甘くみていたんだ。
甘くみていたんだ、と思う。
タイトル通り。
何をかっていうと、小説を書くこと。
私は、小説を甘くみていた。
いいものが書けない、上手に書けない、とかそういう話じゃない。
そういうこととは全然別の場所の話。
そういう場所が存在することを予想だにしなかったということが、私の甘さ。
小説を書く、ただそれだけのことが、私の生活にこんなに影響を与えるのかって驚き。
こんなに侵食されちゃうの?
小説の企画は、予定通り進んでいる。
プロットはつくり終わった。
あとは、それを各話に振り分けて、それぞれのおおまかな内容を決めて。
「余裕があったら第1話目も書いてみてください」。
そう言って、編集長はドイツへと旅立った。
「はい」と返事をして以来、私の意識は深くへもぐりはじめる。
彼女たちがいる世界の、匂いや色や空気や温度や味をさがそうと。
もうおおまかなストーリーはできているのだし、人物設定も済んでいるのだし、そんなに深くもぐる必要はないと思っていたのに、どうやらそういうことではないらしい。
小説を書くというのは、土の中をできるだけ深く耕して、深く深く掘り返して、また何事もなかったように土をならし、その上に花を咲かせることのようだ。
それはそれでいいのだけれど、問題は、もぐった意識を元にもどすのが、上手にできないということだ。
うっかりすると、Twitterやnoteに、もぐった先で見つけた私のきたないドロドロとしたものを、そのままぶちまけてしまいたくなる。
だけど、もういい大人なのだからと、私のなけなしの理性が、必死にそれを押しとどめる。
それくらいなら口をつぐんでいようと思うんだけど、黙っていればいないことと同じ、ただ気配を漂わせるということが困難なネットの上で、それを選択し続けるのは結構怖い。
そういうぐるぐる回る思考を断ち切り、ひとまずnoteを書く力を絞り出そうと、昨日はカラオケに行ってきた。
私は歌も音楽も大好きなのに、歌うことも楽器を奏でることも苦手で、音楽を生み出そうとすると、自分の中にある完璧な音楽と自分から流れ出る下手くそな音とのギャップにうんざりしてしまう。
そして、「これだったらまだ書くほうがマシ」と、書かないではいられない気持ちになる。
だから、時々、純粋な楽しみではなく、書くための道具として、カラオケを利用している。
だから、これはカラオケのおかげで生まれた文章。
果たして私の歌よりマシなのかどうか、ちょっとよくわからないくらいひどいけれど。
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