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私小説 わたしの体験 7

 わたしは正しく、あなたは間違っている。人間が陥りやすい最大の罠。わたしはいつだって正義だ。わたしと異なる考えを持ったあなたは悪だ。
 福祉というのは、政治に似ていると思うことがある。何が正しいのか明確な基準はない。福祉における正しさは主観的だ。わたしは正しいという主張は、本人にその意思がある限り、いつまでも続けることができる。だから、わたしはわたしの正しさを証明するために、あらゆる手段を用いる。人を議論で言い負かすことはできない、短刀一本あれば済むことだと言った西郷隆盛は、真実を知っていた。
 自分の正しさを、あらゆる手練手管を使って証明しようというのは、一種の政治的駆け引きだ。福祉職場では、この政治的駆け引きに長けた者が上に行く。そういう傾向があるということではない。実際にそうなのだ。現実を無視して、実現不可能な理想を語ることができる者が登っていくのである。現場における彼、あるいは彼女がどの程度の者であったのか、口ほどにもないことは誰でも知っているが、上がってしまえばこっちのものなのだ。権力さえ握れば何でもできる。
 そういった方法で組織内での地位を築いた者は究極どうなるのか。
 独裁者になる。
 巧みな政治的手腕を発揮して、組織内を登って行って、頂点、もしくは頂点に近いところまで行った者は、保身のために何でもする。現場における技術は見劣りがしても、政治的な駆け引きには長けているのである。政治的手腕をいかんなく発揮して、自分に反抗的なものを排除し、自分にとって従順な者を側近に置く。人事権を握っているのだ。その気になればなんだってできる。
 客観的に見ればそれは権利の濫用だが、本人は、わたしの理想を実現するためだと自分自身に言い聞かせているかもしれない。
 では、そのやり方で、理想の福祉は実現できるのか? できない。自分の周りにいるのはイエスマンばかり。そして、これも独裁者の常だが、側近には自分よりもやや劣るものを置きたがる。その結果、脆弱な、変化に対応できない組織ができあがる。元は優れた組織であっても、歪な組織にに成り下がっていく。
 トップかもしくはトップ近くにいるわたし。そんな立派なわたしの意見に異議をを唱えるなんてありえない。だからわたしの意見に異議を唱えないない者だけをそばに置く。それは、わたしに間違いがあっても誰も正してくれないということだ。権力を握ったわたしは、そういうことが見えなくなっている。
 虐待が起きる。対応策を考える。しかしその策は、自分たちは一生懸命やっていますという、アリバイ作り以上のものにはならない。
 虐待は、そして繰り返される。
 しかし、よくしたもので福祉業界でいったん権力を手にしてしまえば、多少のことでその座を追われることはない。虐待があっても、それが虐待であると認定されることも少ない。確かに組織のトップは、発生した虐待の責任をある程度は問われるが、その座を追われるほどのものではない。多くの責任は、虐待を行なった一般職員がとらされることになる。
 決定的な解決策を見つけることも、そもそも見つける意思もなく、虐待は何度も何度も繰り返される。
 わたしが、救いがないと思うのはそういうところだ。

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