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研究事務室の窓から

昨年末、転職をした。
とある大学内の、とある研究プロジェクトの事務局で働いている。
社会学系の研究プロジェクトだ。

私の仕事は事務まわりのあれこれ。会計処理だったり、サイトの更新だったり、シンポジウムの手配だったり、研究データの処理だったり、論文の整理だったり、報告書の作成だったり。

事務室は、古びた十階建ての建物の一角にある。何年か前に内装工事をしたらしく、外から見るほど中は老朽していない。最新というにはほど遠いけれど、空調や水まわりも整備されているし、耐震増強だってされている。

「夏は扇風機、冬はストーブに囲まれて仕事をしていたことを思えば、天国みたいですよ」

そう言って笑う先生に、私はうなずく。

天国、は大げさかもしれないけど、昔、一人暮らしをしていた時よりも広いくらいの部屋に、真新しいデスクとロッカーとパソコンがあって、冷蔵庫と電子レンジまである。土ぼこりでいささか汚れてはいるものの、大きな窓があって、そこからは欅の大木が青緑の葉を存分に茂らせているのが見える。何の申し分もない。

プロジェクトのリーダーである先生は、朝とタの1日2回やって来て、必要な業務指示と(それなりに長い)世間話をして自分の研究室へと戻っていく。他の先生方とはほとんどメールやチャットでやり取りがすんでしまう。

事務室のスタッフは私のほかにもう1人。落ちついた明るい女性で、週に2日だけ出勤してくる。あとは時々アルバイトの学生さんがやって来るくらい。ほとんど一人だけど、全くの一人というのでもない。実にちょうどいい感じ。

事務室のある1階には、他に倉庫と資料室とほとんど使われていない会議室がある。建物のメイン入り口が2階にあるせいか、どことなく地下室みたいな趣きだ。廊下は照明がちゃんとついているにも関わらずなんだか薄暗いし、雨の日なんかは床が湿気でじっとりとする。

そんな風なので、部屋を出てもほとんど人に出会うことがない。時々、清掃員の方がやって来て、廊下をピカピカに磨いてくれる。ここには誰もいないと思っているのか、うっかり出くわすと、幽霊にでも会ったかのように驚かせてしまう。それだけは、ちょっと心苦しい。

困ることといえば本当にそれくらいで、あとは何も言うことのないような居心地のよさ。やっぱり、天国と言ってもいいのかもしれない。

そんな具合に、研究室スタッフ生活を満喫しているわけだけれど、よくよく考えてみれば、私が「社会学」の研究室で働いているだなんて、不思議と言えば不思議だ。

それをぽつりとタンノさんに言ったら、「なんでですか」と聞かれた。

タンノさんはアルバイトの学生さんの1人で、普段は在宅でデータ整理の作業なんかをしてくれる。月に1、2度は事務室にも来て、あれこれと手伝ってくれる。

この日は古い調査資料をひたすらスキャンしてくれた。まじめだけれど物怖じしない子で、ずいぶんと年の離れた私とでもいろいろな話をしてくれる。

「だって、私、前は『社会』なんてないと思ってたからさ」

私は、パソコンの画面に顔を向けたまま、タンノさんの質問に答える。講演動画の要約を書いているところだったので、声も言葉もどこか上の空な感じになってしまう。地域間医療格差がテーマの講演で、とても興味深いけれど、まとめるのはとても難しい。

「社会なんてない、ですか」
「そう、個人はあるけど、社会なんていうのは、なんていうか、人が勝手につくった幻想みたいなものだと思ってたの」

作業に気を取られているせいで、あやふやなことしか言えない。いや、作業なんかしてなくても、私はこういった頭の中にある考えを、口で説明するのがとても苦手だ。

「マーガレット・サッチャーですね」

私の下手な説明にタンノさんは一言で返してよこす。
マーガレット・サッチャー?「鉄の女」の?

「サッチャーのそういう言葉があるんですよ。『社会なんてものはない。個人としての男がいて、個人としての女がいて、家族がある。ただそれだけだ』というのが」
「なるほど」

タンノさんの説明に私はうなずき、「やっぱり社会はあるんだよね」と心の中だけでつぶやく。「社会なんてない」という私の考えそのものが、「社会」によってつくられたものだったんだもん、と諦めみたいな気持ちを抱えながら。

その気持ちも伝えられたらと思ったけれど、やっぱりうまく説明できる気がしなくて、「社会って、なんか、面白いよね」と、何も言っていないのと同じような言葉を口にする。そして、「ところで、タンノさんはどんなテーマで研究するの?」と、話題を変えた。

「まだはっきりと決めてないんですけど、今、興味があるのはポスト・アントロポセンです。人間中心の社会の、その後の社会について」
「あんとろ…?」

私の声は、自分でも笑ってしまうくらいに怪訝そうだった。

「もしよかったら、今度、本を持ってきますよ」
「え、嬉しい!ありがとう、楽しみにしてる」

バンザイをして見せると、タンノさんは小さく笑った。

「いいですね、好奇心は心のレチノールですね」
「何それ、今度は誰の言葉なの?」

身構えている私の顔をまじまじと見つめた後、「誰のでもないですよ。ただの私の思いつきです」と、タンノさんは声を上げて笑った。




後で「レチノール」を調べてみたら、アンチエイジング効果のある美容成分だった。シワやタルミを改善してくれるらしい。タンノさんてば、20歳そこそこのはずなのに、肌なんてツルツルなのに、なんでそんなの知ってるんだろう?


それはともかく、私はもっといろんなことを勉強しなければいけない。
そう思わせてくれる職場で働けるのは、とても嬉しい。

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カリノ
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