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テクスト草稿 第三稿(11/11)

テクスト第三稿、pdfデータと写真

第二回座談会において提出された、ロビン、森、安瀬、小野寺、富澤の5作品を受け、テクストを書き進めました。
修正の理由や、メンバーの創作をどのように反映したかなどについても記述してありますので、ぜひご覧ください。

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概観

初稿、第二稿で書かれた要素をモンタージュしつつ、さらに冒頭を大幅に書き直した。

また座談会を行い、それを文字起こしするなかで、「ロビンはこういうセリフを言ったほうがよさそう」とか「安瀬さんはこういう役だな」というリアリティが自分の中に出てきて、今回は、かなり役と俳優をイメージしながら書いた。
そのために、第二稿までは宙吊りを保っていた言葉が、第三稿では文脈から各々の主体=役/俳優を推測できるようになり、役名が書いてないだけで一般的な戯曲の形式に寄ったんじゃないだろうか。
その意味で、②の「雨が降り出していて〜」や⑧の「砂漠がズレだして〜」のパラグラフは、モノローグに近いがゆえにむしろ複数の俳優に読ませられる可能性を持っているかもしれない。

⑤の「馬はまだいない」あたりから⑨の手前までは、書きぶりが『配置された落下』と似ていて、「これは良くないぞ」と思っている。この書きぶりは自分のなかでしっくりきすぎて、いくらでも書けてしまうので自己模倣に陥りそうになるのだ。

これを書いている今は、第三稿に関する座談会も終え、いまはその文字起こしの最中なんだけど、そのとき、はじめて俳優四人で台本を読んでみた。そしたら、予想していたよりもはるかに山本さんやロビン、俳優(ほぼ)未経験のひとたちが面白い。だから⑤から⑨までは書き直すか、書き直さないにしても、これ以降の書き方は本読みにおいて感じた質感を頼りに書く方へ変わっていくと思う。

第三稿における修正と加筆

① 前のヴァージョンでは、最初のランチの話が、やはりダブついてる気がしたので、かなりの修正を加えた。僕のいまの実感としては〈砂漠は暑いというよりも見える〉は、ト書きとして機能する可能性が高そう。
たとえば第二稿では「砂漠は暑いというよりも見える。」が、「私はスターバックスで、夫と窓のそばの席にすわっていた。」の前に置かれることで、セリフとして読まれることが措定されていた(すくなくとも僕は、ここは読まれるべきだろうと思って書いていた)。
だが、「私は〜」の文が自分を客観的にプロファイルしているのに対して、「砂漠は〜」では、その風景に視点が埋め込まれている。だからこれはト書きなのかもしれない、と思って、冒頭に変えた。

② この主体は、〈雨がふりはじめていて、私たちは歩を速めた〉で、カフェに行く人物であると確定するように読める。だが、〈この辺りでは、〉で一気に思弁的な内容に踏み込んでいて、ここは作者が顔を出しているかもしれない。インディアンの話は、再度浮上してくる「カフェに行く人物」によって語られる。観客にとって、曽我部くんは伝聞として登場。伝聞を、単に登場人物が語るのとは違う仕方で演出することは可能か?

③ 〈「おれなあ、ケイコ」〉と言っている人間は、曽我部くんか。また、曽我部くんから話を聞いた人物は同一人物か。

④ 前のヴァージョンでは、〈夫は視力が悪い。〉だった。主語を消す。なぜかわからないけど、主語を消すと死にそうになる。書く僕のメンタルにくる。ここには何かある(何がかはわからない)
そして、それはある風景を思い出す時に似ていると思う。風景を思い出すとき、私は見えず、風景のひとつひとつを思い出している。

⑤ 小野寺のテクストを参照。予兆は、過去-現在-未来に関わるものではなく、空間的なものなのではないかと思い始めている。震災において予兆は、津波そのものではないか?
〈まだ馬は見えない。そんな風に言ったときには、もう馬は轢かれてる。もう遅い。〉という文のあとの、〈馬はまだいない。〉存在の点滅は、〈まだ〉〈もう〉のように、時間に関わる。のか?
しかし、このあたりは、わからなくなることが重要だと思う。書いている僕にもわからないし、観客にもわからなくさせる。つまり、馬はいてもいなくてもどちらでもよいということになるが、しかし全くなかったことにはできない、ということ。
また、〈そう言うと(…)見ることができない〉とある。だから、言うことは見たことや聞いたことを無かったことにするのかもしれない。それは伝聞という言葉そのものの性質と、リアリティの問題に関わる。伝聞は、場所が動かないタイプの演劇の基本。

⑥ ロビンと待ち合わせの時によくやる。安瀬さんが前回、僕とロビンの会話をそのまま入れればいいと言ったのを参考にした。古井由吉は、子供は言語の一番怖い場所を、軽々飛び越えてしまうと言っていた。誰でも経験がある、小学校時代の内輪ウケの言葉遊びは、言語の底を突く。
〈ここ〉という言葉は、二者がおなじ場所にいないと指し示せない。しかし待ち合わせのときの〈ここにいる〉という言葉は、「まだ相手が見えていない」という状況なので〈ここ〉の使用法を逸脱している。また、〈ここ〉と指し示す空間の縮小によって永遠に話が噛み合わない。それはまた、言葉の中には知覚があるのに、それを発話する本人には知覚(この場合には視覚)がないということだ。

⑦ これを喋ってるのはだれだろう。

⑧ 〈砂漠がズレ出してせり上がって馬が砂から離れていく〉このあたりのことを、演出で文字通りにやれたらすごく面白くなるのではないか。
この文は、安瀬さんが描いたピナ・バウシュの絵から想起。右側の女は、ものすごく生命力があるようにも見えるし、すでに死んでいるようにも見える。
〈もう轢かれてるはこれから起こることだから私の爪がオーロラ色なのは、死んだからだを見分けるのに役立つかもしれない。そのことをしあわせに感じる〉今気づいたが、ここで発話者は死ぬことが決まった。砂漠がズレることは予兆であり、それは死を意味する。それはこのテクストにおいては、もはや砂漠がズレなくても死ぬことを意味してしまう。そしてこれは書いた後に気づいたが、『マクベス』の軽いオマージュになっている。『マクベス』では、主人公マクベスは、占い師に森が動き出したらあなたは死ぬと言われる。そして、マクベスは森をじっと見続けるのだ。ちなみにマクベスを読んだことはない。昔、大学の英文学の授業で聞いた気がする。

⑨ 安瀬さんっぽいなと思った。死んでいるシーンの次には、日常がすかさずやってくる。この作品の喜劇的性格。死ぬことよりも、生活のほうが大事だ。
悲劇では肉体の死が、魂の永遠性と結びつくが、喜劇ではそうじゃない。喜劇が往々にしてグロテスクなのは、肉体の死が自分の死であるということからきている。

⑩ 演出の際、ここではもうミカ(?)は死んでいなければならない。というのも、ここで生きていると、いわゆる「不条理」になってしまう。
不条理と呼ばれる作品の多くがダメなのは、観客/読者にとって出口が見えているからだ。たとえば、このシーンで「私が死んでるの?こんなに動いてるのに?」というような発言は絶対にしてはいけない。観客は動いている人間を見ているのだから、観客からすれば「私が死んでるの?」に対する答えは、「あなたは生きている」一択だ。
にもかかわらず「あなたは死んでいます」と言うとき、その発話者は物語の中で権威を帯びていることになる。つまり、本当は生きているにも関わらず、その発話者が物語内での人間の生死を握っていることになる。
そんなことは許さん。

喜劇についての覚書

ここで、劇作をするうえでの倫理に関わる、ちょっとしたことを書いておこう。ただし、これは主宰であるぼく個人が考えていることであって、NO PROGRESS のメンバーの誰もがそう考えているということではないということを、はじめに書いておく。
僕は今回、喜劇を作りたいと思っている。いま社会では、かなしいことをかなしいこととして書いたり、訴えたりするひとや作品ばかりだ。率直なのだ。それは悪いことではない。でも、その作品に対して何かしら意見を言えば、激しい非難をされかねない。素朴すぎる社会観だろうか? でもたぶん、いまは社会全体が素朴すぎるのだ。

ところで喜劇とは、「笑える」ということだけではない。(ここから、わりと当たり前の話もするが、喜劇=コメディー=笑いと思ってるひともいるだろうし、ここに書くことは本作の倫理的な側面で大切なことなので、ぜひ読んでほしい)

喜劇はまず、グロテスクである。悲劇の英雄は、自分が死んだら英雄になることの運命を知って死んでいるように思える。つまりそれは語り草ということだ。肉体は死んでも言葉は残る。魂は残る。という考えだ。それに対してグロテスクであるということは、死んだら死体になるということを受け入れるということだ。人間の身体は「私」の理性、精神を離れて、物理的なモノとしての側面がかいま見える。主人公が周りを見れば死体の山で、語ろうにもただの死体なのだから絶句するしかない。英雄などいない。

もともと「コメディー」の語源になった「コモイディア」は、儀式の際の、エラい奴への風刺の歌を意味する。風刺なのだから、エラい奴が死んで伝説になることなど望むわけがない。伝説とは魂の存在を信じることであり、身体が死んでも魂が残り続けるということである。そしてグロテスクであるということは、それを否定することだ。モノとしての、死体としての身体の強調だ。ただ死ね!ただ死ぬということを生きろ!

二つ目。一方で死体としての身体が強調されつつも、じゃあこの、生きて考える自分はなんなんだということになる。いまさっき魂の否定と言ったが、死体を見たとき、自分もいつかはこうなるんだという恐怖が湧き上がるとともに、故人と自分との思い出がよみがえり、ひとは死体をいたわることを知る。こんなにも思い出があるのに、この、すでに石ころや雨や風と変わりないこの、これとはなんなのか。なによりも、そんなふうに考え、涙を流す自分はなんだ!というわけだ。
ここに、〈考えない世界〉と〈考える「私」〉とのギャップがあることになる。つまり、「私」が考え、よい方向になるようにと思っての行動が、〈考えない世界〉においてはまったく予想だにしない結果を招いてしまう。これは笑いの原理ともなる(たとえば、町田康の長編『告白』のことなどを思い出してほしい)。このギャップは〈考える「私」〉にとってはかなしい出来事だが、ハタから見れば面白い。このとき、読者/観客は、世界の側につくことになる。

三つ目。喜劇は、人間はみな世界にとって ”場違い” であることを教えてくれる。〈考えない世界〉とのあいだの深い溝は、私が世界にいる居場所をなくす。世界は「あなたはここにいていいんだよ」とは絶対に言わない。熾烈な暴力が、世界の側から降り注ぐ。世界は、「私」の傷口をいじくり倒してくる。深い傷になる。しかしそれだけでは終わらない。「私」は生きていて、生きている以上は毅然とした態度で立ち向かう。
そのとき、「私」は、決して権利が欲しいとも、権力が欲しいとも言わない。お前等と一緒になってたまるか。もはや誰も自分の権利を保障してくれない場所で、世界に立ち向かう時、「私」は初めて、自分で自分の生きる権利を勝ち取るのだ。
虐げられた者は虐げられたままである。風刺をされても、エラい奴はエラいままだ。しかしお互いが笑い者になる。そこでは世界と「私」とのギャップだけが問題であり、男とか女とかどこの国の人間だとか、関係ない。法や社会とはまた別の領域で、完全な平等を達成する。
笑われることこそが、救いになる。

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