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もっともっと強くあるために忘れたくないこと

僕は普段から柔和な姿勢を大切にしているけれど、その内側には『強さへの意志』が明確にあると感じている。

一方で、「正しさ」を求め争うことや、「優劣」を決めるために競うことへは、いっさい興味がない。

強さや弱さと向き合って、逃げずに立ち向かい、戦っていたい。

上に立つことがあったり、下で仕えることがあってもいい。その立場に囚われることなく、ただただ強くなりたい。

『戦う』というと暴力的なイメージが浮かんでくることもあるけれど、僕が思い描いている『戦う』とは、「立ち向かう」「向き合う」「挑む」ということだ。

自分より強い立場にいる人を相手に、はたまた自分自身の弱さを相手に、戦っていたい。

もっともっと強くなるためには、弱さを受け入れるフェーズが必要で、僕自身、今まで幾度となく向き合ってきたように思う。

その度、「独りだけで強くなるよりも、周りを頼った方が強くなるんだよな」ということを学んでいるはず。

だけれど、それを忘れて独りになろうとしてしまうことも、まだあるんよな。

だからこそ、一緒に喜び合える仲間や相棒が必要だし、自分だけではできそうもないことへ挑戦することが大事なんだなと、改めて感じるようになった。

「上に立つため」に強くなるのではなく、弱い立場に置かれている人を守れるように、強くなりたいんだ。

他者を頼り、相手の強さを引き立てられるように、自分の弱さをさらけ出したいんだ。

ただし、同じ『戦い』であっても、そこに『争い』が加わると、事情が変わってくるから気をつけたい。

例えば『戦争』がよろしくないのは、その目的が「強いやつが正しい」になるからだと僕は思っている。

純粋な『戦い』の目的は「誰が強いかを決めること」にあるけれど、その戦いに負けて「弱い立場」に置かれた人の存在が、否定されるわけでは決してない。

タイマンを張り合ったヤンキーは、勝負がついたらお互いを認めあって仲良くなる。

まさにあの感じだ。

そこに「正しさ」は関係なくて、戦ってどっちが強いかが決まれば、「お前も手強かったよ」と、戦う前よりむしろ仲が深まっていることも多い。

例えば子ども同士の兄弟ケンカを見ていると、互いに戦っていたとしても、勝負がつけば、仲直りしているんよね。

逆に、その子ども同士のケンカに親が介入して「あんたは間違ってる」という「正しさ」の尺度を入れてしまうと、子どもたちは「親から評価されること」を求めて、戦いに加えて、争い出す。

そうなると仲がこじれて、関係を修復することはどんどん難しくなってくる。

戦い合っている本人同士で解決すべき課題であっても、「周りに決めてもらうこと」しかできなくなり、目の前に置かれた壁と向き合って課題を解決する力が養われないこともあるかもしれない。

このように、ケンカしている相手と向き合わず、周りから「あなたは正しい」と承認されることにすがってしまうと、ずっとずっと他人軸で生きなければならなくなるから、『戦うこと』から逃げない方がいい(いつかは向き合うことになるから)と、僕は思うんだ。

コチラと向き合う気がなく、ただただ陰湿なハラスメントをかましてくる人からは、逃げるのが大切だけどね。

ウチの父と叔父さん(父の弟)が、子どもの頃からまさにこの状態で、おっさんになってもずーっと、兄弟喧嘩を続けているんよ。

その問題の根っこは、父が祖母から「お前は間違ってる」と言われ続けていることにある。ケンカに「争い」を持ち込むと、ロクなことにならないよなと。

「戦い」に「争い」が加わると、強さという正義が暴走して、「弱いやつは存在してはいけない(正しくない)」と、排除する動きが起こってしまうんだ。

だからこそ、戦争はなるべく減らしたいよね。

ムカつくことをしてきた相手と向き合って「戦うこと」も必要だし、もしも車で追突事故を起こされてしまったら、どっちが正しい交通ルールを守っていたか?を「争うこと」も必要。

けれど、戦いに勝った自分は正しいんだとか、争いに勝った自分は強いんだとか、そこは履き違えたくない。

「傷ついた分だけ人は強くなれる」というけれど、戦いもせず、向き合おうともせず、傷がつくことなんて滅多にない。

わざわざ傷つくような選択をするのは違うけれど、勇敢に戦おうとすれば、気がついたら傷はついてしまうだろう。

僕らはそこで初めて、痛みを知り、故意に他者を傷つけてはいけないということを学ぶ。

だからこそ、「勇敢に戦おうとしている人」や「何かに挑戦しようとしている人」のことを笑ってしまう人は、弱いままだ。

その戦いの末についた傷には、いつか誰かの痛みを癒す可能性があって、その対象はこれからの自分になるかもしれないのに。

何かと戦っている人は、自分の弱さと向き合って、今より少しでも強くなろうとしているはず。

自分自身の「恐れ」と戦っているのかもしれないし、「世間の常識」や「他者との差違」と戦っているのかもしれない。

それは人によって様々だけれど、戦っている人や、戦おうと前を向いている人は、弱さを認めていてとてもカッコいいと思う。

人は「強者と弱者」で簡単に分けられるものでもなく、ホーム&アウェイのように、強さを発揮できる時もあれば、弱さが露呈する時もある。

そうして弱い立場に置かれてしまった人を、僕は守りたい。

守れるように、もっと強くありたいとそう思う。

・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
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