デカルト読書会用レジュメ
【参照/引用文献表】
MP:ルネ・デカルト『省察』山田弘明[訳],ちくま学芸文庫,2007
DT:小泉義之『デカルト哲学』,講談社学術文庫,2014
LN:小泉義之『レヴィナス──何のために生きるのか』,NHK出版,2005
DS:ドゥニ・カンブジュネル『デカルトはそんなこと言ってない』,晶文社,2019
□身体の糧、精神の糧──No Music, No Life.
食べたり、飲んだりしなければ、人間は生きてはいけない。その意味で食べ物や水は「すべての人間に必要な共通善である」(DT:p.168)。それらは身体の糧であるわけだが、人間とって共通善であるはずの食べ物や水に「〈値段〉があることに繰り返し驚くべきである」(DT:p.29)私たちが「自己を何か他のものの部分と見なすなら」私たちは「そのものに共通な善に与る」(DT:p.173)。つまり食べ物や水を分かち合うことは共通善である。食べ物や水を稀少財と見なすことは間違っている。
食べ物が絶対的に不足する状況を造り出しているものは、明らかに、都市を中心とする世界市場である。穏和な稀少性という状況を自分だけに確保して、正義に適った取引を実行している世界市場こそが、その外部から食べ物を簒奪して、その外部に暴力的に絶対的貧困を作り出している。(DT:p.176)
ところで、私たちは身体の糧から立ち上がる絆を甘く見てはならないが、人間は身体の糧だけでは生きていけない。精神の糧も必要である。
No Music, No Life.という標語の意味は、パンを食べるのとは違う仕方で、それより高尚な仕方で、音楽を享受しなければ生きていられないということではなく、パンを食べるのと同じ仕方で、音楽を享受しなければ生きていられないということである(LN:p.21)
従って、ともに共通善である身体の糧と精神の糧のあいだに優劣はないし、人間がそれらを享受する仕方のあいだにも何の優劣もない。
実は、デカルト哲学においては、共通善は最高善から導かれ、最高善は神から導かれるのであるが、デカルトは『哲学原理』において次のように書いている。
人間の主要な部分は精神であって、人間の知恵の探究にこそ配慮しなければならない。そしてこの知恵が、精神の真実の食べ物であり[…]最高善である(『哲学原理』序文)
以下、身体の糧と精神の糧についての知恵を求めて、倫理の書として『省察』を読んでいく。
■『省察』を読む
掘り崩すべき原理
「第一省察」は次のように書きだされている。
すでに数年前に私はこう気づいていた。子供のころから私は、いかに多くの偽なるものを真なるものと認めてきたことか。そして、その後その上に築いてきたものが、どれもこれもいかに疑わしいか。それゆえ、私がもし学問においていつか確固として持続するものをうち立てようと思うなら、一生に一度はすべてを根底からくつがえし、最初の基礎から新たに始めなければならない、と(MP:p.34)
だから、
いまこそ真剣にかつ遠慮なく、私の意見の全面的取り壊しに専念することにしよう(MP:p.35)
だが、デカルトも言うように「それらの意見を一つ一つ通覧する」ことは「果てしない仕事」であり、不可能である。だから、
[それらの意見の]基礎を掘り下げればその上に建っているものは、すべてひとりでに崩壊するので、私がかつて信じていたすべてのものを支えていた原理そのものに、ただちに着手することにしよう(MP:p.35)
では、「すべてのものを支えていた原理そのもの」とは何か。一切の思想、一切の信念を支えている原理は様々に解釈することができるが、ここでは小泉義之に倣って、「〈私はまともである、私は狂っていない、私は目覚めている〉という自己確信が、一切の思想の原理となっていると解する」(DT:p.62)
この原理を掘り崩す方法が懐疑なのである。
■懐疑
感覚の懐疑?
デカルトは感覚について次のように書く。
ところで、私がこれまでこの上なく真であると認めてきたものすべてを、私は感覚から、あるいは感覚を通して受け取ったのである。しかし感覚が時として欺くことがあるのを私は知っていたので、われわれを一度たりとも欺いたことがあるものには、けっして全面的な信頼を寄せないのが賢明というものである(MP:p.35)
これを読んで、「感覚は欺く」だから「感覚は信頼できない」従って「感覚から受け取るものは真ではない」とデカルトが主張していると誤読する人がいる。だが、丁寧に読めば分かるように、デカルトはそのような主張はしていない。「感覚が時として欺くことがある」こと、例えば、見間違い、聞き違い、錯覚などの場合は、感覚が常に欺くことを意味しない。また、「感覚が時として欺く」からといって、感覚を全く信頼できないことにはならない。
我々は、微細な物や遠くの物については、間違いがありうることを充分に弁えている。そのような非標準的な物において間違うような感覚こそが正常だからである[…]つまり、時折欺くということは、感覚の標準的な正常性の本質的要件をなしているのであり、だからこそ我々は、時折欺く感覚への信頼を失うことはないのである。(DT:p.64)
実際、先の引用に続けて、デカルトはこう書いている。
だが、小さなものや、かなり遠いものに関して、たしかに感覚は時としてわれわれを欺くことがおそらくあるにせよ、しかし感覚から汲まれるものであっても、まったく疑うことができないものが他にも多くある。たとえば、いま私がここにいること、暖炉のそばに座っていること、冬着を身につけていること、この紙を手で触れていることなどがそれである(MP:p.36)
感覚の懐疑を通して明らかになったのは、むしろ私たちの感覚の正常性である。それにしても、「いま私がここにいること」「暖炉のそばに座っていること」「冬着を身につけていること」「この紙に手で触れていること」などは疑いうるのだろうか。