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私小説 真実の瞬間

 それはこんな感じで起きると思ってもらえればいい。
 たとえば夜勤。あなたはひとりで就床支援を行なっている。とにかく今夜を乗り越えて、無事に朝を迎えたいと思っている。
 なぜならあなたの体調は思わしくないからだ。昨日あたりから頭痛が続いている。理由は、たぶん忙しすぎること。職員が退職したり、体調を崩して休んだりして、人手が足りず、あなたは多忙を極めている。疲れすぎて、よく眠れず、今日も夜勤で昼間眠らなければならないと思いつつ、ほとんど眠れなかった。頭痛はひどくなっている。眠くならないタイプの頭痛薬を飲んできたが、今のところ効き目はない。
 しかしそういう日に限って、落ち着かない利用者が出てくる。その利用者は時に大声を出す。施設で暮らす利用者の中でも対応が難しい利用者のひとりだ。興奮した彼が大声を出すと、他の利用者が起きてくる。そうなれば一晩中対応に追われることになる。
 あなたはすでにこの仕事を五年以上続けている。障害についての知識もある。対応も心得ている。だからたいていの事態には対応できる。
 とはいえ、相手は人間だ。自分の思う通りには動いてくれない。それぞれの利用者の障害特性を知っていたとしても、だから対応がうまく行くとは限らない。第一、あなたは研修などでこういう発言をしている。
「障害者が職員の思い通りになる。一見、職員にとってはありがたいことですが、果たしてそうでしょうか。彼らは意思を持った人間です。自由な意思があって然るべきです。しかし、私たちは利用者が自分の思い通りに行動してくれることを望みます。その考えは危険です」
 現実の夜勤の場では、そうもいっていられない。しかも悪いことに、あなたの体調は万全ではない。
 大声を出す利用者はまだ起きているが興奮はしていない。あはたは頭痛をこらえているが、そこは経験でなんとか大半の利用者を寝かしつけた。もうあなたは限界に達している。その場で眠りたいほどだ。だが、もう少しだ。もう少しすれば大声を出す利用者も眠るだろう。経験でそのあたりのことはわかるのだ。
 後少ししたら、とそのとき比較的軽度の利用者が自室から出てくる。嫌な予感がする。彼はゆっくりとした動きで、給水機のところに行く。そして、水を飲み始める。時間をかけてゆっくりと。
 あなたは苛々しながらその様子を眺める。
 こいつはわざと自分が水を飲む姿を見せびらかしている?
 もちろんわざと見せびらかしているというのは、あなたの苛立ちが生み出した妄想だ。彼はただゆっくりと水を飲みたいから飲んでいる。しかし、その行為の結果が引き起こすことを考えると、そういう妄想がリアリティを持ってくるのだ。あなたをそれを知っているが、疲れ果てたあなたは自分の心をコントロールをすることができない。
 案の定、厄介な利用者が水を飲んでいる彼に近づいていく。しかし彼は近づいてくる厄介な利用者を無視して、ゆっくりと水を飲む。やはり見せびらかしている。あなたの中で、否定しながらも、その考えは大きくなっていく。確かにそうかもしれない。彼は知的障害があるといっても中程度で、言葉によるやり取りも可能だ。ほかの利用者に比べて自分が優位であるということを、見せびらかしたい、そう考えても不思議ではない。彼はようやく水を飲み終えて自室に戻ろうとする。しかし、厄介な利用者が彼のパジャマを掴み、
「水、水」
 と、譫言のように言う。さっきまで水を飲んでいた利用者はうるさそうに、厄介な利用者突き飛ばす。普段のあなたなら、そういったことにも十分対応できる。この施設ではありきたりな、利用者同士の接触だ。しかし、その夜のあなたは、あまりにも疲れ果て、判断力も鈍り、行動もワンテンポ遅れている。
 突き飛ばされた厄介な利用者は、床にしりもちをつく。そして叫び始める。あなたは溜息をついて彼に近づいていく。興奮している彼に近づくことは危険だと知っているのに、あなたは近づかざるを得ない。
「大丈夫ですよ」
 あなたはそう言って、彼のそばにしゃがみ込む。その瞬間、彼の平手打ちがあなたを見舞う。あなたの思考が吹き飛ぶ。それでもあなたは、体に染み込んだ支援者としての習性で、彼をなだめすかして部屋に連れていく。部屋に連れて行っても彼の興奮が収まるはずもない。それでも廊下で叫び続けられるより、部屋で叫ばれる方がまだましなのだ。
 部屋に入るまでに、あなたは彼に何発か殴られている。彼に殴られるたびにあなたのなかで、よき支援者としての職員は消えていく。
 部屋に入る。扉を後ろ手で閉める。と、同時にあなたは彼を突き飛ばす。それも相当の力で。彼はベッドに倒れこむ。そのときのあなたの中にあるのは、怒りだけだ。しかし、冷静さも持ち合わせている。あなたは枕を手に取る。そして、その枕で、倒れている彼を殴る。何発も、何発も。
「死ねよ、お前」
 あなたは言葉に出している。
 それが真実だ。あなたにとっての真実の瞬間なのだ。よき支援者としてのあなたの、それが本当の姿だ。
 そして、朝が来る。
 いつもと同じように一日が始まる。あなたが枕を使って、利用者を殴打したことは、もちろん知られることはない、誰にも。
 知っているのはあなただけだ。
 あなただけが、あなたの真実を知っている。

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