マルコンセント

深い木々に覆われ、辺り一面に薄く水が張り、朽ち伏した大木の上にその男はいた。私は自分自身の向かう先を彼に尋ねることにし、大木へと歩み寄った。「お前さんは西か?東か?どっちだ?もっとも、俺には関係ないが…どっちだい?」男の質問に対してどう答えていいのか分からず、とっさに「私はどちらへ迎えばいいのでしょうか」と尋ねた。男は言った。「俺が聞きたいのは西か東かだけだ。お前さんがどんな人でどこへ向かうかなんて興味ないね、どっちだい。友よ…あぁ、お前さん。忘れちまったのか、ならしょうがない。西へ行くといい、もっとも既に溢れ始めてしまっているからね。急がないと。この大木の根本へ進めば西だ、根本へいけばバスが止まってるはずさ。そいつに乗れば帰れるよ。」
私は朽ちた大木の根元へと向かった。遥か後ろで男の声が聞こえた。
「もったいない」

バス停が見えて来た。バスも既に来ている様だ。
運転手がバスの前で私に向かい手を振っていた。
「お待ちしておりました。どうぞお乗りください。」そう言い残し、運転手はバスへと乗り込み、私はそれに続いた。バスに乗ると数人の乗客が私を見るやいなや迎え入れるかの様に拍手をした。運転手に案内された席へ座るとバスは進み始めた。

 街の広場へ着くと、運転手は私に「忘れ物です。」と鍵を渡してきたが、私には心あたりがなく、「私のものではありません。きっと他の乗客のものでしょう。」と告げると、「いいえ、あなたのものです。以前あなたが忘れていったものです。今度こそあなたへと帰すことができた。どうぞお受け取りください。」そう言い残すと運転手はバスに乗り走り去っていった。
 乗客の一人が私の手を取り、軽く会釈をし、私を導き始めた。どこへ向かうのかと尋ねると「あなたはわかっているはず、あなた自身が残した鍵がその全てです。残念ではありますがあなたの選択には間違いがないことを私は望みます。私にできることはあなたをあの門の前まで送り届けることしかできません。あとはあなたが決めることです。どうかご理解ください。」引き続き彼は私の手を取り歩き始めた。

 街からほんの少し離れた丘の頂上にその門はあった。丘の上からは絶え間なく水が流れて来ており先ほど私たちがいた広場同様にくるぶしがつかるほど水が鏡の様に張っていた。しかし、足元を濡らす事はなく、水本来が持つ習性もない。私は手を引かれるまま頂上を目指した。ふと振り返ると広場が見えた。バスから降りた乗客たちは未だこちらを見つめ歓喜の声を翻していた。彼らだけでなく、町中の窓から人々が身を乗り出し、皆一様にこちらを見つめていた。私は手を引く男に尋ねた。「私は彼らのことを知らないし、この街の事も知らない。私がバスの運転手から受け取った鍵の事も身に覚えのない事だし、あなたの事も知らない。大木の上に住む彼のことも。そんな私に一体何を期待し望むのか。私には理解ができない。」手を引く男が言った。「構いません」と。

 門の前に着く頃には水かさは既に膝の丈ほどまでになっていた。門の近くで数人の男たちが一艘の小舟を取り囲んでいた。男たちは私の姿を見るやいなや膝をつき、肩を抱き、涙を流し歓喜した。そのうちの一人が私の手を取り「何年もの間俺たちはこの時を待ってたんだ。俺の親父もそのまた親父も俺たちは何代にも渡りこの舟を守って来た。そして俺たちの代で今日を迎えることが出来た事を誇りに思うよ。さぁ早く、門を開けてくれ。」小さく震える男に促されるまま、私は門へと歩き出した。

門の隙間からは絶え間なく水が溢れ出していた。揺れる南京錠が目に入る。手に取り鍵を開けた、すると門はゆっくりと開き水は勢いを増しこちら側へ流れ込んできた。それと同時に強い日差しが私の瞳を刺した。門の向こうには沈む夕日によって赤々と燃え上がる海が広がっていた。ふと振り向くと流れて混んできた水が私の体を包み込みながら街全体を焼き尽くした。「どうぞ、お乗りください。」男たちが私を小舟へと押し上げた。すでに丘の上の水位は胸元ほどまでに達し、丘の上さえも焼き尽くそうとしていた。「船出の時です。この望まぬ牢を今去る時、あの門をくぐればあなた自身が目を覚ます事でしょう。さぁまもなくです。ありがとう。さようなら。」手を引く男はそう言い残すと深々とこうべを垂れそのまま消えた。すでに丘は無く、舟は門へと進み出した。

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