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僕はあと人生で、どれだけのチャーハンを作るのだろうか。

 私が最初に台所に立って作った料理は卵焼きだった。

 本人の自覚としては目玉焼きのつもりだったかもしれないが、「目玉焼き」ではギリギリなかった気がする。目玉焼きは白身を固めるのに工夫が必要だったりと、実は料理としては難しい。しかし、「卵焼き」ならそこまでではない。黄身がクラッシュしても、目玉焼きやオムレツが出来損なっても、火力や油が足らず、フライパンにガンガンこびりついても、卵に火が通ればそれは「卵焼き」である。クワバタオハラがいればそこが大阪であるのと同様(©永野)、自明の理である。

 そういう出来損ないの「卵焼き」を焼き続けているうち、そこに茶碗一杯のご飯が突如として放り込まれた。母に入れ知恵でもされたのだろうか。味付けはダイショーの「味塩こしょう」、あるいは醤油のみ。焼き豚状にカットしたウィンナーもあったかも知れない。ネギを入れるという発想は当時小学生だった私にはまだ無かった。いずれにせよ、これが世にいう「チャーハンの誕生(Cha-Han Genesis)」である。

 以来、私は30年以上にわたり、チャーハンというものを作り続けてきた。雨の日も風の日も、もちろん晴れの日も。ある時は中華鍋を、ある時はフライパンを、そしてある時はなぜか、長方形の卵焼き用フライパンでも、私はご飯を入れてはひたすら振っていた。

 その間、チャーハンの作り方は何度も変わっていった。次の表を見ていただきたい。

 初期の頃は前述の通り、なんとなくで「チャーハンは卵を先に入れるものだ」と考えていたと思う。当時は卵先入れが当たり前だったようだし、母の影響も大きい。インターネットでチャーハンのレシピを調べるということもなく、本屋や図書館でレシピ本を入手してくるという発想も無かった。

 また、その頃には「パラパラチャーハンが当たり前」という時代に入っていた。やはり「美味しんぼ」の影響が大きいのだろう。私も「美味しんぼ」を観ていたし、「パラパラでないとダメだ」と思うようになっていた。今考えれば小学生の腕力では無理な話なのだが、より強く鍋を振り、ご飯を宙返りさせようと、私はとにかく躍起になっていた。そしてそのたびに、鍋やフライパンに大きめの「おこげ」を作ってしまっていた。

 そんな折、母の書棚からこんな本を見つけた。小学校高学年ぐらいの頃だったろうか。

 母がなぜこの本を隠し持っていたかは不明だが、「炒飯の巻」に出てくる『山珍居』のご主人(当時)である黄さんは、卵を最後に入れるのだという。

卵を最後に入れると、いためてパサパサになったゴハンにいくぶんかの水分を与えることになるわけですよ。これが微妙な味わいになる。それと、食べたとき、ちゃんと卵の味がするでしょ。最初に入れちゃうと、卵の味がなくなっちゃう。

文春文庫版、p175

 なるほど、幼心にその通りだと私は思った。実際にやってみると、チャーハンの具としての「卵」がいなくなってしまったような気もするが、卵の味が十分に感じられる。そして何より、そうしてできたチャーハンはいつもよりパラパラだった。

 母がなぜこのレシピを採用していなかったのかが不明だが、とにかく、それ以来、私は卵を後で入れるようになっていった。これが世に言う「第一次チャーハン革命」(The First Cha-Han Revolution)である。ご飯が卵でコーティングされることにより、チャーハン全体が金色に輝くことを考えれば、それは黄金革命と呼べるかもしれない。この革命を経て生まれた「卵後入れ王朝」の時代はだいぶ長く、なんと今年の4月まで続いていた。
 ちなみに迷走期に入るまでの時代を「パックス・チャーハーナ」(Pax Cha-Hanna、チャーハンの平和)と呼んだとか呼ばなかったとか。

 しかし、このチャーハンづくりには一つ欠点があった。
 具を炒めすぎてしまうことだ。「パラパラ… パラパラ……」と、祈るようにしてご飯とご飯の結びつきが完全になくなるまで炒めていると、ネギは黒焦げ、チャーシュー、ウィンナーの類はカラッカラになってしまう。卵による灌漑によってチャーハンの水はけは良くなるかもしれないが… 「これがチャーハンというものだ」とスプーンを口に運びつつ、心の中ではどこかモヤモヤとした感情を次第に募らせていった。

 一方、テレビでは新たなソリューションがサジェストされていた。曰く、マヨネーズを混ぜろ、卵を先に混ぜておけ… 最近では水で洗えなんていうのもあった。
 私はこれらのうち、マヨネーズと卵先混ぜを実践したことがある。あくまで私個人の主観(そして技量の問題)ではあるが、いずれも満足のいくものでは無かった。マヨネーズを混ぜたチャーハンはマヨネーズの酸味が残っていたし、卵を先混ぜしたチャーハンは焼いた卵かけご飯を強引にほぐしたような味だった。これらの調理法は、残念ながら私のチャーハンの作り方としては定着していかなかった。

 一回卵から作るスタイルに戻したこともある。子供の頃とは違い、卵先入れでもパラパラチャーハンを作れるようになっていた私だが、それは長時間炒めることによってパラパラにしていた、いわば「偽りのパラパラ」である。山珍居方式とは違い卵を「具」として感じられる一方、具を炒めすぎる問題は相変わらず解決していなかった。

 そのうち、「しっとりチャーハン」というカテゴリがテレビで提唱されるようになった。チャーハンをパラパラにする必要はない、あんなものは雁屋哲の陰謀でしかない。パラパラでなくても、要は美味しいチャーハンを食べられればそれで良いじゃないか…
 確かにそうかもしれない。実際、「パラパラでなくて良い」という考え方が、私の「炒めすぎ問題」を幾ばくか救ってくれているのかも知れない。しかし、私はすでにパラパラを30年近く求め、彷徨っていたのだ。僕はもう帰れない。いくらしっとりさせようとしても、気がついたらこの手が勝手にフライパンを振り、チャーハンをパラパラに炒めてしまうんだ… 炒めてしまうんだ……

・・・

 そして今年の5月、私は3週間強の入院をした。
 1階にコンビニこそあるとはいえ、そもそもチャーハンなんざ口にしてはならぬ、私にとっても、そしてチャーハンにとっても暗黒の時代である(今更だが、私は一体何を書いているのだろうか)。

 病院食が口に合わず、脂っこいものが食べたいと苦しんでいた時代、スマートフォンで観ていたのはそう、チャーハンの調理動画だった。

 雨の日も風の日も… そんな天気のことなど一切わからぬ病院の大部屋で、来る日も来る日もチャーハン動画を観ていたような気がする。

 そして興味を引いたのは、この「中華一番」さんのアカウント(大分にある町中華らしい)で推奨されている「白身を焼き、卵黄をご飯にコーティングする」というやり方だった。こうすると焼けた白身がいい香りを出すのだという。先に卵チャーハンを完成させ、そのあとで具材を投入するというやり方も、今まで「具材の後にご飯を入れる」という考え方に縛られていた私にとっては驚きだった。なるほど、焼き豚にせよネギにせよ、生で食べられないわけではないのだから、ご飯より前に入れることにこだわらなくていい。

 退院後、私はスーパーで冷凍食品のチャーハンを買った。まだ体力が十分には戻っておらず、舌も病院食に慣れきってしまっている。自分で調理し、完食する自信は無かった。

 美味しかった。
 美味しかったが、疲れ切ってもいたらしい。その日は結局、19時半には眠ってしまっていた。

 そしてしばらくして、私は家にあるご飯を使い、チャーハンを自作するようになっていった。作り方はもちろん、「中華一番」さんのやり方である。
 結論を言うと、「中華一番」さんのやり方は十分おすすめできる。そもそもが奇をてらったやり方ではないし、卵も美味しい、何よりも炒めすぎないのが良い。強いていうなら、卵とご飯を絡めるタイミングが要工夫だろうか。ここ最近のチャーハンは、もっぱらこの手法のみで調理している。

・・・

 僕はあと人生で、どれだけのチャーハンを作るのだろうか。

 …知ったこっちゃないが、これからもしこたまチャーハンを作り、そして食べることには違いない。その間、私はまた新しい調理法にたどり着くのかもしれない。他人の意見に振り回されてトンデモ調理法に飛びつき、とんでもなく痛い目に遭うのかもしれない。

 私はこれからもそういう風に、他人の意見に踊らされていくのだろう。

ハム。以前なら「チープ」ととらえてしなかったチョイス。
具材後入れによる意識の変化が如実に出ている。
餃子。昨日の残りを放り込んでいる。
味付けにラー油を少々。
豆腐バー(おから)。チャーハンという制約下でヘルシーを目指した結果。
豆腐そぼろ、刻み海苔。
ソーセージと紅生姜。私的には一番ベタなチョイス。
ネギ、豚の角煮。原型が無い。
味道楽(ふりかけ)、胡椒。
「中華一番}さんでのりたまを使ったチャーハンを紹介しており、
「のりたまがいけるなら、味道楽でもいけるだろう」
と思って実現した一皿。
鍋に味道楽を振った瞬間、カツオの香りがほわっと。


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