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私小説 わたしの体験 2

 虐待が起きる背景に、職員のストレスがある。たとえばこんな事例はどうだろう。
 ある利用者がいる。その利用者は甘みの強い飲み物が大好きである。その利用者が常に職員に甘みの利いた飲み物を要求する。なぜなら自宅でそのような生活を送ってきたからだ。両親はその利用者を甘やかせて育てた。欲しいというものは何でも与えた。そのまま施設に入所をした。利用者は施設でも同じ暮らしを続けようとした。しかし、自宅で好き放題の生活を続けたせいで、糖尿病にかかっていた。インスリンはまだ必要ではなかった。だが、甘いジュースをもしくは缶コーヒーを飲み続ければ、早晩糖尿病が悪化することはわかっていた。
 そこで職員は決めた。甘い飲み物は一日一本。
 果たしてそんなことがうまく行くだろか。先に、ジュースを飲ませないという結論があって、具体的な方法までは職員に教えない。そんなことはできないという、いわばまっとうな意見は、その場合無視される。
「それは難しいと思います」
 仮にそう言った職員がいたとする。いや、いた。ほかでもない空気を読まないわたしが言った。
 すると副所長から、
「難しくてもしなければならないんだ。それが我々の仕事なのだ。利用者さんの命と健康を預かっている我々は、できる、できないではなく、それをする義務と責任がある」
 そして、まったく現場を知らない所長が(副所長も現場にはめったに出ないが)、
「いま副所長がおっしゃられた通りです。わたしたちは命に寄り添う仕事をしています。それができないという職員は、この法人では、働けません」
 精神論と脅しの二本立てだった。それでも空気を読まないわたしは、
「それって思考停止だし、もっと言うとハラスメントの疑いがあるんじゃないですか」
 大いに揉めたが、いつものことなのでその話はそのままになった。福祉とはかくあるべきという精神論が先行して、結局、利用者にはジュースは一日一本となった。
 そして、虐待が起きた。目端の利く職員は、最初から一日一本のジュースなど守る気はない。自腹を切ってジュースを買い、密かに飲ませていた。それで利用者を抑えていたのだ。わたしもそうした。
 しかし、生真面目な職員は愚直に、愚策を守ろうとした。ジュースを買わないということは、大声を出され、場合によっては暴力を受けることでもあった。福祉業界は利用者に対する権利侵害には敏感でも、職員への権利侵害にはひどく鈍感だった。
 真面目過ぎた職員は、利用者からの絶えざる暴言と暴力にさらされ、ある日、ぷつんときれた。
 そして、利用者を殴りつけた。

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