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ほとんどなんにもできない私

私は幼い頃から、やたらと ゴミの行き場 を気にする子どもだった。

ゴミは燃やしても灰が残ること、燃やせないゴミもあること、それらはこの地球のどこかに埋められ、埋立地は有限であること。

そのことを知った時、私は言いようのない不安に襲われた。
我ながら、なんて敏感で繊細な子どもだろうかと思う。
そして敏感で繊細なまま大人になった私は、今もそんなことを考えて眠れなくなる夜がある。嘘ではない。
なんて生きづらい性格なんだろう。

そんな私なので、普段はできるだけゴミを出さないように暮らしている。
といっても、考え込む割にはストイックさに欠けるし、普通に誰もがやっていることだけれど。

例えば、買物の時はマイバッグを使うとか、ペットボトルの飲み物はできるだけ買わないようにするとか。あとは、溢れる物欲をどうにか制御して、物を大切に長く使って、新品を買いすぎないようにもしている。

でも、でも、私がこんなことをして、何か意味があるの?と思ってしまうこともある。

私が「この服」を買うのを我慢したとしても、すでにこの世に生み出されている「この服」は消えてなくなるわけではなくて、私以外の誰かに買われていずれ捨てられるか、もしくは誰にも買われず廃棄される。そして、地球のどこかに埋められる。それなら私が我慢する意味はどこにあるのだろう。

それに、私一人がエコを心掛けたところで、効果なんてあるんだろうか。地球の空気を綺麗にするために、屋外で家庭用空気清浄機を稼働させているようなものでは?海をピンクに染めるために、大海原に絵の具を一滴垂らすようなものでは?なんて、訳の分からないことを考えたりしてしまう。

本当に地球の環境を守りたいのなら、研究者になるか、大手企業に就職して、ゴミを減らす画期的な取り組みを考えた方がいいんじゃないだろうか。でも、今の私には難題である。


一生懸命考えても、自分がやっていることへの大きな意味は感じられない。
正直一人ひとりの小さな一歩が大きな結果に繋がると言われても、ピンと来ない。

それでも、私は私にできることをやるしかない。それしか、眠れない夜を越えるすべはないのだ。もどかしいけれど、それしか。

あっ。私のこんな緩いポリシーをそばで感じながら育った我が子が、将来ゴミを減らす大発明をする可能性も無きにしも非ず、かな?もちろん、子育てに過大な期待は禁物であることは承知している。(笑)

#未来のためにできること


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