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おっぱいのゲシュタルト崩壊

おっぱいの会社で働いている。

省略せずに言うと「おっぱい」を赤ちゃんに飲ませる時に着る服をつくる「会社で働いている」。授乳服っていうやつ。

助産師さんと組んで母乳育児の研究をしたり、服だけでなくおっぱい関連の小物もつくったりしている。従業員の中には、私のように授乳中の母親も少なくないので、まさに「おっぱい」の「おっぱい」による「おっぱい」のための会社と言えよう。

母乳育児相談なども受け付けていて、日々悩める母や妊婦の方々から電話が寄せられる。乳が出なくては悩み、出過ぎて乳房内で固まり痛んでは悩む。子が上手く乳を飲めないと悩み、乳首を齧られ痛むと悩む。出産に関わらず、おっぱいに悩む女性は少なくないが、食糧としてのおっぱいにも実に様々な種類の悩みがあるのだ。

そんな切実なコールとは別に、定期的に不届き者からの電話が鳴る。変質者からの電話だ。男は相談窓口の担当者に、ある言葉を言わせたくて2週間に1度くらいの頻度で電話をしてくる。「おっぱい」というその言葉を。

ハアハアと息を荒くしながら「妻が授乳中で」と言い、「どんな風に授乳したらいいのか?手順は?注意点は?」などと執拗に質問を重ねてくる。電話に出た担当者は「お電話が遠いようなんですけどー?」とはぐらかし、最後は数少ない男性社員に電話をかわり、その途端通話はプツリと切られる。

毎回そんな調子なのに、男はくじけず電話をかけてよこす。ただただ「おっぱい」という言葉を求めて。

正直、気持ち悪いというより「おっぱい」と聞いただけで興奮できるなんて、便利で安上がりだなと感心する気持ちが強い。そして、ほんの少しだけその気持ちがわからなくもない。

確かに「おっぱい」には魅惑の響きがあった。「胸」や「バスト」では表現できない、性的でありながら母性も感じさせる、柔らかさ優しさいやらしさ。「おっぱい」という響きと文字の並びは、まさに「おっぱい」そのものだった。

過去形で言うのは、もうそれが失われてしまったからだ。私の中からあの魅惑的な響きは失われてしまった。「おっぱいハンカチ売上.xlsx」というファイルを開き、「おっぱいプロジェクト」に参加する。「そのおっぱいはおっぱい過ぎる」という意見で提案を却下され、採用面接の相手の履歴書には「おっぱい講演に感動した」と書かれている。

次第に「おっぱい」という言葉は純粋な意味以外のものを剥ぎ取られ、最終的には意味そのものも見失いはじめる。「おっぱい」のゲシュタルト崩壊だ。

いや、仕事のせいだけではない。その前から徴候はあった。出産後3ヶ月ほどの頃だったか、元同僚の男性と近所のスーパーで偶然会った時のことだ。相手にもうちと同じくらいの子供がいて、当然赤ん坊の話題になる。

「あんまりおっぱいを飲んでくれなくってさあ」 「うちも最初はそんな感じだったよ。おっぱいよりミルクが好きで。最近やっとおっぱいオンリーになった」 「ミルクも便利だけど、おっぱいだと安上がりだよなあ」

話してる時はなんとも思わなかったが、家に帰ってからしみじみと「人生のフェーズかかわってしまったのだなあ」と思った。一緒に働いている頃は、まさか彼と「おっぱいおっぱい」言い合うとは思わなかった。

変質者から電話が来たと報告を受けると、失われた「おっぱい」への郷愁に襲われる。嗚呼、古き良き「おっぱい」。

しかし、もうすぐ私は今の職場を退職する。そして、もうすぐ2歳になる娘もどうやら卒乳の気配がする。となると、私は近々取り戻せるのかもしれない。あの甘やかな響きをはらんだ「おっぱい」という言葉を。「おっぱい」が「おっぱい」であった世界を。

取り戻せたとしても、私自身の授乳を終えたそれが、「おっぱい」という魅惑の響きに似つかわしくなくなってしまっているのは、残念な限りだけど。

※はてなブログ (2016年12月)より転載

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