無駄な死など、どこにもない

山内志朗先生が書いた『無駄な死など、どこにもない──パンデミックと向きあう哲学』(ぷねうま舎)という「小さな本」を、手に入れてぱらぱらと繙いている。タイトルがすべてを語っているとも言えるし、今の段階でちゃんとした書評を書く余裕も能力もない。

「死んだら終わり」と親しい人たちが口にするのを聞いたことが何度かあるし、哲学者が著書においてそのような価値観を繰り返すのを読んだこともある。特に強く反論する気もないし、それはそれでシンプルな気もする。ただ、私自身は「死んだら終わり」とは思っていない。「死んだら終わり」と言うとき、そもそも「終わり」とはどういう意味なのか。ここでは深追いしないが、とにかく「死んだら終わり」という言葉には抵抗があるのだけど、何に抵抗を感じるのかということになると、それを言語化するのは極めて困難だ。山内先生のこの「小さな本」は、コロナ禍を前提として書かれているけれど、私にはむしろ「死んだら終わり」という価値観に抵抗する糸口を与えてくれる「小さな祈り」のように思えた。

その祈りは、次のような問いをもって始まる。

《祈りとは何か。われわれも、生という苦しみの上に築かれた世界を呪いとしてではなく受け止め、苦しみもまた未来への祈りだと捉えるとしたら、世界はどう見えてくるのだろうか。》(p.31)

そして、終章において次のように断言される。

《新型コロナウィルスに侵された肺炎によって、呼吸もままならぬまま亡くなった人々の断末魔の苦しみを思いながら、生まれいでることも死んでいくことも苦しみを免れないとしても、それは無駄に経験されるのではない、ということを強調したい。このことは経験して伝えられることではない。だが心の中で祈りたいのだ。苦しみは無駄に経験されるものではない。》(p.152)

「死んだら終わり」と親しい人たちが口にするのを聞いたことが何度かあるし、哲学者が著書においてそのような信念(?)を繰り返すのを読んだこともある。特に強く反論する気もないし、それはそれでシンプルな気もする。ただ、私自身は「死んだら終わり」とは思っていない。

生老病死のあらゆる局面において祈るように生きる。

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