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第1回座談会-後半-


「知らない」を創作原理に

安瀬:いまね、山梨で野菜の配送してるヨッちゃんてひとの家に居候してるんだよね。最近はもう割った薪でストーブ焚いてるよ。

かれら:いいなあ山梨。ぼく三鷹に住んでるけど、多分中央線で一本ですよ。じゃあ後半は、さっそく僕のテクストを読んでいきたいと思います。

かれら:書く前に考えていたのは、前回『配置された落下』ではモノローグ演劇だったので、次は会話劇にしようということ。それから、だいぶ以前の話なんですが『ドゥルーズ・コレクション 権力、芸術』の中に入っている「創造行為とは何か」という短いテクストを読んでいたんです。その中で《白痴》[idiot]についての話が出てきます。ドゥルーズは、ドストエフスキーの小説を例にとって《白痴》の説明をします。《最悪の緊急事態——「火事だ、私たちは行かなければならない」——に置かれながらも、登場人物たちは「いや、もっと緊急な何かがある。それが何だかわからない限り、私はここを動かない」と心に思う、(…)これこそまさに《白痴》[idiot]の定式なのです。》
このあと、ドゥルーズ は《白痴》の例として黒沢明の『七人の侍』を出す。

『七人の侍』において、登場人物たちはひとつの緊急状況にとらわれている——彼らは村を守ることを引き受けます——のですが、彼らはまた、フィルムの最初から最後まで、それよりもっと深いひとつの問いに悩まされ続けてもいます。この問いが何なのかは、フィルムの最後で、侍たちが立ち去るときになって初めて、彼らのリーダーの口から言われることになります。「侍とは何か。侍一般ではなく、この時代にあって侍とはいったい何なのか」。もはや何の役にも立たない誰か。領主はもはや侍を必要とはしておらず、農民たちもじき自分たちだけで身を守ることができるようになる。フィルム全体を通じて、状況の緊急さにもかかわらず、侍たちは、まさに《白痴》の名に値する、次のような問いにとりつかれているのです。俺たち侍とはいったい何なのか。

僕は『七人の侍』を見たことがないんですよ。すごい長い映画で、侍が出てくるんだろう、という印象くらいしかない(笑)。一般的に、映画を見て、あるいはリサーチを重ねて、それをもとに作品を制作するというのはありますよね。あるいは、自分が慣れ親しんだもの、よく知っているものを基にして制作する。でも僕が今回やってみたいのは、「知らないということを使う」ということなんです。僕は一応大学院にも通ってるし、普段は気になった文献なり映画なり、調べます。これはちょっとしたきっかけがあって、山下澄人の小説『砂漠ダンス』では、あきらかにサミュエル・ベケット『モロイ』をオマージュしているシーンがあります。でも山下さんにお会いしたときに、そのことについて伺ってみると、「あれを書いた頃はまだベケットを読んだこともなかった」って言うんです(笑)。
もうひとつ例を出すと、僕の好きな漫画家で、大橋裕之というひとがいます。最近『ニューオリンピック』という漫画を出したんですが、大橋裕之も、オリンピックについては全然興味がないし、スポーツも詳しくないと言っていて。
知ってしまったら、知らない状態に戻ることができない、という不可逆性もあるわけですが、わりと一般的には、扱うモチーフとか主題については知っていたほうがより良いものが作れる、というのがあると思います。これは芸術の話にかぎりませんが。
でもそうじゃなく、「知らない」ということを創作原理として作品を作る。これがどういうことなのか考えたかったのがひとつです。知っていることで、モチーフや作品に対して遠慮したりブレーキがかかるところを、「知らない」を武器に、グッと推進力を出すような作り方もできるだろう。
まず今回は、『野犬の庭』というタイトルを考えました。まだ仮ですけどね。ある男が死体の前にいる。男は死体が野犬に食われないように見張ってるんだけど、目を離したほんのちょっとした隙に死体はどんどん小さくなっていて、食われている。ぼくが今考えてるのはそれだけです(笑)『七人の侍』から得たのは、男が何かを守ろうとしているということ、しかしながらその状況そのものが白痴のように思えてくるということです。


否定性とイメージの問題

かれら:もうひとつ考えているのは、すこし抽象的な話になりますが、否定性の問題です。


また山下澄人の話になりますが、山下さんの小説を読んでいると、「私はそのことを知らなかった」という表現がいくつも出てきます。「Aさんはその後川に飛び込んで死んだ。私はそのことを知らない。」というような。「知らない」ということでまず浮かんでくるのは、素朴に考えれば、作者かもしれない。登場人物の知の限界が示されるこにとよって、語りがひとつメタ的な次元に入るわけです。でもこれは少し単純すぎるだろう。
それからもうひとつ僕が考えるのは、否定から生まれるイメージです。そもそも、この世に「ない」ということは存在しない。「コップがない」という状況は、ない。それは人間の知の次元だろうと思う。だから、「ここにコップがない」というふうに文章で書かれた時に、他にコンテクストを形成するような文があれば別だけど、ただこの文だけを書かれたら、何をイメージしたらいいのか分からないわけですよね。

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NO PROGRESS_戯曲0928


今回のテクストの冒頭は、「イヌじゃない。」と書きました。じゃあ、「イヌじゃない」と書いてあったときに、なにを思い浮かべるかというと、イヌのイメージでしかない。この文では、イヌに焦点下されるけれど、そのイメージがすぐさま否定されている。つまり、「イヌじゃない」という文章を、人間は思い浮かべることができないんですよね。これはぼくの中では愛の問題とかと繋がっているんですが、これはまたいつか…。
で、今回は、なにかのイメージが出てくるときに、否定を伴って出てくる、それによって作品が進んでいく、というのをすこし考えています。ある発話から想像される場面やシチュエーションが、別の発話(者)によって否定される。あるいはそれは、美術や音楽によってかもしれない。このことを、作品を作るうえでのエンジン、のようなものにしていけたらいい、と今は思っています。

すこしずつ死ぬこと、ト書きとセリフの境目がないということ、戯曲を上演すること

かれら:この後は、「それへと近づきつつあることになって」、で、このことについてはまだまだ考えられてないんですが、ある行為ないし出来事があったときに、「そういうことになる」ということにすごく惹かれるというか、個人的にリアリティを感じるんです。「教会で愛を誓ったら、結婚していることになる」とかね。

その後、二人のカップルの結婚の話、それから、その片方が死んでいるという話が出てきます。
僕は、人間はちょっとずつ死ぬものだ、と思っていて。生きている状態と死んでいる状態があるのではなくて、だんだん死につつあることが明確になっていく。それはたとえば内臓が病気になっているのとはべつに、まだ当人は生きているにもかかわらず、死ぬということが濃厚にただようというような。あるいは当人が元気でも、元気であることが、かえってあやうい。僕は多分、自分の年齢(24歳)にしては、持病で亡くなったり、入退院を繰り返しながら生きてるひとが周囲に多くて。なんというか、生死の境では、そういうことがあるんじゃないのかと思うんです。
後ろから三行目、「それが死んだことに、イヌだけが気づいていた。」ときて、「死んでいるとは知らずに、叫びはじめる」というところは、この文の主体がイヌなのか、死んだとされている当人なのか、わからない。そういう文にしたかった。
「あなたに。」というのは、とりあえず書いてみて、さあどうする、と思っているところです。テクストとしてなにを書くかによっても変わるだろうし、舞台上でこの言葉をだれがどう発話するのかによっても変わってくるだろうと思います。

小野寺:ト書きとかセリフとかの分け目がないっていうのはどういうことなの?

かれら:それはね、まあ、だれがなに喋るかは、あとで決めればいいかなと(笑)。

小野寺:書いてあることは全部発話されるの?

かれら:でもほら、なにもない舞台で「ここは公園です」って言ったら、そこは公園だってことになるわけでしょ。だから舞台美術のト書きとして書いてあるかどうかはあんまり関係ない。関係ないというと言い過ぎかもしれないけど。「後で考える」部分の幅をできるだけ取っておきたいと思ってるから、こういう書き方になるのかもしれない。
『配置された落下』のときも、俳優は三人だったんだけど、戯曲は二人のモノローグなんだよ。二人のモノローグを、三人に割り振っていった。
だから、どこをト書きにしてもいい。内面的な心情を書いていると思われるところがト書きになったってべつに言いわけだからね。それらは舞台にどう乗っけるかの問題であって、戯曲を書くときには、けっきょく文章としていいものを作ることしかできないと思ってるから。
とはいえ、今回は途中から明確にセリフの切れ目が読めるように書いてあるんだけどね。

小野寺:じゃあこれからも戯曲は誰がどう発話するかは確定されないまま書いていく。で、稽古で動いてみてはじめて、どういう演出にするかを決めていくっていうことかな。

かれら:いまのところはそうだけど、べつに途中でいわゆる戯曲みたいになっても、全然いいわけだからさ。まあ、いまのところ、この次の文で山本さんをカッパとして登場させようかなと思ってるけど(笑)。

浩貴:(笑)。僕の感想としては、これは戯曲として成立するっていうのは全然ありえて、すごい面白いテクストになっていると個人的には思う。同時に、ベタな話ではあるけど、上演するときに上演台本をどう作るかという問題は生じる気はする。ひとりひとりが役を当てられて演技するということを考えた時に、このテキストをどう使うか、という。それを考えていくことも含めて、僕らがかれら君に応答することになっていくんだろうという感じはする。何をト書きとして、なにを発話とするのかということが創作過程として組み込まれる…。

かれら:僕は戯曲と上演台本が一緒である必要を感じていない、というところが大きいかもしれない。

浩貴:かれら君が最初に話していた否定性の話というのは、言葉のレベルでなにが起こっているのかをすごく意識させるような考えかたで、その流れでこのテクストの書き方がなされていると思う。一方で、上演台本も同時に作っていくというのもできるだろうと思う。

小野寺:演出を同時に考えていくということか。

浩貴:そう。たとえば「それが死んだことにイヌだけが気づいていた。」って書いてあった瞬間に、ガクッとくる。んん?って感じになるわけだよね。この感じを、どうやって舞台にのせるのかというのは、すごく考えるべきところだろうし、個人的には面白いところなのかなとは思う。それを強いてくるテキストだな、と思った(笑)あ、考えなきゃ!っていう(笑)

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