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『恋愛の平成史』のリライト

現代社会には、自然な恋愛をしようとするのを邪魔してくるファンタジーがいっぱいあります。雑誌やテレビ、漫画などのストーリーに憧れたり広告の謳い文句に踊らされて、自然な恋愛から遠のいてしまうパターンは割と多い気がします。情報があまりに流布し過ぎて、ある種の常識が作られてしまっている気がします。そして、頭でっかちになってしまい恋愛に挑めないでいる人が増えている気がします。
日常に様々な情報や価値があふれており、それらを受け取りすぎて、誰もが自分や他人の「本当の気持ち」を見たり触れたりすることが出来なくなっているかもしれません。多くの誤解や人のトラブルはそこから発生しているような気がしています。僕は、ずっと危機感を感じています。だから、その「常識」という幻想を壊すために、夢のない記事を書こうと思ったのです。

(※性的な事柄に触れますので、苦手な方は戻るボタンで逃げてください)
以前日本の雇用を考える記事を書きました。そこで、明治維新後に雇用慣行を整えるために軍隊のシステムを使って日本は近代化を進めてきたことを知りました。現代の日本の文化や風土を考える上で非常に大きなエッセンスだと思い、恋愛の平成史を読み直してみました。

これを踏まえて『恋愛の平成史』を見直してみると、加筆したり、整理した方が分かりやすいと思うことが多々ありましたので、リライトしてみたいと思いました。それからもう一つ割と重要なのが、自分で書いておきながら『恋愛の平成史』の語り口調が強すぎて、あまり好きになれませんでした。これも修正したいと思いました。無事にできるだろうか不安です。

さて、本論に移りたいと思います。恋愛とは非常に個人的な問題ですが、一方で多くの人に共通の問題でもあります。恋愛も結婚などの社会制度や文化との関連などからマクロな視点で見ると社会的な問題を孕んでいることに気が付きますが、先ずは個別の事柄から見ていきたいと思います。

心理社会的危機と恋愛の関係

恋愛は生物的な体の性の問題と、心の問題とが非常に密接に関わっています。そして心の発達にとって重要な課題でもあります。そして同時にメンタルヘルスにも関わってくる場合があります。なぜなら、恋愛や性の問題は「自分の性的な欲求や関心を叶えること」の問題と同時に「相手に自分の存在を否定されず受け入れてもらえるか」という問題が重なるところにあるからです。自分という存在が問われる問題に発展するため、心理的、社会的な危機を引き起こすのです。

身体の成長と共に、性的な欲動が顕在化してきます。そして、欲動に突き動かされて異性と親密な関係を結ぼうと接近します。これは動物的な側面がそのようにさせています。

しかし、人間は社会的な動物でもあります。お互いの性的な関心を意識しつつ、人格として尊重しながら生活をしています。関係を壊さずに親密な関わりを持つという新しい行動を試みる事が求められます。それまで他人であったり友人関係の距離感であったりしたものが、恋愛対象の距離感を求めて変化し、それぞれの状況で新しい行動を生じさせるのです。

欲動に駆られて欲求を満たそうとして、相手の人格を無視してしまったり、思わぬところで気持ちが表出して周囲にからかわれて恥ずかしい思いをしたりします。逆に過剰に自分の気持ちを抑えて隠して気持ちが伝わらないなど感情に振り回されたりしながら表現を調節します。

そして気持ちを表現した結果、気持ちを受け入れて貰えると、とても嬉しくなります。反対に受け入れて貰えないと、深く傷ついてしまったりします。心の成長と関わる面としては、上手くいってもいかなくても、行動の結果を踏まえて、学んだことを次の恋愛に活かしたりする時に現れます。仕事や学校、遊びなど恋愛以外の場面でも、相手の人格を尊重し、感情をコントロールして、感情表現を調節して、社会生活をよりスムーズにまわすために活かしたりします。一方で、上手くいっても慢心してしまい、何もしなくなる人もいます。恋愛が上手くいかず傷ついてしまい次の行動を起こすことを諦めてしまったりと、行動も反応も様々です。

行動の結果が、必ずしも全てが良い結果ではありません。そもそも行動すら起こせず不満を抱くことだってあります。そこには様々な負の感情が生まれます。こうした個別の負の感情が「我々意識」とが結びついたときに、新しい社会的な概念が生まれます。恋愛と社会的な構造の話に移る前に、個別的でもあり、普遍的な話でもある、ユング心理学から恋愛を見てみたいと思います。

恋愛と元型

恋愛には様々なファンタジーが纏わりついています。多くは広告などの商品として作られたイメージで、恋愛対象に気に入られる方法であったり、雑誌の話題作りであったり、パートナーはかくあるべきといった井戸端会議で生まれてくるような性役割のイメージも含まれます。

これらは様々な価値観と関わっており、宗教観や民族文化的な営み、地域の風俗などとも結びついています。これらは人間の営みと共に積み重ねてきたものです。こうした文化との関わりを見る際に、時空や文化を超えた共通点を探るのにユング心理学が使いやすいので、まずはユング心理学の観点から恋愛を見ていきたいと思います。

ユング心理学において、恋愛は「アニマ」「アニムス」「シャドウ」や「セルフ」といった元型という概念を使って語られることが多いです。ユング心理学的に恋愛を説明すると、恋愛とは対象となる現実の人を通して自分の原型イメージを見ていると言えます。もう少し一般的な言葉で表現するならば「自分の理想の異性像を現実の人間相手をスクリーンにして映し、重ねて見ている」(投影)と言えます。

元型について少しだけ具体的に説明すると、「アニマ」は普遍的な男性性と訳されることがあり、女性の中にある男性的な側面で、無意識の中に存在するとても広義の男性像であると言えます。もう少し具体的なイメージを上げるとすれば、アニマ的なイメージの中でも性的欲動の側面が強く、人間の性の背徳感を背負ったイメージとしてわかりやすいのが、インキュバスではないかと思います。自分の外にある何かによって性的な行動をしてしまった、性にとらわれてしまったという言い訳のためのようなイメージです。

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「アニムス」は反対に男性の中にある女性的な側面で、無意識領域の中に存在しています。こちらも性愛的な側面を説明しやすいキャラクターとしてサキュバスが例として挙げられます。これもアニマ同様です。

「シャドウ」は自分が認めたくない自分の側面であったり、自分が生きてこなかった可能性としての自分という側面の性格の総称です。

「セルフ」とは心の中心であり、心の全体でもあります。自分の完成形のイメージです。神様のイメージとして扱われることもあります。まさに理想像に自己同一化するように恋をする感じでしょうか。つまり「理想的な相手と居ることで自分も理想的な自分でいられるような錯覚」をさせてくれるような恋愛であると言えます。

ユング心理学的に恋愛を説明すると、自分の心の中にある原型イメージを実際の人に投影して魅力を感じているのが恋愛である、という考え方になります。言葉や説明が西洋的なニュアンスが強くはありますが、洋の東西を問わず共通している性格を持っていると考えられています。

この考え方は一定の結論を示しています。それは、目の前に対象の人は存在しているのですが、本当に見ているのは相手ではなく自分自身でしかないのです。自分の心の中のイメージを実際の人に重ねて見たいように見ているので、実際の相手を見ているようで見ていないのです。ファンタジーつまり幻想を見ていると言えるのです。

もっと嫌な言い方をすれば、性的な欲求や自己愛に突き動かされ、無意識の力によって理想化された恋愛対象に接近し、自己愛や性的な欲望を満たそうとする現象を恋愛という事ができるのです。

僕はこの概念を上述したように理解したときに愕然としました。自分がとても動物的でだらしない人間に思えたからです。でも考えてみてください。この理屈を使うと自分以外の他の人間も皆そうなんですよね。そう思って納得させました。この解釈もまた幻想であるというメタ批判を自分に向けながら話を進めたいと思います。

このような動物的でドロドロした感情や欲を美化するためにキレイでドラマチックなストーリーで演出します。そうやって幻想に乗って汚い部分を誤魔化しながら、これまで私たちは恋愛を営んできました。そして、これからもそうしていくのでしょうが、果たしてそれでいいのでしょうか。私の答えは半分イエスで、半分ノーです。

イエスの部分は、これまで人間が培ってきた英知だからだと思うからです。なかには欲動そのものに嫌悪感を抱く人もいるからです。ファンタジーの力はその人達にも他者との親密な関係を作る力(勇気)を与えるものだと思っているからです。親密さがそのまま幸せに直結するわけではありませんが、人生をより豊かにしてくれるものであると信じています。

ノーの部分は、ファンタジーによる弊害が多く起きていると思うからです。私がよく目にするのは、Youtube広告や雑誌の巻末などに出ているような商品としての恋愛観です。何かが原因でうまく行かないというストーリーを語り、それを解決する手段はこれだ!みたいなアレです。全くの事実無根というわけではないでしょうが、恋愛産業用に作られた価値観がかなり入っています。例えば男性器が大きくなればモテる!みたいなやつがあるじゃないですか。これどのくらい信じる?って色々な人に聞いてみてください。僕が聞いた限りではほとんどの人が言ってました。「人による」って。

さて、恋愛が持つファンタジーは色々な場面に利用され、そして多くの文化に影響を与えてきました。現実の社会の中に潜んでいる恋愛とファンタジーの関係を考えてみたいと思います。

ファンタジーの弊害

常識というのは、その特定の概念や価値観をその文化の構成員である人たちが一定数の人が信じたあたりから、通説となり常識になっていくのです。

社会がファンタジーを作り出すメカニズムは、ひとつのライフスタイルが文化の中で作られると、自然淘汰を経ながら徐々に広がっていき、残ったものが常識になります。そうやって色々な概念や様式が文化の根底的な価値観になってきた事が想像できます。そうやって時間をかけて今現在の男性像や女性像は作られてきたのでしょう。

生活様式が定まってくると同じ行動が繰り返されるので、家族や地域の仲間など、同じ共同体の構成員の中で再生産が起こります。少なくとも家族の中で生活様式が共有され広がっていきます。親から子へと生活様式が伝えられます。世代が変わってもこの流れはほぼ変わりません。民族大移動や戦争などの文化大粛清が起こらない限りは、生活や文化が変わらないので再生産が維持されます。

また特に、地位や権力を手に入れたカリスマ的人物が作り上げた生活様式の広がり方はその傾向が強くなります。そういった意味でも思想や宗教が人々の生活に与えた影響は大きいと思います。

宗教では生活様式を具体的に示しているものもあります。ヒンドゥー教では神聖な生き物は食べてはいけないですし、キリスト教では「隣人を愛せ」などの美意識や規範意識が示されています。他にも、天地創造のように神様が世界を作る様子を描く事で、世界の成り立ちなどが体系的に説明されていたりします。キリスト教文化では同性愛が悪いこととして描かれていたので、アメリカでも古い価値観を重んじる文化圏と革新的な価値を重んじる文化圏でよく対立しています。

とはいえ、地域ごとに宗教解釈が異なっていたり、宗教を利用したりもしていますので、特定の地域でその文化圏固有の生活様式が作り上げられています。そこでは恋愛観も多様に存在します。しかし、面白いのは多くの文化圏で男女にまつわる生活様式に共通点があることです。

婚前交渉の有無などの貞操観や、子育てにまつわる母性神話など宗教と無関係であってもなくても、これらの価値観が要求する男女の在り方など、これらの観念もある種のファンタジーです。

結婚という幻想

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結婚という制度も人間が作り出した仕組みですが、それにまつわる観念はファンタジーであると言えます。例えば貞操という概念があります。これは経済的な生活を考えるとかなり合理的な価値観だと思います。婚前交渉を行う相手の身分が安定しない時(例えば学生とか) 、もし望まない妊娠をした場合に苦労することは自明です。また、貞操観という価値観があるため、逸脱した行動をしたことが明るみに出ると周囲から性にだらしない人と見られるなど、世間から白い目で見られてしまうなど苦しむこともあります。今では「できちゃった婚」もずいぶん受け入れられやすくはなりましたが。また、結婚してパートナーと経済活動を共にすることを考えると、収入が安定しない相手とでは生活の不安や将来への不安がついてまわります。

そうした不安リスクを負わないように、生活を共にする相手を慎重に選びやすくなるしくみとして結婚は合理的だと思います。

不思議な事に、多くの地域や文化で結婚というシステムは歴史的にも早い段階で導入されています。そして現代に至るまで揺らぐことなく生活の中に定着してきました。

僕たちが親しんでいる今現在の日本の結婚観は自由恋愛を前提としています。自由恋愛というのは近代になって大衆に共有されてきました。自由恋愛については100年近い年月の歴史があります。(それ以前にも実に多くの恋愛にまつわるストーリーはありましたが)時代ごとに時代に合ったストーリーが生まれてきました。それは先述した欲望のカモフラージュとしてドラマチックな幻想を抱かせ、受け入れやすいものに作り上げた側面もあれば、既存の恋愛観から脱して先進的な恋愛をしやすくするためのモデルとして機能してきた側面がある、というのが僕の恋愛幻想の歴史観です。

結婚と家父長制

また、厳密には恋愛ではないけれども、結婚は恋愛と切っても切り離せない制度です。源氏物語のように貴族社会では恋愛が立身出世の手段であり、今でも社会階層を超えたり、維持強化させる手段の一つであります。

現代は自分でパートナーとなる恋愛対象を見つけ、付き合って、結婚に相応しい相手かどうか見極めるというのが、一般的な結婚までのイメージかと思います。この結婚観は西洋文化の流入によるところが大きい気がします。

日本も基本的には一夫一妻制だったとは思いますが、武家社会では一夫多妻もありましたので、明治維新以降の近代化によるところが大きいでしょう。
また、結婚は男女でひとつの組であることが色々な文化の中でも多数派ではありますが、必ずしも恋愛を必要としないところもポイントです。今では随分と薄れましたが家父長制は日本の代表的な結婚観を見せてくれます。

いつどこの調査か忘れてしまいましたが、「結婚相手」と「恋愛結婚/お見合い結婚」と「結婚の満足度」についてのアンケート調査を見たことがあります。結果は予想通り見合い結婚よりも、恋愛結婚の方が満足度が高かったのですが、満足度が高い理由は結婚相手とは関係がありませんでした。どんな相手であるかは結婚の満足度には反映されなかったのです。嫁ぎ先で自分が大事にされるかどうか、いかに適応できるかが重要だったようです。環境を自分で選べるかどうかがポイントなのかもしれません。

結婚において相手を選ぶ基準は今も昔も大きくは変わってはいないと思います。それは社会的信用、体裁、財産、人格者であるといったあたりではないかと思います。体裁を保てる相手とは「他者から見ても悪くない人、羨ましがられる人」です。仕事があったり地位があったり、悪い噂を聞かない人であったりします。問題を起こさない人が好まれていたのでしょう。

お見合いというシステムと恋愛結婚の違いは、結婚相手にふさわしいかどうかを誰が見極めるかというところにあります。昔は個人より集団(血縁、家)の価値が重いため、責任を負う人=家庭内の権力者=父親であることが多かったのでしょう。だから自由恋愛は邪道でした。結婚は家族を背負ってするものであったため、自由恋愛をするということは「家」という集団をリスクに晒すことに等しいことだったのです。

このように考えると家父長制度というものは、相互監視が働いているようなムラ社会においては、逸脱行動や、下手なことをすると集団の中からはじき出されてしまうおそれから、逸脱することを抑制し、治安維持にも貢献していたかもしれません。

この当時は個人よりも家単位で信頼関係を持っていたので、親の知り合いや仲人さんが見立てて、ある程度の信用が担保された相手が結婚相手として選ばれていました。こうしてリスク管理と責任を分散させていたのです。家父長制において価値が高かったのは、社会的信頼が担保された「家のイメージ」を傷つけないことなのだと思います。それは、近代的な価値に置き換えると、受け継いできた信頼の象徴である「家」=「財産」を守ることであったのかもしれません。

先述しましたが、自由恋愛はリスクをとる行為でした。

自由主義は個人に権利を付与すると同時に、責任を背負わせます。自由恋愛においては自分の人生の時間を使って相手探しをしなければならないので時間を浪費するリスクを背負う面もあります。「結婚相手は自分で探す」と自立した精神を持っていますので問題ありませんが、実は全ての人がそうとも限りません。そう考えると、現代の結婚観は暗黙のうちに個人に自由と責任を押し付けている社会システムの上に立っているとも言えるでしょう。

ここまで書くと懐古主義で、昔に戻れと言っているように聞こえるかもしれませんが、あくまでその時代の価値観のメリットを並べているだけのつもりです。毛嫌いしないでお付き合いくださると嬉しいです。

男尊女卑と母性神話

家父長制においては、家が持つ歴史や血縁関係、信頼を維持、継続することが重要課題でありました。そのため、人生を賭して新しく何かを興すということは家をリスクに晒す行為であり、評価されにくかったのだと思います。(そもそも市農工商と身分が規定されており、自由に何かをすることが認められていなかった時代がありましたので、その名残もあるかもしれません。)だから、身分を維持することに力を注いでいたのかもしれません。

現在でも、男性は信頼が高い仕事に就いていて、尚且つ長く務めることが出来て、真面目であることが評価されています。一方、現在の女性は多様です。社会に出て仕事をすることが望ましいと言われたり、かつてのように家を守ることが求められ、上手に家事をこなし、家族関係を調整をうまくすることも良い女性とされます。どちらかと言えば、かつての価値観がまだ優勢で、女性は家庭を維持し、世継ぎを生み育てることが課題とされているきがします。昔は個人よりも家(集団)が優先されていたからだと考えれば、なるほどとは思います。しかし、今では個人の幸せを追求する権利が保障されています。昔は社会の構成員の大多数がその価値観を信じられていた時代はそれで良かったのだと思います。そう思うと今の自分たちは先人の犠牲の上に立っているのだと認識させられます。

上述の「それで良い」というのは、他の人と比べて自分はどうかという意識を持たずに済んだという意味です。多くの人は、自分が大多数と同じ意見であれば自分は正しいと思えていれば、同じ価値観の中で安心していられるので、問題にはならなかったという事です。それ自体が良いか悪いかという意味ではありません。

家父長制に近い男尊女卑のよな社会システムは世界中にあったようです。そう考えると、妊娠出産が出来る体である事とは無関係ではないのかもしれません。身分制度によって役割が固定していたことと、出産と子育てがワンセットになりやすい環境があったがために、母性神話が誕生し、子育ては女性の役割であるとされてきたのだと思います。

また、母性神話を語る人の切り口も実は変わってきているのではないかと思います。純粋に正しい子育てには母親が必要だと考える人や、男性の権利が脅かされる不安を抱いて女性の社会進出を拒む人、よくわからないけど皆がそう言うからなんとなくそう言っている人などです。「母性神話」という聞こえの良いストーリーを語ることで女性に子育てを受け入れやすくさせ、他の人もやっているからと押し付けて、男性はこれらの仕事から回避してきた側面があるのではないでしょうか?また、母性神話の理想に押しつぶされたり、期待通りにできなかったりすると、期待を裏切ったと非難する人がいることも明らかになってきました。インターネットの普及により母性神話のマイナスの側面が露わになってきています。

時代が進んだこと、色々な人が情報を発信してきたことで、母性神話を支えていた共通認識のパワーバランスが崩れていき、社会の課題となっていきました。

自由恋愛はまだほとんど認めらていない時代には、親が選んだ相手と結婚するという事が主流でした。そこに明治時代から西洋の文化が流入しました。夏目漱石や森鴎外など文人たちが海外から自由恋愛を文学の中に取り入れ、多くの人々に衝撃を与えていたそうです。日本の恋愛、結婚観の革新はここから始まったと捉えているのですが、200年近く経った今でも、未だに昔の男性像、女性像の影響は未だに色濃く残っています。当然、年齢や世代が若くなるほど家父長制の色は薄まっています。単純に人口比率で見れば高齢者が多いためなのかわかりませんが、令和の今でもまだまだ残っている部分が大きい気がしています。

ところで最近、依存労働という言葉を知りました。家事は依存労働であると言われています。東畑開人さんの『居るのはつらいよ』の中で「依存労働というのは専門化しないまま残ったケアの仕事のこと」であるいう文があります。

現代社会は自立を前提とした社会が作られているので、自立していて自己責任でやっていける人のため構成されていると言っています。そんな世の中ですから、専門化され自立したものの価値は見やすくなっています。

一見、専業主婦は夫の稼ぎに頼っているように見えますが、実は稼いでいる間、家のことは奥さんに任せっぱなし、というか頼らないとやっていけません。実際はみんなお互いに依存しあって生活しているのですが、母性神話という体の良いストーリーで性役割を引き受けやすくさせる効果があったのではないでしょうか。母性神話を利用し、男性は優位な立場を維持し、固定させようと女性を追いやってきたように思えてなりません。

依存労働って本当に損な仕事だ。仕事が成功しているときほど、誰からも感謝されないからだ。感謝されなきればされないほど、その仕事はうまくなされている。依存労働の評価が低いのには、きっとそういう事情とあるのだろう。依存は気づかれない。
『居るのはつらいよ』p115

多くの人が声を上げてきたにも関わらず、未だに旧世代の幻想を信じている人が多いのが現状です。母性神話そのものは悪くないですが、男性か女性という生物学的な身体的特徴で役割を押し付けて固定化してしまうのは、全ての人に人権が与えられていると宣言して久しい今の世の中には合っていません。それは、女性が依存労働の多くを担っていたという事なのかもしれません。依存労働は評価が低く、見つけられにくかったからです。改めて考えていかなければならなと僕は思っています。

今、世の中にある制度や価値観は何のためにあるのか。どんな効果があるのか。目的とその効果が得られているのかなど、時々効果測定してみてもいいのではないでしょうか?形骸化した制度、今あるものが制度のための制度になっていないか確認できるようにした方が私たちのためになると思います。

歴史的にもこうした役割の固定に変化をもたらそうとした社会運動があります。公民権運動やフェミニズム運動などの権利運動が世界中ほぼ同じ時期に起こりました。その運動のおかげで女性も社会進出が促進され、今ではライフスタイル、ライフサイクルに幅ができました。これらの価値観が浸透してきたことで、既存の価値観が徐々に変わってきました。

戦後の恋愛と恋愛産業

恋愛に該当するものは大昔からありました。しかし「恋愛」という言葉が誕生したのは、明治時代に英語のLoveの訳として使われた時だったようです。

自由恋愛の概念が輸入され、今では自分で恋愛対象を見つけることが「幸せ」の前提条件となっています。世間の「幸せ」の道程がお見合い結婚と、恋愛結婚の両者が平行しながら時代は進んでいきます。

1960年~1980年、敗戦処理以降、西洋文化のさらなる流入が加速していきます。戦前と戦後で社会の雰囲気は大きく変わったと言われています。階級社会を覆そうとした学生運動も失敗に終わります。

正義を振りかざしても革命は起こらなかったという虚しさもあってか、若者は政治から離れ、ラブ&ピース、フリーセックスなど享楽的な価値観に傾いていきます。これまではムラ社会の「集団心理」に押さえつけられていた「個人」の自由を求める心の反動として現れた社会現象だったのかもしれません。これらの現象は身体的にも、精神的にも逸脱したり、魂を解放しようとする運動だったという人もいます。それがどういった意味があったにしろ、この頃から性に対する捉え方が大きく変化していたような気がします。

どの時代でも言えることなのかもしれないですが性を享楽的に楽しむ文化はおそらくどこでもあったと思います。それはかつて今以上にこっそりと隠れて行うものであったと思うのです。何故なら、強く禁欲的な価値観が強く存在していたからです。それは宗教によって支えられていた側面が強いのだと思います。この分厚い壁が崩壊したのは経済第一主義になっていったのと同時期だと思います。ニーチェは既に『ツァラトゥストラはかく語り』で「神は死んだ」と記していましたが、それは100年も前の1885年でした。

かつての道徳的価値が崩壊し、新しい道徳特的価値観をはっきりと体系的に示せないまま時が流れてしまいました。こうして問題提起や一時的な受け皿ばかりが勃興し続けました。その受け皿のひとつが新興宗教だったのではないでしょうか。はい、脱線しました。

このあたりの年代から性産業に対しての心理的な垣根が崩れ始め、徐々にグラデーションのように変化していったのだと考えています。というのも性の問題は恋愛との結びつきが強いため、恋愛が産業化したことによってそのグラデーションが起こったのではないかと思います。その流れをけん引したのが、漫画文化と雑誌文化、テレビ文化であると考えています。

今では当たり前となったオタク文化ですが、市民に受け入れられたのは、経済的価値があると注目されたからです。オタク文化の中でも「萌え」という言葉が流行ったように恋愛経済がターゲットになりました。恋愛対象は漫画やアニメ、ゲームなどの二次元のキャラクターで、それぞれ属性別にわかれており、それらが経済的な価値を生み出しています。

もう一方で、雑誌では話題作りに様々な専門用語が大衆向けに編集されて広められました。心理学や精神医学の用語であったものまで大衆化され、今では当たり前のように扱われています。例えば性格を表す、サディズム、マゾヒズムといった言葉も「自分はSっぽい」とか「あいつはMだから」など一般的な話題として扱われています。そういった概念はテレビによってより拡散され一般化したことで、性産業が需要として吸い上げてSMクラブのようなものが生まれたのだと考えています。

また、テレビは歌手やアイドルを数多く生み出し、一大産業を作り出しました。これらも恋愛産業と言ってしまっても良いかなと思います。彼らは音楽を歌うアーティストである一方で、憧れの存在として共有された恋愛対象でもあるのだと思います。そして、アイドルや俳優、女優に水着を着せたりセクシーな姿にさせて、性的な魅力を感じを売り込みます。

こうして、恋愛や性を上手く大衆向けのコンテンツにして市場を作っていったのです。年代が進むにつれコンテンツが増えますし、これらの文化はより深く浸透していきます。

そして、それらが折り重なりながら恋愛産業と性産業のグラデーションが出来上がっていったのだと思います。

性産業と従事者

さて、風俗などの性産業は消費する立場にも様々あって、楽しみとして消費する人もいれば、異性と付き合うことが難しくて持て余した性欲の持って行き場所として利用する人、一般的に受け入れられない異常な性癖を満たせる場所として見出している人など他にも沢山あるでしょう。生活の中で性的な欲望を持て余している人にとっては救済措置のような役割として機能していると思います。

性風俗で問題だと思うのは、性に対する様々なファンタジーを引き受けるている点です。そして、それ助長している側面がある事です。お客さんを呼び込むための刺激として有効な手段である一方で、働き手である人を傷つける可能性を高めています。

アダルトビデオにお世話になっている人もいっぱいいると思います。作品群をながめていると女性や性に対するイメージ(主に男性が女性に対して抱いているイメージ)がかなり歪んでいることが見えてきます。

痴漢やレイプなど性暴力を扱った作品や未成年者を対象にしたもの(フィクションであるはず)などで性的搾取をした側が「相手も喜んでいるから大丈夫」という謎の理屈を持ち出していて、それがある程度の作品の中で常識のように蔓延っていることです。

実際に女性がこれ言っているところを見たことがありません。(それもそうだろうけども)他人の視線を意識するため、性についての発言をすることは難しいですし、商品を売っている側がフィクションであることを前面に出しすぎると商品価値を下げてしまうため、なかなか言えないのが現状ではないでしょうか。

そして恐らくは、これは男性が罪悪感や罪を逃れる言い訳として使っている幻想や希望的な意見なのでしょう。それとコンテンツを消費して罪悪感を抱かないようにするための製作者側の配慮みたいなモノだとは思うのですが、これを信じ込んでいる人もいるようなのです。

アダルトビデオや雑誌などを性の教科書として使ってきた人は多いと思いますが、それをフィクションだと気が付かずに受け取ってきた人も少なからずいると思います。間違った知識によって、恋愛が成就できなかったり、思い込みで女性を傷つけてきた人も多くいると思うのです。

だから、密室に2人きりの空間で性的なサービスを行うのはとても大きな危険を孕んでいることなのです。性感染症のリスクはもちろんのこと、場合によっては暴力を受けたり、命の危険に遭遇する事もあるのです。そんな緊張感の中で、相手が満足出来るようコミニュケーションを図るのです。そもそも望まない相手と密な関係を求められるため、精神的な負担が強い事は想像に難くありません。

これも依存産業なのだと思います。表の世の中では受け入れられない負の感情や隠したい欲望を引き受ける役割として機能しているのだと思う思います。性の問題、特に性産業はタブーとして扱われており、かなり難しい問題ではありますが、考える必要があると思います。考える事を放棄していた負の遺産をこの先どう扱うかというのは、私たちの未来を考える事だと思います。

この役割を誰が引き受けて居るのかというと、現状は貧困やメンタルヘルスの問題を抱えた女性が多いようです。貧困から風俗やアダルトビデオ出演などの性産業へ足を踏み入れる人が多いと聞きます。

この仕事についていれば給料が良いから儲かるだろうというイメージを持っている方が多いようですが、この仕事から抜け出せない人も多いようです。その理由はお金だけではありません。メンタルヘルスや、教育、社会的資源との繋がりの希薄という問題があります。

メンタルヘルスの問題を抱えると、一般的な就労にたどり着けない事が多いからです。就職の際にメンタルの問題を抱えた人は倦厭されがちという状況があります。

そして、性的なサービスそれ自体が強いストレスとなって自分を傷つけてしまい、メンタルヘルスの回復を妨げる要因になります。だから、仕事を辞めなければ回復出来ないのにこの仕事をすることしか出来ないという風になっていってしまうのです。

社会資源との関わりも希薄になります。公に言いにくい仕事であるため他人に支援を求められなかったり、今回、コロナ禍で性産業が暴力団の資金源になっているなどの理由から行政の支援から外れてしまいました。

また、貧困との関係もありますが、教育の問題も大きいと言われています。学歴が低く、正社員で雇用してもらっても給料が低く、貧困を脱することが難しいという問題があります。真剣に貧困と性産業の問題に向き合わないと、この国の分断はどんどん進んでしまうと思います。僕はそれがとても怖いことだと思います。

反省すべきはファンタジーよりも私たち?

書いていて思ったのですが、僕は恋愛産業と恋愛にまつわるファンタジーのつながりを問い直したいんだと気が付きました。今ある価値観が当たり前のように存在する世界に生きてきました。心理学に出会うまで常識を疑うことはあまりしてこなかったように思います。

今はまさに新しい世界の過渡期だと思います。

このタイミングで今までの事を振り返って、反省することは反省してこれからに活かしていかないと、今のツケがどんどん溜まって、何十年か後にさらに大きな負債となって自分たちに覆いかぶさってくるのだと思います。

例えば、3.11の原発の問題はどのように扱うかをぼやかしていた部分が対応を遅らせたりしました。太平洋戦争時の戦後処理を日本人がどのように認識してきたのか多くの人が知らないでいた、忘れていたことによって、慰安婦問題が再燃するたびに大きな議論になっていたりします。また、日本軍が攻め入った東南アジア諸国との関係であったり、高度経済成長期の日本がずるい立場をとっていた事など色々あります。

今起きてる問題のほとんどは、過去に作られた、あるいは残された課題が噴出してきているのです。今の問題を僕たちの生活面からの反省を考えるきっかけを作りたかったんだと思います。以前に『恋愛の平成史』なんて書いたのは漠然とそんな思いもあったのかなと思いました。

ダラダラと長い文章を書いてしまい、すみませんでした。果たして、ここまで読んでくださった奇特な方はいらっしゃるのでしょうか?

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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