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「死」を頂けるのか 釈行信「常々無常流々流転」No,005 『西念寺だより』平成21年7月号掲載

 地域で開かれるご法座「十三日講」で「あなたはがん告知をして欲しいか、また身内にがん告知するか」という問いを頂きました。

 がん告知の有無自体で問題が解決することはなく、その背景にある人生観が問題の要(かなめ)だろうと思います。それは真宗における機の問題じゃないでしょうか。私はどういう状態(存在)であるか、それが機の問題です。これまでは当然のように生きてきて問題なかったかもしれない。しかしがん告知の結果、そうではなくなった。もしそうなら、これまでの生き方が私の機に応じた生き方でなくなったわけです。それは今までの人生観では今の私は間に合わないということです。私にふさわしい時(じ)機(き)相(そう)応(おう)の教えでないということです。

 真宗は、生き方が定まるかどうかわかりませんが、その人生がどのような状態であっても救わんとする如来のはたらきがあると思います。それは摂取不捨「摂(おさ)めて捨てじ」という利益が如来のはたらきにあるからです。その如来のはたらきとともに生きる、浄土往生という生の意味が与えられるのだと思います。こういうことを思いますが、言い切るところまではいきません。


無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな

生死(しょうじ)大海(だいかい)の船(せん)筏(ばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ

願力(がんりき)無窮(むぐう)にましませば
罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)おもからず

仏智無辺(ぶっちむへん)にましませば
散乱放逸(さんらんほういつ)もすれられず

『正像末浄土和讚』愚(ぐ)禿(とく)善(ぜん)信(しん)〔親鸞〕集(あつむ)


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