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熊猟師のアラスカ紀行

【旅のきっかけ】
揺れるオーロラ、タイガの森、ツンドラの荒野、湖水に水草を喰むカリブー、朝日に光るトナカイの大群、悠々たるブラウンベア、先住民の唄や狩猟。
いつかは訪ねたいと憧れたアラスカに、定年を迎えてようやく行ける!となったところ、パンデミックと戦争で世界が大きく波立ち、米国は厳しい出入国規制を実施、更には円安、原油価格上昇…2021年から22年は、海外渡航を計画するにいささかハードルの高いタイミングとなった。
しかも英語が不得手、単独渡航は無謀と思われたが、疫病や戦争がいつ終息するかしれず、明日には災禍が拡大して此の身に降りかかるかもしれず、ならばやりたいことはやれるとき(元気に生きているうち)にやっておくべきだ…という結論に至る。
ということで還暦熊猟師がアラスカに行ってきました。
予想どおりというか想像以上というべきか、旅に出る前も旅の途中にも、障壁やトラブルが盛り沢山で、顧みればよく無事に帰って来られたなとは思うけれど、旅の間はトラブルも楽しくて、この経験がいつかまた自分や、誰かの役に立つこともあるかしらと思い、旅行記(忘備録)を残すことにした。
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid02S6QT1KPqSSSQCY4XQXsQkT8KU1qXiuLPacLeUZYYkWQoh9CR5MGaWw7n3noWDggil/


*先にお断り申しておきますが、アラスカでは一切狩猟行為を行っておらず、したがって何か狩猟記的なものを期待する方には少々裏切ることになるかもしれません。
*帰国後1年をかけて旅の記録をまとめましたが、現地からリポートした文章も混ぜているので、口調文体時間軸がちぐはぐになることや、記憶違いや主観によって歪曲されている部分ももしかしたらあり、素人の筆ゆえ文章も読み難いのはご容赦願います。

【パンデミックにおける海外渡航準備の制限や手続きなどについて】
●渡航準備開始、2021年12月(出発予定は2022年8月中旬)
①パスポート作成・国際運転免許取得
・渡航手続きのほとんどすべてに旅券番号やパスポートのコピーが必要となるため、最初にパスポートを作る。役所で申請から受領まで1週間から10日ほど。
・国際免許はパスポートを持って免許センターに行けば即日(数時間)で取得ができる。

②飛行機チケット
・チケットの手配は、代理店をいくつか当たって、「ワイルドナビゲーション」という代理店にお願いすることにした。代理店の決定に当たっては、疑問質問に対する応答対応の良さが決め手になった。(大手のH●Sは「仮申し込み受け付けました」という自動返信が来たあと一切連絡が無く、個人旅行の手配はやる気が無いと判断。)

③コロナ禍における渡航制限対策
・今回利用したJALでは、ワクチンの接種照明と連携した搭乗手続きアプリ「VERIFLY」のダウンロードと入力が必要。
・ワクチン接種照明は国が作った「MY SOS」アプリをダウンロードし、ガイドに従って必要事項を記入。
・2022年8月時点で米国は入国制限を実施中、電子渡航証明書「ESTA」の発行が入国前に必要で、申請は指定書式のペーパー(申請書兼宣誓書)を大使館に郵送で提出するのだが、記入を間違えてしまうと再申請は(入国できない者が書類を誤魔化して入国しようとしているのではないかと疑われ)審査の時間が余計に掛かり間に合わなくなる可能性があった。よって全文英語表記英語記入の申請書作成提出については、手数料5,000円を旅行代理店にありがたく支払って代行をお願いした。

④現地通貨の準備
・クレジットカードはVISAもMASTERも持っているが、日本国内で発行されているこれらのカードは通信環境の整った場所でしか使えないので注意がいる。例えば通信環境の脆弱な田舎のGSや商店などでは、日本のカード会社に確認するまでの通信時間が掛かりすぎ、「接続不能」のエラーが発生して使えないことがある。
・よって通信環境の不備な僻地を訪れる場合は、渡航前になるべく有利なレートで現地通貨を幾らか準備しておくのは旅慣れた人の常識。(私は旅慣れていなかったのでカードが使えず慌てました)
・両替率が良くて手数料も安いということで、近頃欧米で利用者が拡大しているデビットカード「Wise」カードを作って行ったところまあまあ使えたが、場所によってどんなカードも役に立たないことがあると知った。

⑤為替レートと物価
・出発当日は1ドル135円、旅の間も絶賛円高進行中で米国内はガソリン(1リットル180円)をはじめ米国物価は急上昇。ハンバーガー&コーラ&ポテトにチップを足して1食2,000~2,500円。バストイレ洗面所の付いていない部屋で一泊22,000円。日本の物価(所得と言い換えてもよい)の安さを痛感した。

⑥英語、コミニケーション(通信機器の選択含む)
・電子翻訳機とスマホのグーグル翻訳の二本立てで準備をしていった。最近の電子翻訳機はコンパクトで良いのだが、会話の相手に対して「得体のしれない機械」を向けて「これに向かって話して」と言うのもなかなか言い難いものがあり、その点スマホは誰もが見慣れているので相手に向けて差し出すだけで、相手は「グーグル翻訳ね!」と言う感じですぐに理解してくれるから、対人ではスマホのほうが断然に使いやすい。
・会話は勢いと姿勢である。笑顔を作って「hello!」「thank you!」「sorry」「Please help Me」が言えればだいたい何とかなる。(店舗などでは先にチップを多めに手渡すとモノゴトがスムースに進むことも多い)
・日本人が特に気を付けるというか気配りが必要なのは、建物の入り口やトイレやエレベーターに出入りするときや、公園のベンチに座るとき、狭い道で犬を連れた散歩中の人とすれ違うときなど、逃げ場のない空間や相手のパーソナルエリアに接近する場合には、必ず軽く笑顔で「Hi」とか挨拶を発すること。これは相手に対してこちらが危ない人間でないことや敵意が無いことを知らしめて安心させる必要があるからで、銃所持率が全米で一番高く、しかも大麻使用が違法でないアラスカでは(先住民と外見が同じ日本人は特に)必要な所作である。
・詳細な理由は後述するが、携帯電話が海外でも使える海外用SIMカードは「必ず」国内で準備実装(設定まで)していくこと。

⑦服装、TPOの使い分け
・海外での服装や身なり持ち物(外見)は重要である。それはやはり薄汚れたヨレヨレの身なりでは、薬物やアルコールなど何らかの中毒者かホームレスと疑われ、アメリカのような銃社会では警戒されるのが当たり前だし、公共の場や催事会場ではTPOに合わせた服装でないと「周囲の人を不快不安にする」「場に対する理解やリスペクトがない」とみなされ入場を拒否されることもある。田舎者の私は服装に頓着しないので、頭にブッシュハット、ハーフジップシャツの上に30年モノのフィッシングベスト、カーゴパンツにワークシューズといった、「たったいまその辺の河で釣りをしていました」的な服装で、しかもサングラスまでしていたから、公共の場ではけっこうポリスやセキュリティから厳しい視線を送られた。(職質してやろうかと近づいてくるポリスもいた)、そのような時は、腰のポーチからニコンのデジタル一眼ミラーレスカメラを取り出してさりげなく風景撮影などすると、MADEINJAPANのオーラが、先ほどまで「先住民の酔っぱらい」にしか見えなかった私を、「なんもわかってない日本人観光客」へと瞬時に印象を変えてくれるのであるが、くれぐれもカメラを取り出すときは、飾り物や景色などに何か感心感動している様子で目を向けながら、手の動きはゆっくりゆっくりやるのがよろしい。このあたり少し間違えると、例えば近づいてくるポリスやセキュリティに視線を送りざま、腰を素早く落として懐やポーチに手など入れようものなら、「Freeze!(動くな!)」と即座に銃口が向けられ、最悪の場合は撃たれることにもなるから注意が必要なのである。

⑧飛行機乗り継ぎ
・数十年ぶりに利用する国際ハブ空港での乗り継ぎを、ハッキリ言って私はナメていた。35年前にカナダへ行った際はさしたる苦労も遅滞もなかったので、きっと今回も大丈夫だろうとタカを括り、乗り継ぎ時間を2時間弱しか確保していなかったのだが、乗り継ぎのシアトルではまず入国審査の場所がなかなか判らず、やっと辿り着いても混んでいたので審査が終わるまで1時間もかかってしまった。(どうやって審査場所に辿り着いたのか、いま思い出しても冷や汗が出る)。入国審査を抜けてアラスカ航空の搭乗ゲートまでの移動も、シアトルターミナルは地下鉄で移動するほどの広さなのに、英語不得手なものだからどの地下鉄に乗ったらいいのかなかなか判らんかったし、案内表示も英語ばかりで不親切(当たり前なんだけど)。
・何とか辿り着いた乗り継ぎターミナルの入り口で再び搭乗前の検査を受けるが、これがまた厳重なものだから混雑極まりなく、私のように空港外へ出ていない乗り継ぎ客であろうと、容赦なく徹底的な検査が行われる。
昨今の常識らしいが、預け荷物に積み込む液体類は適正な容器に適正な容量でジップロックに収めなければならず、X線検査では上着や手荷物の中身は何から何まで持ち物は全て取り出し、履いている靴まで脱いで、身体と荷物は別々にX線検査機を通過。もしもスーツケース内にX線で判断しがたい品があれば、有無を言わさず中を確認される(これにはもれなく出された荷物を再び詰め直すというおまけの罰ゲームが付く)ということで、日本出国時の検査より米国内のそれは更に徹底的で、9・11で変容した米国テロ対策の厳しさ身を以て経験した。
 ようやく検査を通過したところで時計を見ると、なんともう出発予定時刻ではないかOMG!預け荷物のカウンターに走ってスーツケースを係員に手渡すと、「これ間に合うのかな」みたいな係員の表情が不安を煽る。が、とにかく急いで荷物を預けて、本当に嫌になるくらいバカ長いターミナル通路を走って走って、階段を駆け上がり、そこにまたバカ長い通路があったので心折れそうになるがまた走って走ってやっとアラスカ空港の搭乗カウンターに到着したが、既に出発時刻を10分オーバー。
搭乗手続きカウンター付近に他の乗客の姿も無く、カウンターで談笑している受付のお姉さんに、次の便に乗れるか聞いてみようと肩を落としながらチケットを見せたところ、「OhⅯy!…」「Hurryup!」とかなんとか、血相変えたお姉さんに背中を押されて搭乗通路へ促された。ワケワカランけど、もしかしたらと搭乗口に走りながら振り返ると、お姉さん無線機に何か話しかけている。
狭い搭乗通路の角を曲がったとき「閉まりかけた(ほぼ閉まっていた)飛行機のドア」前にツナギを着たクルーがいて、閉まりかけていた(ほぼ閉まっていた)ドアを開けてくれ、ギリセーフ(本当はアウト)で搭乗!ドアの内側にスラリと立った青い瞳の綺麗なCAさんが「Welcome AlaskaAirlines」とプロの笑みで迎えてくれるが、たぶん「もっと早く来い」と思っていたに違いない。
美人CAに案内され満席の機内を後部エコノミー3列席の窓際自席へ。すでに座って寛いでいた先客にソーリーソーリーと恐縮しつつ着座。「次から乗り継ぎにはもっと余裕をもとう」と心に固く誓ったのであった。

 はて、旅の準備について書いていたつもりが、いつの間に旅が始まった体なので、このまま旅行記に突入する。

【旅行記】
●日本時間8月13日8:00、自宅出発。15時成田着。18:05成田発JAL機搭乗。
大型の台風8号がちょうど離陸時刻に成田空港を直撃するように近づいていたが、風向きが良かったようでなんとか離陸(過去いち揺れました)。隣席には娘と同い年のお嬢さんが、これからアメリカ留学に行くという。この時代に海外へ踏み出す気概に感動しおじさんは勇気をいただいた。若者の前途に幸あれ。
太平洋上空の旅は長かったがJALのサービスは快適。青い夜空に月齢15日の満月が煌々と輝いて眩しいほどだ。
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid0A3wEyoxBALR66Lzs1oCCXySqzqseXiHzUm4YJT38xXdTaAuv3KFFAZ43Ewxd7usel/

●日本時間8月14日3:00(現地時間8月13日10:00)シアトル着。
 乗り継ぎのドタバタは前述のとおり。長時間のフライトよりも疲れた。

●日本時間同日5:10(現地12:10)シアトル発アラスカエアライン搭乗。
不可抗力や自業自得の結果生じた様々なアクシデントを何とか乗り越え辿り着いた(この時点ではまだぜんぜん辿り着いてはいないのだけど)アラスカは、夏から秋に移る観光シーズンで、しかもちょうど米国内ではコロナの移動制限が撤廃され、国内の旅客が浮き立って押し寄せている真っ只中だったから、アンカレッジ行きの飛行機は満席だった。
搭乗後ホッとする間もなく離陸。機はぐんぐん高度を上げて、気持ちよい青空の下にシアトルの美しい街並みが輝いて見える。イチローが活躍した野球場の芝や、深い青さを湛えたピュージェット湾の複雑な入り江に、大小の白い航跡が美しい。そして機が旋回すると、南方のレーニア山やセントへレンズ山の白い頂も見えた。

太平洋横断の疲れや乗り継ぎのドタバタから、すぐに寝落ちしてしまうかと思いきや、もうすぐアラスカと思うと興奮収まらず、到着まで2時間半の間ずっと窓に額を押し付けて機外を眺めていた(子供か)。
そうしてあっという間、機が降下しはじめて、雲の下に忽然と現れた広大な干潟の海は、おそらく一生忘れない。

●日本時間8月14日8:30(現地時間8月13日14:30)、テッドスティーブンスアンカレッジ国際空港(正式名長い)にベリーソフトなランディング、ついにアラスカに到着した。自宅を出てもう24時間を過ぎているのに、出発した日と同じ日付(時差-17時間)ってなんだかおかしな感じ。
入国審査はシアトルで済んでいたので、預けた荷物を受け取ればOKのはずが、いつまで待ってもスーツケースが出てこない。こりゃ荷物は間に合わなかったかなと諦めかけたところにマイバッゲージが現れた!(グッジョブアラスカエアライン!)
スーツケースを椅子替わりにして一息つきながら「世界中どこでも使える」という謳い文句で利用を決めた「イモトのWiFi」の電源を入れる。が、ウンともスンとも反応しない。充電は出発直前にしてきたし、操作間違いかなとマニュアルペーパーを開いて表示通りやってみるが、何度繰り返しても同じ。もしかして充電不足かしらと空港内の電源に繋いでもダメ。ケーブルを替えてリトライしてもダメだった。
渡航先でのあらゆる手続きや連絡決済、翻訳機もネット接続Wifiありきで準備してきたのであるからこれは大いに焦る。
幸い空港内はフリーWifiが使えるので、「イモトのWiFi」には機器故障の連絡メールを送信しておいて、国際空港ならだいたいある携帯ショップへ駈け込み、そこで米国内で使用できるプリペイドSIMを急遽購入。
と、簡単に「メールを送信」とか「プリペイドSIMを購入」と書いたが、イモトのWiFi社の機器故障対応連絡先を調べるのに1時間以上もかかった (故障などクレームの対応はワザと連絡先が判り難くしてあるように感じる) し、アンカレッジ空港の携帯ショップでは当然日本語が通じないから、プリペイドSIMの使用期間や使用地域や値段やキャリア会社など膨大な種類がある品物のどれを選択するかとか、店員さんとのやりとりは全て英語(当たり前)だし、なんとかSIMを選択購入できても、現地で購入したSIMは現地語でセッティングしなければならず、店員さんにお願いすることになるわけで、それには自分の携帯電話の地域(言語)や何やら設定を替えなければならなかったり、、、イロイロトニカクメンドイ!
しかもやっと数時間後にイモトのWiFiから返信が来たと思ったら「代替品ヲ送リマスカラ滞在先ノ住所ヲオ知ラセクダサイ」「FEDEXデ送リマスノデ到着マデ4日カカリマス」って、行き先日程の決まっているツアー旅行じゃあねーんだよぉイモトさんYo!と、なぜか最後はラッパーのように独り言で毒づいていた。
新たな教訓。海外旅行へ行くときは、国内にいるうちに海外で使えるSIMを準備し、国内で一度セッティングしておくということを、到着早々に勉強させていただきました。ありがとうイモト。(ついでに書くと、国内で購入する海外SIMは設定が日本語対応なのでラクチンだということも帰国してから知った)
ようやく使えるようになったスマホを持ってまず現地情報(特に先住民の暮らしや狩猟を見学するには何処に行けばよいのか)を仕入れておこうと空港インフォメーションに向かう。
インフォメーションカウンターには二人の女性係員がいたので、できるだけ自然に笑顔を作りながら「えくすきゅーずみー」と意識的に日本語英語で切り出した。(発音が上達してくると、「ある程度英語が理解できる」と思われ、相手の返答が早口になる傾向がある。)
自然な笑みとスマホのグーグル翻訳も駆使して「先住民の伝統的な猟(漁)が見たいが何処に行けばよいか」と聞いてみたところ受付のお嬢さんたち、おいそんなことは調べてから来いよ的な空気をそこはかとなくほんわりと出しながらも丁寧に、「伝統的な狩りをして暮らす先住民がどこにいるのかここでは判らない」と言いながら辺りを見回して、通りかかった先住民の血を引くらしい係員に声をかけて訊いてくれた。
10数年前に亡くなった爺ちゃんの従弟にそっくりなその先住民系の係員さんが言うには「海や河が凍る冬でなければ先住民は狩りをしない」「昔ながらの狩りをする先住民はこの辺りにはいない(知らない)」「アンカレッジ市内のビジターセンターや博物館に行けば先住民のことが詳しく知れる」と教えてくれた。
何度も頭を下げてお礼を言いいながらその場を離れたが、空港ロビーを横切り歩きつつ、自分の愚かしさに唖然。憧れた先住民の暮らしや文化に関する書物を読んだのは半世紀も昔のこと、しかもその本が書かれたのはアラスカ開拓時代のずっと昔なのである。十年ひと昔どころか1年で世の中が大きく変わる今の時代に、先住民の暮らしが大きく変わってしまっていることくらい、少し調べれば解るはずだった。なのに「アラスカに行けば先住民の狩りの様子が見られる」などと思っていたのは、「日本に行けばニンジャやサムライが見られる」と思っている外国人旅行者と同じではないか。そんな単純な思い込みをしていたことが恥ずかしく感じて自嘲した。

通信が回復したスマホで現地の知人に連絡を入れ、空港ロビー風除室の回転ドアを通過して外に出た。
ドタバタと思い通りにいかなかった旅の初日に溜まった疲れやストレスを吐き出すように、大きく深呼吸して新鮮なアラスカの空気を吸い込んだその瞬間、「ここはアラスカなんだ!」と実感した。それは東京やシアトルで感じる、自動車の排ガスや都会の様々な匂いが混じった都市臭と違う、甘くて清涼な、何かの香りが濃く溶け込んだアラスカの空気。(それが何の香りかは数日後に判る)
異国の甘い空気を吸いながら待つことしばし、迎えに来てくれた知人にウェルカムディナーを御馳走になり、その日は知人宅へ。シャワーを浴びて、お借りした部屋で旅の記録を綴りはじめたらいつの間にか眠り込んでいた。

●現地時間8月14日(日本時間8月15日)
計画のない旅では、まず土地勘を養わなければならないということで、アラスカ第1日目は知人にアンカレッジ市内を案内していただけることになった。市内中心部から郊外までの通りはどこも広く真っすぐで、同じような区割りや景観がどこまでも続くアンカレッジは、通りの名前をしっかり憶えておかないと迷子になってしまうと理解した。
人口30万人の州都ではあるが、意外に山並みが近くて地理的な雰囲気は日本の田舎街に近い。
ただし山の頂には夏の今も雪が残り、街路や公園の植生はモミやシラカバが主で種類が少なく、繁華街のディスプレイもシンプルで、碁盤の目のように整然と配置された開拓都市であるから殺風景かと思えばさにあらず。ヨーロッパ的な雰囲気と自然とが美しく調和した、なかなか魅力的な街という印象を受けた。
冬が厳しいアラスカに暮らす人々は、ようやく訪れた暖かい季節を心から慈しみ楽しんでいるようで、散歩する老夫婦や釣りをする親子、芝に座ってじゃれ合う恋人たち、湖に浮かぶボートや軽飛行機などでレジャーを楽しむ人も沢山見かけたが、それらが背景の自然と一体になって、ゆったりとした時間の流れを感じる。
などと見るもの触れるもの全部に感動していたら、土地勘などまったく身に付かず1日が終わってしまった。(だいたい広すぎて、一日で土地勘が身につくはずもない)

●8月15日(日本時間16日)
シルバーサーモン釣行
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●8月16日(日本時間17日)
アンカレッジ市内散策
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid02ihXcXQmAtcGv4L7FjjGYC5H3be1wynqZoXxjxCUZPAgV6ujZAMYEbQ87Gi2F6Mjbl/
アンカレッジ博物館を見学したあとに、先住民の空港係員が教えてくれたビジターセンターも訪ねてみた。
そこは現役のレンジャーが運営している施設で、正式名称を「ALASKA Public Lands Information Center」という。市内中心部にあるその施設は、一見すると図書館か博物館のようだが、玄関に入るとすぐ、腰に銃を下げたレンジャーがバッグや衣服の中の所持品は勿論、靴まで脱がせて金属探知機を当て、まるで飛行機に乗るかのような厳重なボディーチェックを行ってから、コイツは問題無いと判ると、漸くニッコリ笑顔で中に入れてくれる。
こんな厳しいセキュリティチェックがある施設って、いったい中には何があるんだろうかとドキドキしつつ廊下を隔てたドアを開けて室内に入ると、内部は外観から受けた印象以上に博物館的、というより、かなり充実した展示が並ぶ立派な博物館だった。しかもそこでは優秀で頑健なレンジャーが、物腰柔らかくお土産品の販売や展示の説明をしてくれているのである。土産物売り場の美人レンジャーさんに「何故入場時の警備があんなに厳しいのか?」と聞いてみたら、9・11から米国の公共施設はどこも同じセキュリティレベルだそうで、この国はまだテロとの戦いの最中なのだと再認識する。
施設の中ではアラスカの自然環境や野生生物の現状を、はく製や写真、映像や立体グラフなど最新のデータで展示解説していて、本当にアメリカという国の、博物学や記録保管展示することへの執念と熱意は、もしかしたら開拓以来あらゆる動植物資源を乱獲乱伐してきたことの反動なのかしらと思うくらい、資金と人手がかけられていることに半ば呆れつつ、感心しながら見て回った。
この施設では、地球規模の温暖化が我々の住む温帯域よりも北極圏などの極地でより顕著に進行していて、海獣も陸上の大型動物も昔より大きく数が減っていることなど、科学的客観的な資料から丁寧に解説してくれるのでとてもよく理解できるのだが、このような充実した展示施設が国内のあちこちに沢山ある米国において「温暖化は陰謀だ」などと唱える人(主に共和党支持者)が多いというのがまた不思議でもある。

展示や解説によれば
アラスカではずっと以前から海や川が凍る時期がどんどん遅くなっていて、冬も低い気温が安定的に継続しないから氷の状態が不安定で、それは海水温や海流の異常に起因するものであるから、海藻や動植物プランクトンに依存する魚や海獣たちの行動サイクルも変容し、したがって沿岸先住民の狩りや漁も不安定になる。
さらに海面上昇によって海岸や河口近くの土地が侵食され、同時に地盤沈下も進行して、たとえ良い猟場が近くにあっても放棄し村ごと移住せざるを得ないこともあり、もう先住民の伝統狩猟というものが見られる場所は殆どない。
そして温暖化の影響は海だけでなく内陸でも顕著で、冬に硬く凍り付いた川や湖を「季節限定の高速道路」のように利用していたものが、足を載せるのも不安なような薄く弱い氷が散在する状況では、生活物資の運搬や人の往来が困難になって遺棄された村が幾つもある。
また永久凍土が溶けて河川に泥流が流れ込みサケマスの産卵床が泥に埋まって遡上が無くなった河や、森林伐採や石油開発の影響でトナカイやバッファローの群れが来なくなったところもある。それでも一部の先住民は、GPS付きのスノーモービルやバギーやモーターボートや、(レーザー測距+角度補正+手振れ防止機能の付いた)超高性能なライフルスコープなど、現代の便利な道具を駆使して、人手不足や猟場環境の悪化を埋め合わせながら猟を続けているが、「そんな狩りを見たいのか?」と改めて問われれば、哀しく首を振るしかない。
ところで、伝統的な狩猟文化が絶えつつあるからといって、先住民が皆貧困に喘いでいるわけではない。先住民には政府からの生活援助と、資源開発にかかる何がしかの補償や配当に加えて、彼らだけに与えられている(勝ち取ったともいえる)様々な優遇や特権があって、その恩恵を受けながら独自の文化習慣(狩猟民族のスピリッツとでもいうだろうか)を守り暮らす者もいれば、現代社会に合った学歴とスキルを身に付けてアメリカンドリームを目指す者、収入を酒代に回して道端に酔っぱらって寝る者、全ては自由選択の自己責任がUSAの流儀で、先住民にもいろいろな考えの人がいて、十人十色の暮らし方(選択)があり、それは自分のようなヨソモノが、安易な理想やノスタルジーから心配することではないのである。

閑話休題。

先住民の伝統的な狩猟文化は衰退する一方のようだが、米国(アラスカ州)には、「野生動物は人が利用管理すべき資源であり、ハンティング(=ゲーム)は市民の健全な嗜みスポーツである」という西欧的な狩猟思想がある。こうした視点で行われる自然環境や野生動物の保護管理、ハンティングの現状などに関して知ることも、アラスカに来た目的の一つだった。
レンジャーの説明によれば、野生動物とその生息環境に対する温暖化の影響は大きいが、ハンティングは気候や地理条件を吟味したうえで、明確に区画された地域ごと、且つ動物の種類や性別個体の大きさごと、それぞれ生息数やエサの状況まで正確に調査し、厳しい条件を付けて許可されるから場所や動物の種類によって資源は回復しつつあるという。
また先住民はライセンスを買わなくても猟(漁)ができるが、州(国)外から来るビジターハンターは安くないライセンスを買い、更にガイドの帯同を義務付けられて、獲物がいるところまで案内され、ガイドが見つけた獲物を「はいどうぞ」と撃たせてもらうのが一般的。
州(居住)民の場合はガイドの帯同は不要で、外来者よりはずっと安価なライセンスで狩りができるから、シーズンともなればバイクやバギーで広大な猟区を移動しながらハンティングを楽しむ家族が多いのだという。(公立中学では、狩猟管理局の職員がムースハンティングの体験授業を行うというほどハンティングは生活文化に定着している)
お金や時間に余裕のある人は、馬や飛行機など各自の好みや財力に応じて好きな移動手段を使い「レギュレーション(撃って良い種類大きさ)に適う獲物」を探して、野山を縦横無尽にハンティングするが、いずれもゲームハンティングでは、獲物を狩る行為そのものや、剥製にして家に飾ることなどが目的であるから、クマなどせっかく仕留めても肉を利用しない(食べない)。だからクマを撃つときには反撃されないよう「倒れるまで」銃弾を撃ち込むのだという。
私も多くの人から「アラスカには狩りをしに行くのか」と訊ねられたし、実際クマなどはとても増えているからライセンスさえ買えばいつでも撃ってよいのだそうだけれど、獲物を食わず、毛皮や剥製だけ作って飾るだけの欧米式のゲームハンティングに、私は全く魅力と興味を感じない(むしろ嫌悪を感じる)。
私がする猟は、なるべく獲物の肉を傷めず、血抜きが素早くできる急所の一点を最適な距離と角度まで忍び寄って一撃一弾で勝負をする初矢必中の狩りであり、実際のところ残雪の上で素早く丁寧に解体して放血と熱冷まし処理をしたクマ肉はとても美味い。
アラスカ先住民同様に獲物をくまなく利用して生きてきた山の民として、ただ毛皮や角が目的のゲームハンティングを、しかも他所(の神)様の土地でやろうとは全く思わないのである。
しかしせっかくアラスカに来たからには、かつて先住民の若者が弓矢を持って一人で狩りに行ったように(獲物を持って帰れば大人として認められるという通過儀礼もあった)、アラスカの原野に一人で野営して極北の自然を全身で体感してはみたかった。

●8月17日(日本時間18日)
拳銃射撃練習
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●8月18日(日本時間19日)
アラスカの奥地へ移動
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid0wRgSNTv3AuWtaywEbsj35yaYYNiC6bfkjxcY2EXD5FE299u1qfsY7jBDjUjMvcQQl/

アンカレッジ空港から一歩外に出た時からずっと感じていた甘い香りは、奥地に向かって進むほど濃厚になり、タイガに入ると香りのあまりの強さに軽く頭痛を感じるほどだった。しかしそれも時間が経過すると慣れてくるから人間の順応力というのもなかなかのものである。慣れてきたところで香りの元を辿って森に入ると、それはタイガの森を構成するホワイトスプルースの樹脂香だと判った。
スプルースは北半球の諸大陸に広く分布するマツ科トウヒ属の針葉樹だが、北極圏に近いここアラスカの高地では、低木のベリー類や地衣類が覆う薄い土壌に高木は樹高数メートルの(それでも樹齢は100年を超える)ホワイトスプルースだけが生えている。
このスプルースの樹脂は、細菌や真菌に対する抗菌性があり、先住民は傷の炎症を抑える塗り薬や、喉や鼻の粘膜を保護するトローチのようにも利用したというが、なるほど日本の菌が共生する身体にはきっと微毒のように作用して、おそらく頭痛はその副作用であったのか。
またこの樹脂があるからこそマイナス50℃の極寒にも凍裂せず耐え得るのであるし、着火性が良く生枝でも非常に良く燃えるから野宿の際の薪としても最適。材としては成長が遅いけれど、木目が素直で加工もし易いことから、少し南の暖かい地域で樹高20m以上に育つスプルースは、大量に伐採されて日本にも輸出された。

●8月19~20日(日本時間20~21日)
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid02f28dxdeehPrsPzzWUg7tHq9A33RaFBGixFZrPnb3XXaqrTiCYTyUCdrz9o9yfzgxl/
*法的道徳的な諸般の事情により、ここからの記述はフィクション(が混ざります)です。

ハンティングロッジに泊った夜は、白夜にまだ慣れていないからなのか、それとも念願のツンドラタイガに来た興奮の所為か、はたまた濃厚なスプルースの香りの副作用か、真夜中(の時刻)に目が覚めてしまったらそのあとがなかなか寝付けない。
部屋の反対、壁際のベッドですやすやお休みになっているW氏を起こさぬよう、そっとトイレへ。
日本ならまだとっぷりと暗い時間のはずなのに、もしかするともう朝なのかと狼狽えるほどの明るさに、北極圏の近くまで来ているのだという事実を再び強く実感する。
しかも今は8月の盛夏というのに、地面に薄氷が張り、対面の山は夜半に振った新雪で白くなっているではないか。薄着の腕をさすり白く息を吐きながら、別棟にあるトイレのドアを開けようとドアノブに手をかけたとき、白いペンキに塗られた木製のドアに無数の小さな穴が空いているのを見つけた・・・これは、もしかして・・・。それは見紛うことのないショットガンの弾痕。。。 うーん、アメリカン。
なぜトイレのドアが弾痕で穴だらけなのかワケが解らないが、アラスカでいちいち弾痕を気にしていたら日常生活が送れないということは、ここ数日の体験で既に解かっていたので、とりあえずドアを開けて用を足す。
トイレで弾痕(漢字変換を間違えると大変だ)を見てしまったのと寒いのとで眠気もすっかり覚めてしまったから、部屋には戻らず、飛行機の滑走路まで備えた広大な敷地を散策する。
空は明るいがまだ時刻は3時くらい、まだほかの客もスタッフも寝ているだろうと思ったら、昨夜バーで会ったスタッフのルーシーが、ガラス張りのデッキで一人コーヒーを飲んでいた。
歩きながら手を挙げて挨拶すると、彼女が手招きしてくれたのでデッキに近づき、小さな声で、できるだけ爽やかな(ように見える)笑みを浮かべ「Good morning! you get up early!」と、女性に対しては自然に英語が出てくるのが自分でも不思議である。すると彼女は、こちらにどうぞとドアを指差してくれた。
暖かい室内に入って礼を言いながら椅子一つ離れて座り、彼女が淹れてくれたコーヒーを「Thanks」と受け取ってゆっくり啜る。
霧が舞うタイガの森を眺めながら、金髪美女の傍らでウッドチェアに深く腰掛け足を組みコーヒーを飲む俺。
うーん、アメリカン… 憧れていた映画のワンシーンのようではないか。

ルーシーの髪はブルネット(よく見たら金髪でなかった)のセミロング、笑うとエクボがキュートである。
左上腕に日本の鳥獣戯画のカエルをモチーフにしたタトゥーを入れているほどの日本好きらしく、ワシントンから大学の夏休みを利用してワーキングホリデーに来ているという学生さんだった。大学ではアラスカやカナダ先住民の民俗文化を学んでいるが、日本の文化や自然についても興味があるそうで、いろいろ尋ねられて朝から話が弾み、たった1時間ほどで私の英会話力は数段レベルが上がったように思われ(上がったのはグーグル翻訳の活用スキルとも言えるが)、なるほど外国語の上達は「好ましい異性との会話」が効果テキメンであるのだなと再認識した次第。
そんな楽しい英会話レッスンの最中に、やはりどうしても語彙が見つからず、ちょいと絵や図を書いて説明しようと、ペンケースからペンを取り出したところ日本から持参した筆がコロコロと転がり出た。
それを見てルーシーが「What is this?」と訊いてきたのに思わず「でぃすいずあぺん」と答えた自分に笑ってしまったのだが、いったい彼女に何が可笑しいのか解るはずもないし、日本における英語学習の初歩的なセンテンスについて説明してもしょうがない(説明できない)ので、笑いを誤魔化しながら「This pen is…」「Write a KANJI!」「and This is Made with animal hair」と続けたら、「Oh! Japanese brush!」と言われ、そうか「毛筆」は「brush」でいいわけか。ナマの会話は勉強になります。 
そんな彼女の興味津々の反応を受けて、小さな醤油ケースに入れてきた墨汁を筆先にちょっとだけたらし、空白のメモ用紙にちょいと自分の名前を漢字で書いて見せると、「Waw!」とか「Cool!」とか期待以上の反応、そしたら彼女は「ちょっと待っててね♡」(ハートマークは私の希望的観測であるが多分そんなニュアンスが多少はあったと思いたい)と席を立ち、しばらくして15センチ四方ほどの板を持って戻り、「この板に日本語を書いて」と言う。
「日本語?」突然のリクエストに不意を突かれたが、漢字を書いて欲しいのだという意図はすぐに理解できたから快く「What do you want ? write the word」という問い掛けが正しかったかは知らないが、彼女がしばらく考えてリクエストくれたのは「Aurora!」だった。
はて、オーロラって漢字でどう書くのだったっけ?カタカナでいいのかな?いやいや、たしかオーロラを意味する漢字表記があったはずだがそれがどうしても思い出せないのでググりましたらありました。(流石Google)。
書道の手習いもしたことがない自己流でございますがと内心恐縮。しかし同時に彼女の日本に対する期待を裏切ってはいけない。今後の日米関係がいま我が右腕にかかっているのである。
まあそんな大げさなことは無いわけだが、とまれ雰囲気は大事なので、まず靴を脱いでデッキの床に正座し、恭しく身体の正面に預かった板を置く。立会前の武士の如く背筋を伸ばして深呼吸、目を閉じてアラスカの精霊に一礼。
そして東洋の神秘的な動物の毛のペン(普通の筆です)を、厳かに持ち上げる。

その時ルーシーが私の背後に回ったのでナニゴトかと振り返ると、私の肩越しに書を見ようとしていた彼女の、長いまつ毛とブルーグレイの瞳が、思いのほか近くにあって、そのふいに訪れた人生最初にして最至近の金髪(ほんとはブルネット)美女大接近をしばらくそのままキープ堪能していたかったのだけれど、そこは気持ちを静めて正面に向き直り、再び目を閉じて深呼吸で精神統一。色即是空空即是色。
煩悩と肩の力をスッと抜いて筆を前方上段から真っすぐ木の板に落とす。(くれぐれも書道は素人です)
運筆正しく、トメ、ハネ、崩し。字体はあえて言うなら極北白夜体(ナンジャソリャ)とでも言おうか、出来上がりは自分でもなかなか上手く書けたではないかと満足しながら筆を置く。
と、背後のルーシーちゃん「Oh‼ Nice‼」「Very Cool‼」「Wonderful‼」と、とても気に入ってくれたらしく後ろからハグしてくれたが、そのとき頬に触れたブルネットヘアの強烈に甘い香りと、背中に感じた大型爆弾の破壊力は、うーん♡、実にアメリカン♡。物量、質ともに未だ大きな日米の差を感じさせられたのは言うまでもない。

文字が乾くのを待ちながらいると、彼女がシャツのポケットからなにやら小さなジップロックの袋を取り出し手渡してくれ、ハテコレハナンダロウと思って見ると、袋の中にはコケのような色の乾燥した物体が入っている。
「What is this?」の問いに彼女は私の手から袋を取り、中の小さな欠片を指先で取り出し、傍らのアッシュトレイに置いてテーブルの上に合ったマッチで火をつけた。
するとすぐに火が着いて、薄青い煙が立ちのぼる。
彼女は手のひらで扇いで煙を私のほうに寄せながら「良い香りでしょう」「リラックスできるのよ」と言う(多分そのようなニュアンスだった)ので顔を前に出すと、ガラムのような芳しい甘い香りがするのであった。
彼女は何やらとっておきのアロマをお礼としてくれたらしいが、アロマで癒される習慣は私にも家族にも無いので、受け取るのを遠慮しようと思ったが、「お気持ちだけ有り難く」と伝える言葉を知らないことや、この先の人生において金髪(ほんとうはブルネット)美女から贈り物をいただくことなど二度とないだろうから、取り敢えず有り難く受け取ってポケットに入れた。

今日はアラスカの原野に出てソロキャンプを希望していたから、ルーシーかオーナーのショーンかW氏か、ソロキャンプに必要な用具の準備を手伝ってくれたのが誰だったか、まだ朝の覚醒が浅かったからなのか、記憶が曖昧。
いつの間にか道具が一揃いコテージの床に並べられていた。
巨大なブラウンベアが跋扈するアラスカの奥地で、野宿をするのに最低限必要な装備は、まず「実弾が詰まった(威力の)デカい銃」である。そのほかは「大型のナイフ」「手斧」「ノコギリ」「スプーン付きスイスアーミーの十徳ナイフ」「夕食と朝食+予備食」「ポットとカップ」「金属マッチ」「100円ライター」「ジップロックに入れたトイレットペーパー」「米国人サイズのデカい寝袋」「防水シート」「細いロープと太いロープ」「下着と靴下の予備」「手袋」「双眼鏡」「ペットボトルの水2リットル」「GPS」「釣りセット」「地図とコンパス」だったろうか。
そこに私物の「カメラとミニ三脚」を加えた荷物をパッケージしてロッジを出たのは午前だったか午後だったか、もう記憶が曖昧だが、まずは地形の全容を見渡してみたいとロッジ背後の小高い丘に登った。

丘の上から眺めると、ロッジの周囲は樹高10mに満たないスプルースがまばらに生えたタイガの森で、林床には人の背丈より低いハンノキやハコヤナギ、そして膝くらいの高さにびっしりと強烈な密度で野生のブルーベリーが叢生している。
このブッシュはいちいち膝を高く上げて歩かなければならないから、一歩一歩体力がそぎ取られるうえに、靴の下の厚い苔の地面もフワンフワンと柔らかく、踏ん張りが効かずバランスがとりにくい。しかし我がふるさと豪雪地帯の、身をよじり屈めながら両手も駆使しなければ前に進めない猛烈なヤブ漕ぎに比べたら楽なもの、しかもここでは足元に幾種類ものベリーが青く赤く熟しているから、時おりそれをもぎ採って口に放り込み、甘酸っぱい味を楽しみながら歩けるので楽しいばかりだ。
半ばピクニックのように歩いて高度を上げてゆくと、スプルースは細く低く、どんどんまばらになって、やがて高い樹木は尽き、背の低いブッシュと草苔、岩と低木、荒涼としたツンドラ地帯に出た。足元から緩やかな丘陵が山の中腹に繋がる辺りは、8月というのにもうベリーの紅葉が始まっていて、巨大な赤絨毯を敷いたように荒涼とした景色に唯一の彩りを添え、山の頂きに向かってだんだんと濃さを増していくが、ある高度で突然途切れ、その先は岩肌が剥きだした灰白色のカールや尾根が岩稜に繋がり、山の輪郭は霧雲に霞み溶けて消えている。
振り返って丘の下方を眺めると、一面緑の広大な大地が緩やかにうねり、大小無数の湖が散在する風景が視界のはずれ(おそらく数十キロの範囲は見えているだろう)まで広がっている。
中でも濃い緑はスプルースの森で、北極圏に近いこの辺りでは、適度な厚さの土壌がある場所だけにスプルースが自生できる。緑がやや明るくのっぺりと平らに見える場所は、ベリーや地衣類や水草が繁茂した岩盤や泥炭湿地であろうか、それらツンドラタイガの原野の遥か先に青い山並みがあり、雲間から差し込む陽光が雪の頂きや谷の氷河を白く輝かせている。

遠くを視ることに飽きて今度は足元をよく観察すると、そこにはmountain cranberry(コケモモ) 、alpine bearberry(ウラシマツツジ)、 black crowberry(セイヨウガンコウラン)などが、文字通り「足の踏み場も無い」という形容そのままにビッシリと自生している。しかもそれが周囲360度、数キロ数十キロ先まで同じ状態で広がっているのだから、まるで「ベリーの海」に立っているようなもの。
「食べものを粗末にするな」と言われて育った日本人は多分皆そうだと思うが、無数のベリーが敷き詰められた「食べられる大地」を踏み潰しながら歩くことには、相当な抵抗感と罪悪感を憶えるはずだ。
自分も最初はソロリソロリと、なるべく実の無さそうなところを選んで一歩一歩足を置くのだけれど、ここには実の無い地面など無いからね、足下でプチプチと実が潰れる音がするたびに、ヒヤっと背中を丸めるが、慣れと言うのはオソロシイ。100mも歩くうちに足元で実が弾ける感触はむしろ愉しくなっていた。(ゴメンナサイ)
そして苔の大地である。フッカフカした苔は踏んでも全く足音がしないから、風が止むと自分の服が擦れる音と息遣いしか聴こえないのがとても不思議で新鮮だ。
ツンドラを堪能したので、そろそろと丘を降りて野営地に向かうことにする。再びタイガのスプルース林帯に入るその前に、目指す場所と現在位置を確かめなければならない。岩の上に地図を広げ、コンパスを置いて方向を定め、さああっちの方だ!と立ち上がったとき、左前方30mほど先の森の中でブッシュがガサっと音を立てて揺れた。

・・・・・・・

ブラウンベアが突進する速度を時速60Km。とすれば30mは何秒で到達するか計算しそうになったが、デカい銃が左腰にさしてあることを思い出し、ゆっくりと手をグリップに伸ばす。
左手でストッパーのホックを静かーに外して、静か―に銃を抜、こうとしたら、ガサガサっとまた音がして何かが10時の方向に遠ざかって行った。
銃を抜いて音のした方向に低く向けて構えながら、「ホイッ!ホホイッ!」とマタギ式のクマ追い声を掛ける。が、アラスカの巨大な灰色熊に(もしクマだったとして)日本のやり方が通じるのか、しばらくそのまま様子と気配を伺う。が、何も起こらず、何の気配もない。

まず落ち着こう。
銃の安全を確認してホルスターに仕舞い、もう一度現在位置を確認。目的地は幸い獣が去った方向と重ならない。
目標となるランドマークを決め、地図をしまってゆっくり慎重に歩き出す。
さっきまで鼻歌交じりにブルーベリーを踏み潰していた楽園歩行が一転、5歩進んでは立ち止まって耳を澄ませ、10歩進んでは周囲に目を凝らして気配を探りつつ、50mごとに叫びながらの緊張歩行。途中から冷たい雨が降り霧が流れる森を抜けて、ようやく目的地である小さな湖畔の野営地に到着した。(チカレタ)

タイガの森には大小無数の湖沼があるが、ちょうど雨も止んで、微風が霧を払ってくれたので周囲の地形が見渡せた。その野営地は対岸まで広いところで150mほど、左右の幅は500mほどの細長い湖の畔にあって、水際から10mほど離れた辺りをぐるっとスプルースの林が取り囲んでいる。
少し歩いて、湖水際でも湿っていない平らな場所に、背をもたれて寝るのに丁度良い太さのスプルースを見つけた。 たぶん夜には山のほうから湖に向かって風が吹き下ろすだろう。するとこのスプルースが多少の風除けになってくれそうだし、細木でも多少は背後の守りを兼ねてくれる。
クマ避けの焚火は大きくしたいから、湖水に近いこの場所は火事の心配もなく焚き火の適地だし、寝る場所と火床の位置が決まったので、すぐに焚き木集めにかかった。背中の荷物を下ろし、手斧とノコギリをバックパックから取り出してすぐ近くの森に入る。
油分(樹脂)が多く生木でもとても良く燃えるスプルースの森では、焚き木を集めるのに不自由はないが、休んでいるうちに火が消えてしまわないよう、寝場所と森を何度も往復して十分な量の焚き木を集める。
大量の木を運び終わったら、手斧で小枝を払い、ノコで切れ目を入れて手や足や、太いものはスプルースの幹に叩き付けて折り揃え、太さごとにおおまかに分別して、寝場所からすぐ手が届く場所に積み重ねて燃料はOK。
そこにまたシトシトと雨が降ってきた。焚き木集めで汗かき濡れた身体が冷えないうちに火をおこさねばならない。
急いで火床にする腕ほどの太さの枝を5~6本選び、湖からの微風を導くよう木口を風に向けて地面に並べ、山になった小枝から最も細い枝を選んで15cmほどの長さに折り揃え、手近な草茎でぐるぐると束ねたら、その束の中に火種として2~3枚軽く丸めたティッシュペーパーを入れて焚き付けを作る。
その焚き付けを、火床の太枝と同じ向きにそっと置き、百円ライターでティッシュに着火したが、先程の雨で湿ったティッシュは火持ちが悪く、小枝に火が移るまでにはやや火力が不足のようだ。
ほかに火種になりそうなものを探すが、雨後の湿地帯に乾いたコケや草など見当たるはずもない。さて何かないかと幾つかポケットに手を突っ込むと、今朝ルーシーにもらったアロマ入りのジップロックが指に触れた。
それは乾燥させた植物体でジップロックに入っているから良い種火になるはず。濡らさないように気を付けて取り出し、新しいティッシュの上に細かくちぎって重ね置き、そこに金属マッチをナイフの背中で削って出た金属の粉をかける。
乾いた細かい繊維状の植物と金属マグウネシウムは現時点で手に入る最強の火種である。これを先に作っていた焚き付けに慎重に差し込んで、再び百円ライターで火を着ける。
ティッシュの炎が金属粉にポっと着火してアロマが燃え、焚き付けの細枝に火が移る。
風が弱かったので顔を火種に近づけ、優しくゆっくり一定の強さで息を吹きかけ燃料に酸素を供給。
アロマの薄青い甘い煙とスプルースの刺激的な煙が、目と鼻腔を刺激するがそこは我慢して続けていると、油分を含んだスプルースの小枝がパチパチと燃え、それが焚き付けの半分ほどまで回る頃合いをみて、焚き付けの束を崩さないようスプルースの細枝を一本ずつそっとくべ足して火を炎に育てる。
普段なら炎が50cmも上がれば立派な焚火の出来上がりなのだけれど、ここはアラスカの奥地で、巨大なクマが闊歩する原生タイガのド真ん中なのだ。幸いなことに雨の湿地帯は山火事の心配もないし、どんどん薪をくべて、炎と煙が盛大に上がるまで火をデカくして、安心感MAXになったところでメシの支度にとりかかろう。

湯沸しは、目の前数歩のところに清浄この上ない水が無尽蔵にあるからポットに汲むだけで簡単。
湯が沸くまで炎を眺め「ぼーっとする」のは、日本でもどこでもとても好きで贅沢な時間だが、ここはアラスカなのである。子供の頃から憧れた大地である。そんな場所で行う焚火を最高の時間にするために持ってきたソレをザックの底から取り出したそのとき、ふと「アラスカの大熊は火を怖がるのかしら」という疑問が脳裏を横切った。
今回旅が決まってから出発まで、アラスカの関連書籍を10冊は読んでいろいろ予習はしてきたつもりだけれど、「ブラウンベアは火を避ける」とか「火を怖がる」と、明確に書いた書物があったかな?…明確な記憶が無い。
人間、一度不安になると弱気が膨らむものである。
今夜は火を絶やさず、木を背にして寝れば大丈夫だべ。と思っていたのが、ひとつ不安が生じると、背後の守りと頼んでいたスプルースがやけに細く感じたりして落ち着かない。さてどうしよう。
暫く考えてあることを思いつき、手斧とノコギリを持って再び森に入る。
Y字状の木の枝を50cmくらいに伐り出してきて、火の傍でその枝の太いほうを手斧で少し尖らせる。
全て尖らせたら、今度はそれを寝場所のスプルースを中心に半円を描くように地面に刺していく。
幸いにも湖畔の湿地地面はとても柔らかく、尖らせなくてもよかったほど手で押し込むだけですんなりと土中に突き立った。
そして次に、釣り糸をリールから引き出して、半円に立てたY字枝の湖水に接する端に結びつけ、そこから順にY字の又の部分に糸を乗せながら、もう一方の端まで伸ばし、最後にリールのストッパーを掛け、リールの重さで糸を張る。
そしてここからが重要な仕上げの工程なので慎重にゆっくり確実にやらなければならない。
再び木に背中を預けて座り、先ほどザックの底から出しかけた「最上の時間にするためのもの」を取り出して上下前後を確かめ、しっかりと左手に握り、プシュッ、グビッグビッ、ブハ!っとやる。
アラスカの奥地で焚火をしながら飲む缶ビールは至高。作業で汗をかいたせいもあってか、冷たい外気によく冷えたビールがとても美味く、立て続けに3本空ける。が、あくまでこれも今夜の安全を確保するうえで必要な作業の一環なのである。
飲み干した空缶をよーく湖水で洗ってアルコールの匂いを落とし、念のために洗った缶を火にくべて水分(匂い)を飛ばす。火傷をしないように火から取り出して湖水で冷ました缶の中に小石を二つ三つ落として、半円に張り巡らせた糸の3時9時12時の位置に、プルトップを引っ掛けて吊るせば「マタギ式ブラウンベア接近緊急警報装置アラスカバージョン(テキトーな名称です)」の出来上がり。
これで寝床を中心として半径30mほどをぐるっと囲む結界が完成した。地面から3~40cmの高さに張られた糸に何かが触れれば、空き缶が落ちるか揺れるかして音を出す。 が、実際のところ本当に音が鳴ったらどうするかは考えていないし、爆睡していて気付かなかったら元も子もないので気休めだけどキヤスメダイジ。

結界はハラレタがハラモヘッタ。
そんなオヤジジョークを思いつくくらいに余裕が出たところでちょうど湯も沸き、簡単な食事の準備をする。
さて北米の荒野で焚火しながらの食事と言えば、「ポーク&ビーンズ」と決まっている。
ジョンウェインもチャールズブロンソンもスティーブマックウィーンもクリントイーストウッドも、往年のスターは、みんな焚火の傍らで毛布の上に座り、真鍮の皿に盛った「ポーク&ビーンズ」を不味そうに食い、煮出したコーヒーやバーボンを飲んでいた。(私の勝手な印象です)
そして今、俺は彼らのようにタイガの森に一人焚き火の傍らでポークビーンズを食らうのである。
持ってきたポークビーンズの缶をスイスアーミーの缶切りで開け、熾火の傍に置き、しばらくしてぐつぐつ煮えたところにスプーンを突っ込んでふうふうと食らえば、うーん、、、アメリカン。実に薄味で不味い・・・↴。
しかもアメリカンサイズの缶はデカくって、全部食うのは至難のワザであるから食えるだけ食って残りは湖の魚に献上し、空き缶はきれいに洗ってから焚火にくべて食物の臭い(油分)を燃やし、再び湖に没しておいた。(勿論翌日回収して持ち帰りました)
腹一杯になったら眠くなってきたので、ポケットやバックパックの中のモノを全て出してシートに並べ、食料や匂いのするものはジップロックを二枚使いして更に密閉容器に入れ、しっかり蓋をしたらロープで縛り、重しをつけて湖に沈めた。
そして休む前にもう一度確かめたら、ルーシーに貰ったアロマが袋に半分ほど残っていたので、全部取り出して火にくべた。するとまた甘い香りが大量に立ち上がって、この匂いにクマが引き寄せられてこないかとも思ったが、そこはもう警報装置を信じてイザとなったら銃に頼ることにする。

寝袋に足を突っ込んでバーボンの小瓶に直接口をつけて呑みながら(これもやってみたかった)、これまでの旅や出逢いや別れ、人生を振り返る。傾けたバーボンの瓶を透かして炎が揺れ、時おりバチっとハゼる以外は無音。
ふと夜空を見上げると、さっきまで低く垂れこめていた霧雲が薄れ、少し青空が見えるようだが、青空と思ったものはなぜか緑色で、しかも明るさが場所によって変化する。
これはもしかしたらオーロラか!? まさか真夏にオーロラが見られるとは思えないが(あとから気象情報を確認したらオーロラだったようだ)、それは初めて見る不思議な夜の彩雲だった。
炎や煙の香りが慣れ親しんだブナの森にいるような懐かしい気持ちにさせるいっぽうで、虹色の夜雲だけがアラスカの原野に一人いることを実感させる。と、遠くでオオカミの遠吠えが聞こえ、それが鳴き交わしながら徐々に近づいてきて、すぐそこまで来たかと思うとピタッとやんだ。不気味な静寂がしばし。
じっと気配を伺うと、近くに何かがいるようには感じるが、張り巡らした結界と大きな焚き火と膝の上に置いた銃のおかげで恐さは感じない。怖くはないが気にはなるので、その気配に向けてよーく目を凝らすと、焚火の火を受けてユラユラ光る点が幾つも現れ、こちらが何者であるのか、敵なのか否か、旨いのか不味いのか、値踏みするようにうごめいていたかと思うと、やがて森の闇に消えた。
水音が聞こえ湖を振り返ると、オーロラの彩雲が下りてきたような霧の中に、みごとな角を持った巨大なムースのシルエットがあった。水草を食っているのか、幾つも枝分かれした大きな角を水から抜き上げた拍子に、大きな鱒が跳ねて銀桃色にギラリと光った。
森の奥から女性の歌声が聴こえる。言葉は解らないが、どこか懐かしく悲しい響きは、狩りに行って死んでしまった狩人の霊を慰めているのか、来なくなったクジラやトナカイやサーモンを呼んでいるのか。
ふと気が付くと、いつの間にか焚火の左右に人が座って笑いながら話しをしている。
なんと右はオヤジ様。左は熊狩りの弟子で親友のKだ。楽しそうな二人に「何喋ってんだ」と話の輪に入ろうとしたところで「カラカラン!」と空き缶の音がした。

ハッと目が覚め、音のしたほうを見たが何もおらず、周りを見ても何もなかった。
どのくらい寝ていたのだろうか、焚火はすっかり小さくなって消えかかり、バーボンのせいか少し頭痛がする。
薪を足して火を大きくしてから、張っておいた結界を見に行くと、釣り糸から一つだけ缶が外れて落ちていたが、周囲には獣の足跡はおろか何の痕跡も見当たらず、もう白夜も明けようとしていた。(白夜が明けるってへんだな)

ロッジに帰ってから、アロマが焚き付けに役立ったことや不思議な夢を見たことをルーシーに話すと、彼女は悪戯っぽい顔で「良いトリップができて良かったわね♡」と言い可愛らしく片目を瞑った。
彼女がアロマと言って私にくれたモノは、実は先住民が精霊と交感するときに使う植物とアラスカでは合法な大麻の混ざったものだったそうで、どうやらその煙を吸いながらアルコールを飲んだものだから、アラスカの精霊どころか、亡き父や早逝した親友にまで再会してしまったようなのだが、うーん、いろんな意味でアメリカン。。。

*文意を伝えるために脚色していますがどの部分がフィクションかはご想像にお任せします。尚、合衆国法、アラスカ州法、国際法のいずれにも触れてはおりませんので念のため。

8月21日(日本時間22日)
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid0N6mhYgW1oLpNGM8iuQ6rDkSdHETgbhAGwggb2MLDVxAqEzDK6RyTBCvQp453UCfkl/
再びアンカレジ市内
アラスカでは、閑静な住宅街の庭にブラウンベアやカリブーが来るのもさほど珍しいことではない。
市民は彼らを自然の一部として受け止めてもいるが、自身や家族に危害が及ぶ場合には自己防衛(銃で撃って殺すこと)が誰にも認められているから、日本のように「行政がなんとかしろ。警察は何をしているんだ」などと騒ぐ市民やマスコミは皆無。庭先で主婦が熊を撃ち倒すこともあるし、近所をジョギング中に獣に襲われてケガをする人がいれば「野生動物に襲われるなんて知識や注意や準備が足りないのだ」と言われるだけなのだとさ。

8月22日
PCR検査
この頃日本は、帰国便搭乗24時前以内に公的な医療機関において検査を受け、COVIT陰性の証明(書)を得なければ「入国まかりならん」となっていた。いわゆる帰国前のPCR検査義務であるが、日本を出国した時点では「アメリカの主要空港で無料のPCR検査が受けられます」というアナウンスだったものが、滞在中に米国内の規制体制が緩み、「空港における検査は行っていない」ことが人づてに判明した。では検査はどこでやったらいいのか?帰国2日前に焦って日本領事館に問い合わせたのだが、日本領事館なのだから日本語が通じると思ったら大間違いなのであるよと私はその時の自分に言いたい。領事館に電話が繋がっていきなりネイティブな「hello」が耳に入ったときは面食らったが、そこは落ち着いて「Please change Japanese Staff」と言えた俺偉い。(本当はその滅茶苦茶な英語を理解してくれた電話口の領事館スタッフのほうが偉い)
待つことしばし領事館の日本人スタッフが電話口に出てくれたとき、「もしもし」という日本語の4文字がこの時ほど有り難く安心に思えたことは過去にないと思いつつ、PCR検査の件を尋ねてみたところ、市内の民間クリニックで検査を受けなさいとのこと、で最寄りのクリニックの住所と電話番号を教えていただいた。
 やりかたは判った。しかし今度は完全に英語でやりとりをしなければならない。一難去ってまた一難という言葉は今の状況を的確に表しているよなと別の自分が自分を笑っていたが、そんなことを可笑しがっているヒマはないので、知っている限りの単語を総動員する意気込みでクリニックに電話をかけた。
深呼吸をしてからなるべく明るいトーンで、「hello! アイムジャパニーズツーリスト」「アイウォントPCRテスト」「アイム りたーんまいほーむかんとりー アット 2デイズアフター」と、勢いだけでまくし立てたら、なんと相手は理解してくれたようで、翌日10時に検査の予約が取れた。
 そして翌日、すっかり利用しなれたUberに乗ってクリニックに到着。カワイイ受付のお嬢さんにPCRの予約を告げる。問診票を渡されGoogle翻訳を使って記入。30分ほど待って診療室に入ると美人女医さんが検査をしてくれた。なんだかんだトラブルはあっても俺は美女の微笑みがあれば乗り越えていけるのだ。
検査結果が出るまで4時間かかるということで、先に会計をしたらなんと$375!検査料金に弱冠動揺しつつも笑顔でクリニックを退出し、結果が出るまでアンカレッジの街を散策して過ごしたのであった。 

8月23日
帰国
帰りはアンカレッジを7時過ぎに出発してシアトルに10時半頃着き、日本への帰国便は15時過ぎだ。
ということでアンカレッジ空港に5時には到着していたいが、すっかり得意になったUberもその時間では不安があるので、空港泊をすることにした。
19時過ぎに到着した空港には同じように過ごす人が大勢いて、深夜でもセキュリティがしっかり巡回しているし、空港内のショップで買ったバカデカいバーガーをビールで胃に流し込みながら、旅の記録をFacebookにアップしたり、仮眠を取ったりして朝まで過ごした。
電子チケット発券機は操作がイマイチ解らなかったのでアラスカ空港のカウンターが開くのを待ってチケットを発券。荷物を預け搭乗検査も無事に通過して、来るときドタバタしたのがウソのようにスムーズに搭乗できた。
出発時に追い越してきた台風が温帯低気圧に変わって、アラスカ滞在中は雨ばかりだったのが今朝はスッキリと晴れている。眼下の海から遠くのツンドラやアラスカの山並みまでが朝日を受けて輝いていた。
シアトルの乗り継ぎは余裕。帰国便は熟睡。本当に良い旅だった。
https://www.facebook.com/100002727569090/posts/pfbid02RsxKvyiRmLBPVv1f6bGN3zHDbLBbwQ1REstouVAmA3mAZjNw4qdA8jw2kvvvHkpol/

【終わりに】
本来「旅と苦労」は若い時にしておきなさいと言われる。
モノゴトに感応できる柔らかで敏感な感性と、自在に動ける体力気力をもって異文化に触れ、新たな知識や経験を自らの心身に修め、旅の労苦や成果をその後の人生に活かすには、確かに若くあるに越したことはない。
残りの人生がそう長くもない還暦オヤジが、安くない費用や多大な手間を掛けて「苦労して旅に出る」意味はあるのか、たしかにそんな葛藤が少しはあったのだけれど、我が人生を振り返れば「やらずに後悔してきたコト」も多く、残り少ない人生にまた新たな後悔の種を増やしたくもないので思い切って旅に出てみたが、行ってよかった。
御同輩、旅に出ましょうぜ。

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