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記憶の匂い

記憶を呼び覚まされるような匂いがある。雨の匂い、雪の匂い。夜気のなかで、ふいに漂ってくる花の香りとか、濃い草の匂い。

何年も前のことになる。或る店に、よく通っていた。

古着・古書などを扱っていたので一応は「店」なのだけれど、古びた雑居ビルの三階にあった其処は、不思議な場所だった。

子宮の中を思わせる、狭くて薄明るく安心感のある場所。
オレンジ色のぼんやりしたあかりに照らされた小さな部屋の中には、いつもうつくしい耳鳴りのような音楽が鳴っていて、たくさんの本やレコード、アンティークのドレスやワンピースなど、さまざまなものに囲まれた部屋の中央に、埋もれるようにデスクがひとつ置かれていた。

彼はいつもそこで骨董のようなタイプライターを打っていたり、細密な絵を描いていた。そして、夢の中で聴こえる音のような、心地良く間延びした声でゆっくりと話した。

ある日その店で私が買ったのは、群青色のサテンに同じ色のシフォンを重ねたノースリーブのワンピースで、ミモレ丈のスカートには緋色の裏地が付いていた。とても気に入っていたけれど、街着にするにはドレッシー過ぎたから、それは殆ど部屋のクローゼットに入ったままだった。

クローゼットを開けると、甘苦く煙るような香りが微かに漂うようになった。あの店の空気を吸い込んだワンピースが発する、当時の私にとってシェルターのようだったその場所を思い出させる匂い。

気持ちが波立ったとき、ふとクローゼットを開けては、息を吸い込んでみたりした。

住む所が変わり、仕事が変わり、いつかその場所からも彼からも離れていった頃、働いていたワインバーで常連客のために置いていた煙草が切れて買いに出た。

隣のビルの輸入煙草の入った販売機まで行くと、目当てのゴロワーズの隣に「ガラム」があった。あの甘苦く懐かしい落ち着くクローヴの匂い。自分の財布を出して一箱買った。私はそれまで殆ど煙草を吸ったことがなかったけれど、それは難なく吸えた。

ガラムを吸った時に必ずあの場所を連想する、というわけではなくなっていたけれど、心が落ち着く感じだけは残っていて、喫茶店で珈琲を飲むとき、ひとりでbarに入るとき、その匂いは欠かせないものになった。

そしてまた数年が経ち、妊娠を機に煙草を辞めて今に至る。

何年もの間、他のいくつかの匂いと共に暮らしてきた。

周りにある匂いが変わるとともに、自分自身も変わっていった気がする。
それは当たり前の変化だし、もしかしたら成長と言えるのかもしれないけど、ずっと変わらない部分も確かにある。

一本だけ残ったガラムを引き出しの奥からみつけて、この香りを纏っていた彼のことと、あの部屋のことを思い出していた。



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