「特別だ」という存在証明が欲しかった
【アートに触れて感傷的になったので、過去の痛みと向き合ってみる】
1歳の頃、熱湯を浴びて死にかけた。
小さかったから、痛かった記憶もない。
火傷自体に、痛みもない。
生きててよかった。
ただ、傷跡は一生残る。
周りからの視線に怯え、心は痛かった。
10代〜20代半ばまで、ずっと悩んでいた。
…その頃、自分のことを『特別』だと思わずにいられなかった。
裸になれば、周りと明らかに見た目が違ったから。
そう思っていないと、自分という存在を保てなかった。
「普通に生きてほしい」と親は願ったけれど、「普通は火傷の傷跡なんてねぇだろ」と、心の中で何度も叫んだ。
親を責める気なんて、まるでない。
ましてや、自分が悪いわけでもない。
この叫びを、痛みを、どこにぶつけたらいいか分からなかった。
…そして、「やっぱり自分は"普通"なんだ」と気づき、絶望した。
「あなたは特別ですよ」と、普通と特別を分け隔てないと、平和に生きることを許さない社会の冷たさに震えた。
だったら、あえて特別扱いされることで、痛みから逃れようともした。
でも、何の解決にもなりゃしない。
弱いままであろうとする自分に、ほとほと嫌気が差した。
…この頃、姉の子どもたち(姪っ子)と触れ合い、強くなる覚悟を決めた。
家族とも、たくさん向き合った。
・・・そして今では、僕を僕として見ようとしてくれる人がいる。
僕が僕らしく、あなたがあなたらしく、関係性を結ぼうとしてくれる人がいる。
普通かどうか。
特別かどうか。
実はそんなの、どうでもよかった。
自分が自分で在りたかっただけ。
存在証明が、欲しかっただけ。
「普通という証明」
「特別という証明」
…今は、どちらも必要ない。
『あなたがいる』
これが、自分の存在証明だと、心から思えるから。
心底、そう想い合える他者がいれば、それでいい。
…ホントに、生きててよかった。
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