を使用しない→根拠がない」ということを念頭に置いてください。
また、センシティブな内容を扱いますが読者の方に何かあった際の責任を筆者は一切の責任を負わないため、気分が悪くなったりした際は閲覧を中止してください。

クライシスコールとは

クライシスコールとは、「声にならない叫び」と言った意味合いであり、リストカット等のNSSIや(D)SHのような自傷行為を行う言動や心情のようである。
では、自傷行為とはどのような言動かというと厳密には決まっていない。DSM-Ⅴで新たに追加された項目でもある「NNSI」には具体的な行動の記載は無い。
「安定した精神状況では行えないであろう行動(自殺目的ではない)を実際にしてしまい、それが契機となり周囲の環境が変化すること」が意識的かどうかは置いておいて、目的であるとされてる。
では、・どのような状況で/・どのような行動が/・どんな風に変化するのか…、という3条件が当事者理解につながる鍵になるのではないかと考えられる。

※次からセンシティブな内容のためご注意ください。

例え事例


「イジメやパワハラが続く環境で生活し続け、限界に達してしまった方が交通量や人通りが多い歩道橋で飛び降りや首吊りといった自殺未遂のような行動をしようとし、周囲に止められた」といったケースの場合、実際に亡くなるつもりだったかもしれないが、「確実」に亡くなられるかどうか不明瞭な状況であるわけである。
上記のケースは、自身の身を賭けて環境の変化を期待していたのではないかということである。未遂となれば聴取といったような第三者が介入に自身の現状を訴えることができ、それがきっかけで学校や職場への変化が望めますし、仮に完遂できても状況の変化はすると考えられる。どちらに転んでもその行動が「環境の変化の契機」につながると推測できる。
このようなケースは極論であるかもしれないが、リストカット等のように一生涯共に付添うようなモノを自身の身を賭けていると言えるのではないか。

ピアッシング

9/23(水)追記
ピアスを元々している人が自傷行為の一環としてピアッシングをするケースもよく見聞きする。
しかし、よく聞くと空けた穴に新しくピアスを装着するケースが多数を占めていると筆者の体感である。これは周囲全体へのコールよりも髪型の変化などに気づくようなより親密な関係への訴えを表しているのではないかと考えることもできると思われる。
筆者はピアッシングをしたことが無いので伝聞であるが、開けた後にピアスなどをつけないと自然に塞がってしまうらしいが、ストレスへの一過性の行動で周囲に認知してほしくなければそのまま放置して自然に治るのを待つのが理想であって、「せっかく開けたのはもったいないから」というのはどこか辻褄が合わないように筆者は感じているが、述べた仮説があるのなら行動の一貫性があるように考えらることができるのではないか。
「ピアスがどの位の数まで容認されるか」といった研究もあるそうだが、ピアスが増えてる理由を聞いてほしいという訴えなのではないか。
髪でもそこそこ交流がある方が髪型を大きく変えたり、髪色の変化があった際に「何かあった??」と話しかけることが多い気がするが、髪がピアスという小さいけど分かる人には分かる、という一種の暗号のようなものなのではないかと筆者は仮定できるのではないかと考察をしてみる。

目に見えない自傷行為

10/03(土)追記
ピアッシングや例のような見てわかるような行為を取り上げたが、身体的な自傷行為の他の行為は元記事の無料公開範囲に記載しているので割愛する。
クライシスコールで議論となる1つとして「身体的外傷を含まない場合はどうなるのか」が挙げられると考えられる。DSM-ⅤのNSSIでは身体的外傷が診断基準に大きく関わっているが、非行や夜の仕事はどうなのかという疑問が出るのではないか。

今回は夜の仕事、特に風営法に関わる仕事について考察してみる。
24時以降に酒類等を提供する「だけ」の飲食店は置いておいて、性を売りにする職業を自傷とする考えがある。職種が特殊であり天職とかじる人と苦痛と感じる人の差がとても大きく、人間関係などの日常にも容易に影響しうる珍しい職業だと思われる。
先に筆者の考えを述べておくと、「クライシスコールとは少し異なる」という考えを持っている。
「性」の影響か短時間で他種に比べて時給換算が比較的高いハードな仕事であるが、それ故に時間の捻出が難しいが収入を得たい人が苦渋の決断で仕事に就く、という理由を多く聞くからである。しかし、先の理由では「事情が少し異なる」とは言えないだろう。
① 当人はなんら苦痛と感じず、もしくは耐えられる程度であるが仮に伴侶などがいた場合はどうであろうかという疑問が生じる。
短時間でそこそこの収入を得たいが、伴侶との関係に大いに影響する と置き換えることができると考える。この場合は当人が多少の苦痛を感じているが「腹は背に変えられない」という意思表示であると考えられる。この事例ではそこまで困窮しているという相手への訴えであるが、直接的に物理的な死に関わる問題ではないと考えられる。
①では私の意見の後押しにはならない。
② 自責/嫌悪等が就く理由の場合はどうであるかを考えてみたい。
自責の場合では、当人には仕事が罰として感じられるであろうから、苦痛が前提にあるのではないだろうか。罰≒苦しい/嫌なことの想像は多くの人が容易にするであろうことから②に該当するであろう当事者の多くも似たような連想をするのではないだろうか。
仮にそうであるのであるのならば、そのような仕事に対して慣れや耐性のような心の余裕がでてきてしまった際に、罰を重くしようと更に大変な内容になる恐れが考えられ「自責」すなわち自分で自分に枷を嵌めているわけであるから、当人が当然何のきっかけもなく枷を外すことは難しいと思われる。
嫌悪の場合も似たような心境であるのではないかと考えられるが、自責より嫌悪の方が自分自身をモノと感じる傾向があるのではないかと考えられる。先に述べた違いが「自責」と「嫌悪」の大きな違いであるのではないかと推測できる。
なぜなら「自責」は罰として認識できなければ成立せず、罰を耐えるために一時的に自身をモノと解釈しなければ心が壊れてしまう一種の防衛本能に近いのではないかと推測する。モノに対しての罰とは何であろうかという哲学的な問いが発生してしまうであろう。
一方で「嫌悪」は今の状態を嫌っている/受け入れられないと言い換えることができるのではないか。では、手軽で簡単な状態の変化とは何かというと「汚れる」ではないだろうか。
部屋で例えると納得するまで綺麗に掃除し続けるのと散らかしていくとでは「散らかしていく≒汚れる」のほうが多くの人が楽であろうということは想像に難くない。
しかし、「人/生き物として汚れる」とはどのようなことかは想像することが難しいと思われる。罪や業の量なのか…等、哲学的な問いになってしまうし、嫌悪等が多くを占める心境で多数の答えが一致するとは考え難い。
しかし、自身をモノと認識すれば汚れるとは多数が受け入れ難いこと/ものを受ける→自身(モノ)が汚れる→変化という構造が成り立つのではないか、またこの構造は想像に難くないのではないかと考えられる。
②の考えでは自身の罰や変化を望むが周りには期待していないという身体的自傷とは小さいようで大きく異なる点が存在しており、私の「クライシスコールは少し異なる」という意見の後押しに値するのではないか。
身体的外傷は外部に向けて気付いてほしい傾向があるが、今回の夜の性を売りにする仕事は自身の行いの漏れた声の傾向があるのではないかと筆者は考察する。
今回の例は自身をモノと認知してしまうという自傷のあり方が見られ目的が違うが心の叫びが聞こえる/外部からの介入がなければ悪循環で簡単に悪化するという共通はあるが、自傷の目的が違うため身体的外傷と今回の例は介入の仕方に注意しなければいけないのではないかというのが筆者の考えである。

自身をモノと捉えるとは

10/14(水)追記
これまでクライシスコールと自傷について考察を述べてみたが、自身をモノと捉えるとはどういうことなのか考えてみたい。
筆者が述べているモノとは物質/質量的な物でも者でもない。ただ、モノと表現しているのは当人にはしっかりとした形/輪郭が存在するのではないのか…という考えが出てきたからである。
カッティングでは、嫌な出来事や自分を切り離す代替行為であるのではないかという先行研究の考察があり、他の身体的自傷行為でもフラッシュバックや直面した出来事など対象が明確に定まっていることが事例を読んでいると仮定できるため、モノと呼称した。
前章で挙げた例でもどのような状態が嫌悪感を催すのか等、当人にしか見えない状況であると言えるのではないか。
当人にはしっかりと形/輪郭があり、ある程度の中身も存在→モノとして存在するため、モノを解釈し間違え介入や当人にも理解できていない/認知できていない領域に触れてしまうとブーメラン効果やその場面が対象となるなどのリスクがあるのではないのかと考えられる。