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2018.11.18〜20日記「ゾンビが歌う光景を見ながら失神する(ゾンビランドサガ 7話感想)」

○18日

朝:なし

昼:なし

夜:ラーメン

○19日

朝:朝バナナ

昼:サラダとサラダチキン

夜:サラダとローストチキンハンバーグ

○20日

朝:朝バナナ

昼:サラダとタンスティック

夜:肉野菜炒め定食

初の三日分の日記。別に毎日更新を強制されている訳でも無いのだが、なんとなく後ろめたい気持ちになる。この間何をやっていたかというと、Prime Videoで内村さまぁ〜ずを観たりゾンビランドサガの7話を観ながら失神していた。あとビットコインが暴落したのでついでに失神していた。サトシナカモトたしゅけてくれぇ。

ゾンビランドサガ、あまりにも良すぎる。いや"佳"すぎる。1〜6話も面白かったのだが、7話の出来が完璧すぎて「嘘だろ……!?こんなに最高のアニメがあるのか!??」と思いながら何度も見返していた。

とても素晴らしくただ"佳い"を連呼していたい気分なのだが、一応軽く感じたことを言語化してみようと思う。

あらすじは皆知っているだろうから簡単に。「生前は色々な経歴を持った人達(花魁、平成・昭和のアイドル、天才子役、ヤンキーなど)がゾンビとして蘇り佐賀のご当地アイドルとして活動していく」というのが大筋。

「何だこの作品。すごいイロモノだなぁ」と思い観始めたんだけどめちゃくちゃ面白くてびっくりした。いわゆる組み合わせの足し算で作られた作品(ゾンビもの+アイドルもの)だけど、そもそもこの組み合わせを真面目に描いた作品があまり記憶に無く、その地点で発想の勝利感がある。

加えて新規性のある作品はエンターテイメント性を犠牲にした一発ネタで終わることも少なくないのだけど(なぜなら新規性のある作品は前例が少なく"面白い流れ"が検討され尽くしていないことが多いため)ゾンビランドサガは"ゾンビもの"と"アイドルもの"という一見反発しそうな要素をギャグテイストという緩衝剤によって綺麗に調和させているのが上手い。

そんな感じで既にコンセプト勝ちしちゃっている作品でもあるんだけど、7話はそういった表面上の要素だけでなく物語として圧倒的に面白かった。

7話までのあらすじとして、昭和のアイドルの純子(右上)と、平成のアイドル愛(純子の左)がアイドルのあり方で対立して、険悪になっちゃうのだ。私は幸せな物語が極度に好きなので「うぐー、皆仲良くしてよぉ」と願いながら観ちゃってた。

昭和のアイドルである純子は「ファンとアイドルの間には線引きが必要で、その線引きがあるからアイドルは強く自立し、その姿こそがファンに希望を与えられる」といったスタンスで、愛は「アイドルが見せる精一杯の成長過程すらもファンからしたら大切なコンテンツなのである」というスタンス。真摯にファンと向き合うという姿勢は同じでもやはり対立している。

どっちも別に間違っていないのだけど、現在主流である愛の考え方に対して純子のスタンスは完成品にこそ価値を持つといういわゆる職人気質な考えに近い。恐らく純子は握手会に参加しないし、ブログやSNSは絶対にやらないのだろう。はっきり言っちゃうと時代遅れのストロングスタイルだ。そんな訳で前話では愛から「ちゃんとやれ!」と言われてしまう。現代の価値観への迎合を求められてしまい、そこから対立が始まってしまったのだ。

実際、生きていたら現代の価値観に染まらざるを得ない状況なんていくらでもある。参加したくも無い学校行事に参加する、やりたくもない飲み会の幹事をやる、周囲の雰囲気に流されてサービス残業をする、売れ線だからという理由で作品の方向性を変える。

私達の周りにある小さな迎合の経験から「ああ、やっぱり純子も折れちゃうのかな」と予想するのだけど、今回その解決方法はそういった現代の価値観への迎合ではなかったのだ。

「昭和のアイドルの矜恃を自身のキャラクターとして堂々と公言すればいい」と作中のプロデューサーが純子にアドバイスするのだ。多様性の許容である。最高だ。現実が世知辛いからこそ、純子のストロングスタイルを多様性として許容するのは胸を打つ。

もちろん現代の価値観への迎合が悪いという訳では無い。結局のところ現代の価値観を受け入れた人達でこの世界は構成されている訳で、彼ら彼女らがいないと世界は成り立たない。それに迎合した先でもそれはそれで楽しいと思える日常もある。それはきっと皆だって知っているはずだ。

それでもなお、私達の周りに広がっている"普通"とは異なる世界に、私は憧憬にも似たきらきらした感情を覚えてしまった。なんて暖かな世界なんだ、と。こんな世界に行きたいと。もう会社に行きたくないと。会社の嫌な上司に怒られるのはもう嫌だと。誰か助けてくれと。お母さん……。

図:車に轢かれた直後の可愛い純子 Ⓒゾンビランドサガ製作委員会

更に私がもう感動して恐らく30回くらい見返したのが最後5分くらいのライブシーンである。これはもう最高過ぎて「観てくれ」としか言えないのだが、この数分間のライブに尋常じゃないほどの私が大好きが詰まっている。

その中でもマジで最高なのが「このライブを通して主人公達のアイドルグループが他者から承認されていく」という流れが完璧に描かれている点である。私はもう他者が他者から承認されていく光景がべらぼうに好きなのだ。最近ので言えば12巻くらいからのわたモテとか。ちょっと古いので言えばヒカルの碁での洪秀英(ホンスヨン)戦とか。兎にも角にも誰かが誰かから認められているシーンを観ると「良かったね、本当に良かった……」となってしまう。

最後のライブシーン、開始直後トラウマからミスを重ねてしまう愛。この辺りは共感性羞恥から観るのが辛いくらいである。観客も「見てるこっちがきつい」と漏らす始末である。

そしてボロボロになった愛はうずくまってしまうのだが、それを純子は歌声でフォローする。ちなみにこの辺りで既に私は泣き始めている。ちなみにこの文章を書きながらも多少泣いている節がある。

純子のフォローもあって愛も立ち直り、1曲目が無事に終わる。

図:歌う純子 Ⓒゾンビランドサガ製作委員会

そして2曲目の前に、アクシデントとして雷がステージに落ちるのだ。が、ゾンビなので皆無事で、落雷の影響から体がキラキラ光り出す。観客の人も最初は心配そうにしていたり、スタッフも慌てていたりと、異様な雰囲気のなか特殊エンディングとして皆の持ち曲である「目覚めRETURNER」が始まる。

Ⓒゾンビランドサガ製作委員会

最初は唖然としているのだが、帯電しているせいか歌がテクノボイスのようになっていたり、放電現象がレーザー光のような演出となって客席がめちゃくちゃ盛り上がり始めるのだ。

図:放電の演出 Ⓒゾンビランドサガ製作委員会

もう最高である。落雷に唖然としていた観客も、主人公達のライブに夢中になってサイリウムを振り出すのだ。この他者から完全に承認された皆をみて、私は「良かった、本当に良かった……」と言いながら当たり前のように号泣する。ふぐぅ、最高。ハイパーグレート最高……。

図:"最高"な愛ちゃん Ⓒゾンビランドサガ製作委員会

そんでもってライブの最後に愛ちゃんが見せるこの笑顔である。トラウマや重圧で押しつぶされそうになっていた少女が仲間と共にそれを克服し、最後の最後に本当に幸せそうな笑顔を見せる。

大号泣である。最高以外の言葉が出てこねぇ。最高過ぎて私はこの辺りで失神するのであった。

図:ライブを観た私 Ⓒゾンビランドサガ製作委員会

どうにかこうにか言語化をしたものの、もうこのゾンビランドサガ7話に関しては実際に観て貰う方が"佳さ"が伝わる気がする。皆も観よう、ゾンビランドサガ!最高だぞ!!!

あまりにも最高過ぎてこれからまた7話を見返したくなったのでここら辺で感想を終えようと思います。それではさようなら。

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