春の芽吹きの名を持つ少女
「……えっ、と」
困惑の色が声に載る。正直に話せば、私は今スグここから離れたいけど、目の前にいる子がそれを叶えられそうにはなかった。
「……」
暗く落とされた瞳には、感情が宿らない。人形かと見間違うくらい整った顔立ちも相まって、言葉では表現できない悪寒のようなものが背筋を這う。
私――能見広子がここに来たのはつい先ほど。よくわからない手紙のままにやってきたら、ほどなくしてこの子も同じ部屋にやってきた。そのまましばらく待ってみたけど、何の反応もなければ、ここに来た理由もよくわからない。
『この子と話をしてほしいの』
そうとだけ書かれたメモ。そして同じ机にあるのは、彼女が大事そうに持ってきたスケッチブック。
どうやら私は目の前の彼女と話をしないといけないらしいんだけど、いかんせん表情がほぼ変わらないこの子を前に、何を話したらいいのかわからない。
――だってこの子、明らかに私のことを拒絶している。
正確に言えば私、というよりすべての人を、というほうが近いと思う。纏う空気に既視感を覚え、それはかつて自暴自棄だったころの私だったと気づいてから、この子もきっと同じなんだと思ったのだ。
何も信じられない、誰も信じられなかったあの頃。それを今、目の前の彼女は私よりもずっと小さな、少女が持つべき感情とは到底思えないものを背負っているような感覚。
……ならば、今の私がするべきことは。
「あの」
勇気を絞った声は震えていた。しかし、案の定返事はなく息をしているのかさえも怪しいと不安すら覚えたが、小さく動いている方が呼吸を認めている。
ダメか、と諦めて視線を落とした先にあったのは――彼女が持ってきていたスケッチブックだ。
これは、一欠片の望みだ。そんな思いを胸にペンを取る。すると一瞬だけ、彼女の眉が動いた気がした。
『あなたのお名前は?』
『私は能見広子、って言います』
緊張交じりにスケッチブックに書いた文字。目の前の少女はじっとその文字列と私を交互に見やって、何を伝えたいのかを一生懸命考えているようだ。
菫色の瞳が、忙しなく動く。なんだか困っているようにも見えたが、正直私も困っている。おそらく彼女とコミュニケーションをとることのできるツールだと思って書きだしたはいいけれど、私の書いた文字を読み取れるのか、と聞かれれば素直に頷くことは難しそうだ。
年齢は――小学生くらいだろう。小さな体には大きすぎるくらいのスケッチブックだが、ボロボロになった表紙と白紙ページを後ろから探したほうが早いくらい書き込まれた絵たちは、彼女が大切にしているものだということが伝わってくる。
「……」
依然、上下に動く視線は定まらない。何なら少し困ったように眉を下げてどうしたらいいのかわからない、といったような表情にも見て取れる。
そして、ふと自分の書いた文字を見やって気が付いた。
(これ、もしかして読めない?)
なんの疑いもなく書いた文字列。しかし小学生が読むには難しい字――特に自分の名前は彼女に伝わっていないのかもしれない。そうなると結局会話の糸口を掴めていないのと同じで、振出しに戻っているようなものだ。
それに気づいたのとほぼ同時。彼女がおずおずと指をスケッチブックに滑らせ、その指は私の名前を指す。そして困ったような顔をして首を傾げたところから、私の考えはどうやら間違っていなかったようだ。
――これ、なんて読むの?
言外から伝わる彼女の意志を汲み取って、小さく頷くと自分の名前である部分――能見広子、という部分の上にひらがなで改めて名前を書いた。
『のうみひろこ、って読むんだよ。私の名前』
全部ひらがなの方がいいような気もするが、少し漢字を入れたほうがかえって読みやすいような気がして、絶妙な塩梅を手探りで探していく。彼女の表情を伺いながら書き足していけば、先ほどの難し気な表情からは一変、ぱぁ、と顔を明るくさせて、こくこくと頷いた。
『あなたのお名前は?』
改めてそう書き記すと、彼女の持っていたクレヨンでその横に付け足された文字。
『立ばな、すみれ』
ふふん、とちょっと誇らしげに書いたそれは、もしかしなくても彼女の名前だ。
たちばなすみれ。目の前の少女の名前を口の中で復唱し、馴染ませる。
見た目は本当にお人形さんのようだ。ほとんど表情は変わらず、じっとこちらを見つめる彼女名前と同じ菫色の瞳が、私をじっと見定めている。
――私がどんな人なのか。
――自分にとって、私はどうなりうるのか。
幼心にして様々な思考を混ぜ合わせたような表情に、私はなんだか複雑な気持ちになる。
小さいころからこんなことを考えて生きているのだろう、この子は。純粋に楽しむことより、自分の立場や状況を察することのできる聡い子なのだろう、と。
そこでふと、思い浮かんだのはもらった手紙のことだ。なぜか引き寄せられるようにここまで来たが、その封筒にあった模様がこの地域では有名な財閥だということを送れて思い出す。
――立華財閥。この地域一帯では有名なお金持ちの家柄だ。
そして彼女の名前は『たちばなすみれ』。これはきっと、もしかしなくても。
「なるほど……」
彼女に聞こえないくらい小さな声で呟く。案の定彼女には聞こえていないようで、首を傾げて私の様子を伺っている。
立華財閥のご令嬢。噂によればその子は生まれつき耳が遠いだったか、聞こえない、だったか。噂好きの彼女がそんなことを前言っていたことを思い出して、少しずつ目の前の彼女と情報を合致させていく。
私の様子を伺いながら、その瞳がじっと見つめる先にあるもの――それは私の口元だ。
その視線の正体に気が付いて、小さく頷く。
おそらく、彼女の耳が聞こえないのは間違いないだろう。そしてそんな彼女と話をしてほしい、というお願い。
(これは大変なことを頼まれたかもしれませんね)
一度こうして乗りかかってしまった反面、中途半端にしてしまうのが一番まずいことは誰よりも知っている。半端にした分目の前の彼女を悲しませてしまうことになると思えば、おいそれとそれを投げ出すわけにもいかない。
思考を整える。どうするのが一番いいのか。どんな話をすればいいのか。
ぐるぐると思考を巡らせ、一呼吸。その間もずっと私のことをじっと見つめる彼女がなんだか愛らしくて、心の奥に眠る何かをくすぐられるような感覚がする。
「すみれちゃん」
私の声は届いていないだろう。だからなるべくゆっくり、口を開けて彼女の名前を紡ぐ。そうすれば口元を見ていた彼女に伝わったのだろう、小さく首を傾げてなぁに? といった様子を見せる。
純粋な菫色。しかしその奥に眠るのは、先ほどまであった無表情が物語る。財閥のお嬢様だけどコミュニケーションをとれない状態。無関係者の私にこうして手紙が送られてきているのだから、今まで他の大人たちとも似たようなことをしてきたに違いない。
それでもなお、彼女があの表情のまま、というのだから今までの結果は少し考えたらすぐにわかること。
そしてその分、彼女は悲しい思いをしてきたと推測までつくから。
『すみれちゃんの好きなもの、おしえてくれる?』
口と文字で伝える思い。お互いを補完するそれは、今この空間で唯一の小さな糸のようなもの。
その糸を手放さないように、そして彼女を――すみれちゃんをもっと知りたいという気持ちを大切にして、彼女と向き合うのが今私に求められていることだと信じて。
ほどなくすれば、すみれちゃんの表情は先ほどまでの無表情から一変、ぱぁ、と顔を明るくさせてから。
『あのね、お絵かきが好き!』
そう書いたかと思えば、そのまま持っているクレヨンで白紙の部分を埋めていく。好きなもの、という私の質問に答えるように次々と描かれるのは、おそらく彼女の好きなもの。
一つ一つそれをなぞりながら、これは? と続けて話題を広げる。
小さな彼女と、私の、少し歪なコミュニケーション。
でもそれは、今の私たちにとって一番重要なお話。
どれくらいの時間が経ったのだろう。いつの間にかページをいくつにも跨いでいたスケッチブックに驚いていると、コンコン、と締め切られていた扉をノックする音が響く。
「お時間です」
無機質な声色。燕尾服に身を包んだその人は、おそらく彼女の執事と言われるような人なんだと一目で判断が付いた。
「お嬢様はこれからご予定がございますので」
「あ、はぁ……」
そういえば時間が何時まで、とかって書いてあったような気もする。そんなことを忘れてしまうくらい夢中になっていたのかと今更になって思ってしまった。
初めて目にしたときは感情が全く分からなかったけれど、スケッチブックを通して見えるすみれちゃんは、年相応の女の子そのものだ。可愛いものが好きだし、ふわふわと綿菓子のような髪をなびかせながら夢中になって絵を描いている姿も年相応のそれだ。勝手にご令嬢だから、と決めつけていた最初の私から印象ががらりと変わっていて、今ではご令嬢だということをこの執事さんをみないと忘れてしまう程に。
「ん……?」
――不意に、すみれちゃんの纏う空気が変わった気がした。
ちらりと彼女の方を見やれば、さっきまでの楽しそうだった空気はどこへやら、初めて顔を合わせた時の表情をなくした顔がそこにある。
――どこか虚ろげで、そして何かに怖がっているような、そんな表情。
「お嬢様」
執事さんの声が静かな部屋に響く。聞こえていないだろうと思って少し大きめの声は彼女にも届いたらしく、わかりやすく肩をぴくりと跳ね上げた。
そして、縋るように控えめに握られた服の裾。ぴとりとくっついた小さな身体から感じる、少し高めの体温。顔には小さな瞳にいっぱいの涙を浮かべて、それはまるで――
『いかないで』
子供の小さな、小さなわがまま。叶えられることなら叶えてあげたいと思えるほど、簡単なようで難しいこと。それはきっと聡い彼女にもわかっていることで、引き留められないこともよくわかっているのだろう。私もその願いを叶えられないことに小さなもどかしさを覚えてしまうくらいで、どうしたものか、と困った表情をしてしまう。
「それでは能見様、ありがとうございました」
そんなすみれちゃんを放っておくように、執事さんは部屋の退出を迫ってくる。
――弱ったなぁ。
服の裾を握られたままの状態で、どうしろというのだろう。彼には見えていないのか、と思ってしまう程のそれに、小さなため息を彼に向けて少し待ってください、とだけ伝えて再び彼女の方へと向き直る。
「すみれちゃん」
なるべく優しい声で、なるべく不安にさせないように。
そんな思いを込めて、頭を一回撫でてから。
「また会えるよ、すみれちゃんが会いたいって思ってくれれば」
これが私と彼女――立華菫ちゃんとの出会い。
そしてこれは、私たちと彼女の物語の欠片。
「ひろこおねえちゃん!」
「はいはい、そんな慌てなくて大丈夫だよ」
春の芽吹きを思い起こさせる笑顔と共に、私たちの物語は紡がれていく。
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