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クリーニング

 鋭利な鉄塔にはぐるりと非常階段がついている。
 長いこと上を目指してのぼっているからわたしは手すりにつかまり半分くらい体重を預けた。空気を泳いでいたのは埃だったのだろうか。こうやって煤になり、わたしの開いた手相をあらわにする。墨汁くらいでしかここまで黒くなることはなかった。だから、どれだけ眺めていても飽きがこなかった。それくらい疲れていて、急ぐ必要もなかったし、空を仰げば深い藍色の空に包まれていて、ここまで遠いところに来たのだから追手の心配もないだろうと思っていた。
 休憩してからでも歩ける足はあるのだから段差に座ることにした。金属でできた階段ははしごのように奥が抜けていてそこからひゅっとひっぱられ、落ちてしまいそうで怖い。息があがっておのずとその辺りを見てしまったらしばらく動くことができないくらいに。座るときもお尻から落っこちてしまう気がしてつばを飲み込んだ。でも見えないと、座ってしまえばそこまででもなかった。手すりから下まで伸びる柵を握りながら夜の闇に目を凝らす。わたしの身体は白熱電球で発光して、周りを認識するのに手間取った。明りはさまざまに返事をする。星座が地面に反転したようだった。それはただのビル群であり、動くのは車、色鮮やかなのは祭りである。下のほうが輝かしくて、上はそれに比べてさびしいものだった。近づくほどにあちらも眩しくなるのだろう。それも嫌だから、わたしは中間地点にテントを張ってしばし休息をとりたい。目視で中間を測るに、ここはまだ下に近かった。
 背負ってきたリュックから乾パンを取り出して前歯で割る。わたしの右の前歯は以前から欠けていた。公園を走っていて石にひっかかり、地面に負けた。欠けているところは愛らしい程度に収まり、わたしはそれを大事にする。いつかどんどん前歯がすり減って笑われる時、わたしはいくつになっているのだろうか。
 こうやって鉄塔をのぼってきたのはわたしだけではなかった。全員前か後ろにもれなくいるけれど、散らばってしまった。永遠に出会うことはないはずなのにわたしは乾パンを食べている間ずっと、近くで階段をのぼる音を聞いている。同じく疲れた様子で足音が弱弱しく反響した。柵から頭を出し上を覗くと、腕がぶら下がっていた。規則なくぶらーんぶらーん。
 わたしも手を伸ばしたら触れられるだろうかと試したくなってはみるけれど、目視で中間を測っていた目は無理だと判断を頼んでいないのに下した。
「ねえ。どちらさま?」
 何にも答えはない。もしかして死んでいるんじゃなかろうか。生死を確かめられるものを探そうとわたしはリュックをほじくった。そんなものは持ってきていなかった。また上を見る。腕はなくなっている。
 代わりにそれが降った。動体視力も反射神経も悪いわたしはとっさに受け取れず、それは下にいってしまう。
「え、もーいっかい」
 手をお椀の形にして柵から伸ばす。次はちゃんと受け取れるように。
 あっけない。
「もうないよ」と声がした。
 すごく知っている声だった。こんなところにまでついてきてしまっていた。それとも大型輸送便で配達されたのだろうか。羽がついていたのだろうか。気まぐれに
決して下にはとまらない。もしわたしが中間地点を過ぎて上の星に限りなく近づいたら、その上にしかとまろうとしないから、すりつぶされて落下だ。手を見た。黒かった。落下している最中に手すりに引っかかることもあるだろう。
「なにをくれようとしたの?」
「さあ何だったかな。つまらないものだよ」
「つまらないかつまらなくないか決めれる時間が欲しかったわ」
 にこ。にこにこ。口笛。
「煽りたいだけなら帰ってちょうだい」
 また落ちる。
「落とすって言ってから落とさないと取れないのよ」
「それじゃ楽しくないからね」
「ねえ、それが取れたならね、わたしのリュックの中身全部やるわ。ご飯も飲み物も寝床もあるの。」
「僕は飛べるよ」
「じゃあ…わたしが落ちるところは?すごく怖いの。この隙間から足を滑らせてしまうことが。見ものでしょう?」
 また落ちた。今度はかすった。
 手のひらが切れて血が出た。鋭いものらしい。べー、と下に流血する。
「興味ないな」
「そう。なら、もうないわ」
「いいや、ないと困るんだ」
 弱気な声にわたしは卑しいぞっとするような笑い声を立ててしまう。
「もうないのよ」
「じゃあ落ちてしまえばいい」
 羽ばたき。
落ちない。あなたが言ったようには。わたしはリュックから裁縫セットを取り出して傷口の周りを糸ではなく針金で縫った。ぽっかり空いたこの場所がかさぶたになって新しい皮膚に覆われても覚えておけるようにやがてはこのお堀をセメントで満たすのだ。中心地点で休息をとったら落下しよう。ゴミを捨てに帰ったら今度はもっと先へいこう。もう出くわしはしない。
あなたは煤の雨になる。
どうでもいい

運動靴を脱いだ。滑って言ったとおりにならないように。裸足で進む。
音楽が始まった。音質の悪い、ノイズがほとんどの音楽。
はしゃいだアメリカ女のうわずり音、聞くのも不快。でも止む。
「本日の曲はペリカンペリーさんのハーピーデスネーでした。とてもすてきな曲でしたね。どうでしたか」
「うんすごくハーピーになりました。風船をたくさん夜空にあげたい気分」
「分かりますよ。風船で手紙を飛ばすのなんかいいですよね」
「流行りましたよね。実際したって人、知らないけど」
「あはは。確かにですねー。アールグレイストロベリーさんはもし飛ばすとしたら何を書きたいですか」
「えっ。うーん。よく分かんないけど、今日を幸せにできた自分に感謝でーす、とか?」
「おお!いいですね」
「そうですかね、ありがとうございます…」
「誰かがそれを読んできっとハーピーになりますよ」
「あはは―――」

 薄っぺらくて一見頼りないテントを広げる。中に入ってからすぐに紙とペンで手紙を書いた。小さくて細かい、虫眼鏡でやっと読める大きさで。昔から今までのことを書くのには本当に手間取った。けれど、テントから出てもいつまで経っても時間は分からない。
 その手紙は厚ぼったい本の下に挟んで、わたしはお茶を淹れる準備をする。アールグレイしか茶葉を持ってきていなくて笑う。
 お腹を温めたら身投げしよう。
 またここにのぼる頃、わたしは虫眼鏡を持ってハーピーになっていると。
 お湯が沸騰した。茶葉は踊っていて、わたしも身体をくねらせる。


 都内を散歩したら物価が高くて飛び上がりました。新しい景色を見ると頭が新鮮さに喜んで少し元気になってくれます。


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