11月9日 身体性

たとえば、眼鏡をつけてないのに眼鏡をつけているときの癖でついつい鼻に手をあてて眼鏡を持ち上げようとする。あっ、今日眼鏡してないじゃんなんてその時気づく。

たとえば、肘を壁にぶつけた。思わず「痛っ!」と叫ぶ。でもぶつけた肘はさほど痛くなくて、音の鈍さまたは(感覚のない)壁のかわりに発してしまった「痛っ!」という言葉に笑ってしまう。

「私の身体」と言った時、それはきっと、私の意思で動く範囲(頭の先から足の指先、手の指先)を指すと考えられるだろう。

でも私たちの感覚はもっと、身体をとびこえる

わたしは、物を捨てるのがものすごく苦手だ

裏紙や使い終わったティッシュゴミ、食べ終わった時にでるゴミなんかはいとも簡単に捨てられるのに、少しでも身につけたものは捨てることができない

何年も着て古くなった服を捨てる。穴が空いてしまったから。その時わたしはとてつもない罪悪感、喪失感に襲われる。自分の身体の一部を捨てるような気持ちになる。だから、ちゃんと「ありがとう」といってゴミ袋に入れる。入れた後悲しくなるから、その先は見ない。

爪や髪の毛を捨てるのも簡単なのに、身につけた時間が長ければ長いほど、悲しくなる。

最初は硬かったペン先が、使っているうちに柔らかくなる。他の人のペンを借りると納得できない持ち味が、自分のペンだと納得できる。

何年も使っているパソコン。他の人のパソコンでタイピングするとどうしても打ち間違いが増えてしまうけど、自分のパソコンだと指が自然と動く。キーとキーの距離、硬さ、はね具合を身体がどんどん覚えていく。そして自然と身につく。

私たちの身体は、感覚の及ぶ範囲をどんどん拡大できる。さまざまな感覚を吸収していく。

私たちの身体は、「身体」ではおさまらない。

そして、もし、その感覚とお別れを告げる時、わたしたちは悲しくなる。つらくなる。

そして、また新しいものに慣れていく。

今日も断捨離できなくて、どんどん物が増えていく。私の感覚の一部が部屋に溢れていく。それぞれとの思い出感覚の共有を思い出しながら、片付かない部屋と新しいお仲間の到着に、頭を悩ませる。

片付かないのは私の感覚なのかもしれない


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