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タイムリープ このままどこか遠くへ

この記事は小説家になろうさんにも掲載しています。

 書きかけの小説原稿はそのままに。
 壊れたヘッドフォンは風のようなノイズを放つ。

 瞳を閉じた。

 消毒液の臭いがする部屋は。
 なめくじが這い、便所コオロギが飛ぶ長屋になる。

 物知りの御隠居が火鉢で餅を焼き、せっかちな八っつあんが駆け巡り、酒を抱えて熊五郎。
 そこは江戸の町になる。粋でいなせな奴らが集う貧乏長屋は笑いが絶えないステキなところ。

 さてさて今日のお噺は。

 ……。
  ……。

「マジで兄ちゃんの噺ってつまんねえな」

 前座にもなれない理由がわかるわ。
 少年が悪態をついてニヤリと笑う。

「もう、俺のほうが覚えたからな。寿限無寿限無……」

 寿限無を諳んじる少年に苦笑いする青年。

 ふと頭の禿げあがった少年の表情が変わる。

 少年の視線の先、釣られた青年は『見た』。

 温かい肌の頼りなさ。縮れた襤褸に包まれて笑う赤子とそれをおそるおそる抱こうとして少女のような妻に叱られるちょっと粗忽そうな少年を。

 子供の名前はなんにしよう。
 大好きなあなたの名前をつけましょう。
 いやいや、おめえの名前に決まっている。

 冬のあかぎれより暖かく、女の頬は真っ赤だ。

 ナニ言っているんだアンタ。子供にオハナは無いよ。
 赤いのはアンタの泣き鼻で充分。子供が出来て喜びすぎて鼻を擦りすぎちゃってさ。

 いやいや、この熊五郎は餓鬼が出来たくらいで泣きゃしねえ。酒代が減るからちょいと泣いていたのさ。

 そういって女房が目を向けた先は空の酒瓶。
 干からびた瓶には便所コオロギが這っている。

 ピッ。

 少年は扇子の代わりにボールペンを指先で回すと青年の顎をさす。

「巧いだろ」

 悔しいがうまい。
 そして気づいたら笑っていた。

 青年は古今常残留(ここんとこざんりゅう)という。
本名は嘉村内藤(かむらないとう)。

「さんざんゆう爺さんなんかみろよ。落語なんて聞いたことないガキどもがこぞって真似しているぜ。被らない君とはえらい違いだぞ」
「師匠は……人間国宝だし」

 項垂れるかぶらない君こと残留。
 師匠の散々遊は人間国宝。

 真面目で物覚えは良いのに何故かちっともハナシが面白くない彼を師匠は『肩をもむのが巧いから弟子にした』と述べている。『お前人を笑わせる気ないだろ』と稽古のたびに呆れられる残留は修業と称して時々師匠の慰問に同行する。

 草履で走れば滑りそうな床。
 消毒液の臭い。
 鼻から入り込む流動食。
 機械の音が絶え間なく、目に映るのは白い壁。

「慰問が必要な落語家なんていないぞ」

 少年が呆れるのは致し方ない。

 子供たちを笑わせるぞと意気こんできたのに現実は師匠の芸の真似をする子供に負けているのだから腹を立てることすら真面目な彼にはできやしない。
 あの掛け合いの下りは師匠のハナシではないのでこの少年の即興であろう。

「そんなにつまらないかな。僕のハナシ」
「めっちゃつまんねえ。才能ゼロ。本気であきらめろ」

 縦じまのパジャマを翻して少年が告げる。
 まるで医者の宣告のようだが少年自身は歳上の青年に対して手加減しているつもりだ。

「だいたい、笑わせようっていうのがスッケスケでクッソ萎えるわ。お前師匠にも言われているだろ」

 傲慢であけっぴろげで明るい師匠が『俺の教え方が不味いのかな』と微妙に気にしている案件である。

 師匠は弟子を取らない主義だった。人間国宝なのに弟子もいないのかと方々で言われた結果、たまたまその場にいたお駄賃目当てで肩を叩いてきた子をその場で『こいつが今日から弟子』と言い出したことで彼の運命が決まったのである。

 以降、大好きな親戚のおじさんは厳しい師匠となった。両親の愛情も受け、大学を卒業し、将来を有望視されていた学生は現在鞄持ちである。

「大学で量子テレポーテーションをやっていたほうが絶対マシだったね」

 そういって微笑む少女には髪がなく、代わりにニットの帽子を被っている。

「マジで立っているだけでしんどい痛い辛いのにこの上、兄ちゃんのつまんねえ落語とかジャイアンリサイタルかよ。おれたちゃ逃げ場なんてこの病院にねえんだぞ。俺が大人に『なれたら』院長を締めあげてやる」

 少年はそうぼやくが早いかボクシングの真似をするが、松葉づえが揺らいで危うく転びそうになる。

 軽い。

 自分で立てるといって自室に戻る少年を見送りながら残留は掌に残った軽すぎる感触をたしかめていた。

「なんでえ。チンキくせえつらしやがって」
「それをいうなら辛気臭いでしょ。師匠」

 頬を手のひらで叩く代わりに言葉が彼の耳を叩く。
 口は悪いが心は篤い。彼の師匠は。

 何故か点滴つけた少女が袖に張り付いていたり、松葉杖の少年が剥げた頭を木魚のようにコツコツやっている。人間国宝にナニをする。

 まぁ言うほど痛くねえしとカカカと笑う師匠だが、御年90歳が近づいているので自重してほしい。

「おっちゃんまたね!」
「じじいしぬなよ!」

「もう既にくたばって今転生して帰ってきたわ! なかなかいいところだったぞ」
「そうべいさんのハナシまた聞かせてね!」
「ばいばーい!」

 すごい勢いで腕を振る子供たちに目を細める師匠。その小さな背中に憧憬と軽い嫉妬を込めて彼は視線を空にやった。

 地獄があるならたぶんこの世だろう。
 大人になれない男がここにいる。
 大人になる前に死ぬ子たちがここにいる。

 後者はさておき、前者は自身の問題だ。
 彼は重い足取りを引き摺りながら師匠の鞄を握って進む。師匠は『なんでえ。てめえのほうが病人じゃねえかしっかりしろ。おれの背スジをよく見ろ。いまだ看護婦さんにモテモテだぞ。今は看護師で男だけどな』とちょいちょいいじってくる。

「師匠。俺のハナシ、つまんないっすか」
「めっちゃつまんねえ。教科書通りなのにな」

 この師匠はうそをつかない人なので時々騒ぎを起こすが、芸には真摯である。だからこそ彼は自分の無才を呪っているのだが。

「お疲れ様でした」
「ああ、おれは子供に戻れてよかったが、こっちの若造がかわりに九十のじじいになっていけねえ。90人もいたらこの病院だってパンクしちまう」

 喋るのもほどほどにお菓子を口に運ぶ師匠。病院の先生から渡された茶を手に『まぁ俺も近々世話になるだろうし、先生の言うことは聞かないとな』と抜かす彼だが、ここは小児科なので破天荒老人は別の科であることはあえて述べるまでもない。

「美玖ちゃんがわらってくれない」

 練習したネタが今日も受けなかった。

「つまんねえからな」

 何度も繰り返したやりとりに師匠自身も呆れているだろう。

「お前、笑いを舐めているだろ。誰でも笑ってくれる落語とか考えてねえか。とどのつまり人間はただのけだものよ。弱いものを虐めて笑い、強いものをあげつらってまた笑う。ロクでもねえもんなのさ」

 そういって何処からか取り出した酒を煽る師匠。
 ハンドルを動かす彼。
 ワイパーが雨を左右に振り分けていく。

 あの親戚の子は今日も笑ってくれない。
 少年曰く、身内にしか笑わないらしい。

「まぁ。お前ほど熱心で三味線からなんから上手な弟子はまずいないからそこは俺も保証する。でもおまえ巧いけどまったく面白くねえんだよなあ……」

 そうなのだ。どんな芸事習い事も達者な彼だがこれがビックリするほどつまらないと言われる。三味線も『上手に使う』がそれだけだ。

「おま、『時そば』啜ってみろ……うん。巧いじゃないか……で、ここまでつまらないってスゲエぞ。お前が今日から人間国宝だわ。推挙してやる」

 バックミラーの師匠はそういってカカカと笑っている。『じじいへ』と書かれた手紙は美玖のものだ。
 師匠は妙に子供にモテる。

 あの親戚の子は遠縁で、厳密には一族ではない。関わるのは今では自分と師匠だけなので彼は躍起になって少女を笑わせようとするが、笑ってくれたことは一度もない。師匠曰く『俺もねえよ』らしいが少なくとも懐いているようだ。

 いや、でもきっとマシだ。
 他の大人には微笑んでもくれない。

「兄ちゃんの落語はゾンビになれるほどつまらない」

 美玖の言葉は辛らつだが嫌味は無い。
 悪気もないが逆に彼にはつらい。

「残留よぉ。てめえよりVRAV女優のほうがずっといい芸するぞ。ゾンビとは何かとか作り込んでくる」

 ハンドルが一瞬止まって煙草の臭いを吸い込む彼。

「師匠見ているのか。お盛んですね。あとAVでゾンビってなんですか」

「知らねえよ。とにかく良い芸する奴はどこの世にもいるってことよ。お前はなんでもできる優等生なのにどうにも真面目過ぎて人の機微ってのがわからねえんじゃねえか」
「よく言われますが、やっぱり人に素直に笑ってもらいたいじゃないですか」

 わかってねぇ……。

 師匠はまたがっくりとしてみせる。
 弟子がミラー越しに自分をみていると知っているので大袈裟な動きをする。

「おめ、おれのハナシを横でみてただろう。
 ウンコしたら俺にぶちまける、大人のスカートをまくる。大人が指摘したらゲタゲタ笑って言うことも聞きゃしねえ。そんな奴らが相手だぞ。そもそも人によって受け取り方なんて変わるわ。俺が国宝ならボクは神器だとか真面目に言うからな。それでいいのさ」

 あの少年は少々反抗が過ぎるが、何故か皆に愛されている。ずけずけという態度は怖さの裏返しだろう。

 少年は彼に言う。

『落語が死ぬほどつまらねえってだけで悩めるてめえのアタマのゆるさが心底恨めしいわ。俺』

 泣いても笑っても死ぬときは死ぬぞと少年。

「だったら、笑うだけ無駄でね」

「そうかな。みゆきちゃん」

 ぼうっと返答すると尻に激痛。
 少年、川島美幸が必殺の六本指カンチョーをお見舞いしたからだが。美幸は女扱いするとキレる。

「おま……ちょ」

「へへへ~~ん!」

 あっかんべーをする美幸に尻を抑えて苦笑する彼。
 なんだかんだいって二人は仲がいい方だ。

「そういえば、君の友達は」
「ヨシキ? よく来るぞ」

 そうじゃなくてと彼は聞く。

「いや、今日も『君とだけ』面会したの」
「おまえ、髪の毛も無い、骨と皮みたいになっているのに好きな男の子と顔を合わせたいと思うか」

 思い出の中だけは元気で可愛い姿だったまま消えたいって思わないかと美幸は言う。

「でも、美玖が好きになった子なのに、可愛そうで」
「当人たちの問題だろ。童貞のお前に関係ないぜ」

 余計なお世話である。
 とは言え齢一四歳にして余命一年あるかないかの美幸もまた似たようなものだ。

「俺童貞のまま死ぬけど、お前はオンナの股とか木の股とかコンニャクたまたまで良いから突き抜けてくれ」
「冗談になってないよ……」

 いくらつまらなくて、子供の落語のほうが面白いからってこんな慰め方されても嬉しくない。

 燕子花(カキツバタ)の花が揺れる。
 青い花を院内に持ち込めたのは昔話。
 今は感染を防ぐために花などは持ち込めない。
 来訪者の見舞いの品は持ち帰るよう指導される。

「ヨシキが持ってきたらしい」

 写真を見せる美幸に微笑む美玖。

「義樹だけどミキちゃんだよな。アイツ。花なんてさ」

 くせえくせえと鼻をつまんでおどける少年に笑って見せる美玖だが実は眉が寄っている。
 親戚の少女が内心キレているのを察した残留、慌てて止めに入ると素直に謝る美幸少年。

 もう少女は立ち上がる力も残っていない。
 義樹少年は毎日彼女を訪ねてくるが、彼女は理由をつけては面会を拒絶している。

「一度くらいはいいと思うけど」

 そう伝えたいが伝わらないもどかしさ。
 美幸はどこから仕入れてきたのかよくわからない面白い話や武勇伝を語って見せる。暇というより本質的に人が好いのだ。

「ね……ちょっと」

 少女が黙って目を閉じる。

「見えるの。荒野が」

 残留が少女のワイヤレスイヤフォンを外してみせる。白いシーツの端を少女が見える。

「風の音が聞こえるの」

 空想をすれば、この部屋は冒険が溢れる荒野になる。
 サイコロを振れば一喜一憂の大冒険になる。
 師匠と残留が持ち込んだゲームを彼女は語る。

「あのキャラクターシート、燃やしてほしいな」
「もったいねえ。あと1レベルでホーリーメテオだぞ」

 おまえ、しっかりしないとカンチョーだぞと言いかけて流石の美幸も自重した。意外とフェミストらしい。

「おまえ、そんなこと言ったら勝手に俺が使うぞ」

 力なく笑う彼女らに別れを告げ、残留は外に出る。

 大人になれない子供がいる。
 子供から大人になり損ねた大人がいる。
 世界は優しくないし、楽しくはないが楽しい人にとっては楽しい。
 そして自分のハナシはつまらない。

『どうしてこうなのだろう』

 星を眺めて落語を諳んじてみせる。
 一言一句師匠のそれと違いのないのに誰も笑わないハナシが空に消えていく。

 師匠の落語を聞いて自殺を辞めた音楽家がいる。
 自分にはそれが出来そうにない。

「大学で本当に量子テレポーテーションやっとけばよかったのかな」

 美幸に言わせれば『どっちも出来てすげえよ』らしいがそれには嫉妬というか憎悪のようなものを感じる。
 いや、それは美玖からも感じる。

「どこか遠くに連れて行きたい」

 彼は歌う。
 明るい歌だが悲しい歌を。

 五月の風が頬を切る。
 扇子をはたいてとぼけた星を透かして見る。

 落語もTRPGも似たようなものさと知人が語る。
 夢さえあれば江戸がある。想像力さえあれば冒険の世界に旅立てると。
 そして自分のハナシはつまらない。

 最高につまらないのは美玖の最後に立ちあえないことだ。
 他の親戚は誰も来ない。彼だって美玖の直接の親戚ではない。故に師匠もまた本来は赤の他人である。

 少女は今、病室越しに美幸の励ましを受け、旅立とうとしている。
 何かを告げようとした彼は少女の口もとの動きをはっきりと見た。

「よしき」

 少女は彼を呼ばなかった。両親すら呼ばなかった。
 自分があれほど逢いたくないと言っていた少年の名前を呼んでいた。声なき声で呼んでいた。

 どうしろというのだろう。
 彼女の両親を呼んだ。親戚も呼んだ。多分間に合わない。
 義樹君に至っては連絡すらできなかった。

 あの二人は、きっともう顔を合わすことはないだろう。
 くそったれな死神様。おれをかわりに連れて行ってくれないだろうか。このつまらないハナシ屋の命で彼女の人生を変えるなら惜しくないのに。

「ああああああああ!」

 大通りで彼は叫んだ。
 雨が降っていても気にならなかっただろう。
 雷が鳴っていても届いただろう。
 雪が降っていても見えただろう。
 雹が降り注いでも嗅げただろう。
 言葉にならない気持ちを叫んだ。

 遠巻きに彼を避けて歩くOLを睨みつけ、泣きながらゲタゲタ笑う青年、残留。

「あの子らを、逢わせてやってくれ。楽しい世界で、笑いあって、それで恥ずかしがりながらも顔を合わせてニッコリ笑える世の中で」

 できやしない。
 義樹は美玖が危篤と知らない。
 美幸も義樹と美玖を会わせたいと思わなかった。
 自分が何を願っても美玖には届かなかった。

 だれも何もできない。

『てめえ。笑いをわかっちゃねえ』

 師匠の言葉が脳裏に響く。

 ああ。そうか。
 すとんと胸におちるもの。
 すとんと腰が落ち、背が伸びる。

 師匠の教えたハナシではない。
 彼の干からびた声が自然に漏れる。
 即興だ。即興であることも気づかない。
 昔々ずっと前。在原業平という男がおりまして。

――いまだか昔だかわかりゃしない、大昔だかそこいらに小さな井戸がありました。木の板で区切られたぼろっちい井戸で御座います。
 そこで向き合って遊ぶのは男だか女だかわかりゃしない元気な娘さんと女だか男だかはっきりしない男の子。二人の名前はおみくとヨシキチと申します――

 奇異なものをみる目が彼を囲む。
 埃の臭い。誰かが投げた石の痛み。
 やがて不気味と感じて去っていく足音。
 額に流れる血を舐めとって彼は扇子をよろよろと出す。

 正座で脛から走る激痛はもう気にならない。

 激痛が走る代わりに気持ちが走る。ハナシの先に飛ぶ。
 あの江戸の小粋でいなせな世界にあの子たちを連れて行く。

 ハナシが進む。
 扇子が動く。手ぬぐいが舞う。
 乾いた石畳が湿った泥の小道になる。

 夜なお明るい街灯が眩しい陽のひかりになる。
 生け垣がぼろっちい井戸に見える。

 井戸を挟んで幼い子供たちがじゃれ合っている。


――白い部屋の中怒号が飛ぶ。

 誰もが急いでいる。誰もが焦っている。
 誰もが祈っている。誰もが戦っている。

 その中で当事者たる少女の小さな手のひらが動く。

 麻酔医は目を疑った。
 筋弛緩剤が聞いていないのか。

 トントンと耳元をフリックしてアプリを呼び出したようにみえたが、その手は元に戻っている。

 通話オン。
 通信先。『ナイトにいちゃん』――


――良しが二つで大変宜しいヨシキチで御座いますが――

 そんなに義樹は情けなくないよ。まったくナイトにいちゃんのオハナシって全然人を見てないよね。
 力のない唇が動こうとする。

 意識のないこころが遠くに飛んでいく。
 古ぼけて汚れたレースは義樹がくれたデザイン最悪な服のきれっぱしでリボン代わりからミサンガ替わりになっていたのに小粋な着物の胸元と袖を飾っている。健康的に膨らんだふくらはぎに泥がつく。

 古ぼけた井戸の向かいに義樹がいる。
 長い髪が自分の瞳にかかる。涙が見えなくなるからちょうどいい。

――長屋に這う蛞蝓も、桶にて踊る油虫も、干し飯を齧るくたばりぞこないどももヨシキチの帰りを待ちわびておりました。今季婚期を逃しそうなおみくの心情はいかばかりか――

 うん。ドロップキックだ。
 何かしらないけど今なら飛べるもの。

 浮遊感。耳が風を切る。消毒液じゃなくて燕子花の香りがする。目を閉じていないのにはっきり見える。
 滑って転んだってかまうものか。彼ならその胸で受け止めてくれる。ほらね。舌を出す。

――あれ、バナナもフロントスープレックスもこの時代にはありませんか。まぁ似たり寄ったりでございます――

 その通りです。ナイト兄ちゃん。
 なんかすっごく、身体が軽いの。
 痛くないの。ドキドキしてワクワクして。

――井戸を乗り越え水を汲み、桶に小便をかまして長屋の熊さんに叱られ、八っあんと囲碁をして負けそうになればひっくり返して『勝った』と抜かし――

 脛に走る激痛も奇異の瞳も苦にならない。
 笑いたければ哂えばいい。無視したいならおあいにく様。俺はとにかく笑ってやろう。この世の理不尽を、悲しみ苦しみ生きる辛さも。

 ぜんぶぜんぶとっつきとっちめて空に飛んでいけ。
 死神が枕元に立つならば、蒲団の向きを変えてやる。

「へいへい。死神さんよ。アンタの立つ枕元はあの子じゃないぜ。こっちだこっちに立てごあいにく様。ちょっと寄ってらっしゃい見てらっしゃい。国宝にぁ遠いがキンタマは光る。おれの名前は古今常残留だ。よってらっしゃい見てらっしゃい」

 意味不明のまくしたてを受けていた聴衆が震える中、泣き笑いを続ける男は空に叫ぶ。

 立つことなく座る。
 正しく座り。強く芯を通す。
 天から知まで通して息吹と共に口上を述べる。

 不義理も伊達も乗り越えて野暮な通りを越えて見りゃ。街灯筋は今すぐに、ちょっと小粋な江戸の町。

 あの子が小袖の裾まくって、好きな男を待っている。

「さあお立合い! 俺のハナシを聞いていけ!
 お代なんてせこい事いわねえお題を寄越せ!」

 ぱちんと小粋に扇子が揺らぎ、ずずずとソバをすする音。脳裏の果てでは二人の若夫婦が一杯のかけそばを手に銭を数えて丁々発止。
さっさと揺らぐ手ぬぐいに、見える手元のたすき裁き。見事に手繰り寄せる井戸の水。溢れて一発酔っ払いのアタマに命中大笑い。

 街灯受けて 早口で まくし立てる粋の国。
 どこか遠くに連れて行く。江戸の都にTimeLeap。
 筒井先生は少女をTimeLeep。筒井筒ならSHOWTIME。
 どっちにしてもこりゃ傑作さ。

 狂人の笑い声が街に響き驚き呆れる警察の前で笑体夢。鼻水流して髪振り乱し、バチバチと扇子で頭を叩いて手ぬぐいを振り回す。

――あっちこっちで商売するヨシキチのこと、貰い物でもしたのかそれともやっぱりおみくの事が忘れられぬのか、酒に酔った勢いではないでしょうが『筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに』と抜かします。筒井さんが何処かでマロニーちゃん食って妹もので(*´Д`)したのかっていうのですか。筒井さんに謝れってもんですが、ヨシキチにいわせりゃ『隙間だらけの井戸越しに見る君の顔が眩しすぎて最近会っていなかったけど、気づいたら背丈が井戸より高くなっていたよ』という無責任極まりないことで、やっぱりコイツヘタレで御座います――

 ヘタレでも何でもいいな。
 私、ヨシキが好き。ナイト兄ちゃんも嫌いじゃないしじじいは長生きしてほしいし。
 なんだ。みんないるじゃん。へんなの。

 いきができる。
 かぜがきこえる。
 いいにおいがする。
 どこまでもひろがる。
 どろをはねてはしれる。

 えどにいる。

 草履の鈴がなる。
 肩を出して走る。
 レースの裾を直す。
 ヨシキチさん待って。

 ミユキチが拗ねているよ。

――このミユキチ、すくすくと成長して井戸の釣瓶を伝って天空の城に到達するわけですが、それだとジャックと改名せねばなりませぬ。ミユキチはどちらかといえばキラキラネームじゃございませんので全く不要で御座います。そもそも惹句とはキャッチフレーズの事であります。ジャクソンならどうなるか――

 とんでもないことになっている~~!??
 ミユキちゃん人種変わっているよね! 別にいいけど表現規制に引っかかっても知らないわよ!

――ミユキチも長じて井戸のふち蹴ってパルクールできるほど育つ頃には生駒山を超えて父が世話になっていた家にて飯をよそってもらって食うようになっておりました。ニートと言えば聞こえはいいですが、これは父の知人に対するママ活でありまして――

 なんか空の上で巨人とラップバトルしているしちょっと竜田山超えて折檻してやるわ。

 石畳に血がにじむ。
 脂汗がにじみだす。

 あざ笑う口元、遠巻きに光るスマホの撮影音。真似して囃し立てる子供たち。腐った泥の香り。

 消えちまえ。

「ちょ、ちょっとキミ」

 戸惑う警官が着物姿の青年の肩に触れる。
 狂気孕む瞳にうつるのは岡っ引きと同心。

 日曜日和にちょうどいい。

 今宵はともに笑いましょう。
 泣きましょう。悔しがりましょう。
 騒ぎましょう。そしてスッキリ旅立ちましょう。

天の星降らずとも、土くれ空に舞う。
 海の水が枯れようと、涙の果てはありゃしない。
 風邪をひいちゃつまらない。風の国に旅立とう。

 炎上と無視まかり通る浮世。
火事と喧嘩はしょっちゅう。

 ハナシ一つで旅立てる。
 異世界転生魔人転生。
 さあお立合い。

――天国や地獄があるならばこの世に他ならない。だから消えたいと願いつつ、消えることすらできないのがこの世の習いでございますから、悪党も善人のフリをする。善人も悪人のフリをする。大人になるために大人のフリをする。
 笑えないったりゃありゃしない。
 苦しみも悲しみも抱えて生きて大笑い。
 まっこと人生というのは死神も呆れて席を外す小便横丁で御座います――

 街灯とシャッター光の反対側、黒い影が乱れて並ぶ。

――さて、オチで御座いますが、これがまったく考え付かない。威嚇するのが笑いのはじめと言い、あざ笑うのが人の本質なら楽しんで笑って誰も傷つけないなんてそれこそ落語の世界で御座いますから、これをWatchと呼ぶのはどうでしょうか――

 くそったれなオチに釣られてスマホが落ちてひび割れる。その画面の先に白い月。

 青年が急に立ち上がる。
 中指を立てて空に叫ぶ。

「ファックユー!」

 子供が中指を立てて真似をする。
 大人がつられて叫ぶ。
 警官が我を忘れて手を広げる。

「ファッキュー!」
「ふぁっくゆー!」
「ふぁっきん!」

 こんなことしてもあの子は死んでしまう。死神だって大笑いだろう。

 彼の肩を警官が抱く。

「なんかよくわからんが、すっげえなお前」

 彼は涙越しに見る。
 空に中指突き立てる聴衆の姿を。

 警察二人が呆れて両手を広げて聴衆をなだめにかかる様子を。

「はいはい。ファッキューはいいから解散ね。アンタ許可とっているの? おうち何処? 名前は?」

 去り行く靴音、石畳に残った黒い染みで脛の痛みに気づく。

「ザンリュ―です」
「ファックユーは良いからね」

 警官二人が彼に肩を貸す。
 やる気のなさげな青年と色気のある女性。

「山口。面白かったね」
「意味わかんねえがアンタ良かったぜ」

 何もない臭い。
 声とわからない声。
 近場なのに顔が見えない。
 肌が泡立ち舌が凍り付く。

 それはまるで……死神。
 彼は立ち尽くす。棒きれのように立ち尽くす。
 月がそっくり消え去って、太陽が顔を出す。

 夜が明け、青年は知る。あの子はやっぱり旅立った。

「まぁ気にするな。今頃アイドルか江戸の町娘に異世界転生しているって」

 そういって少年は笑うが早いが青年の尻にカンチョーを決めた。そのまま松葉杖をついて駆け出す。

 激痛に尻を抑えながら残留は想いを馳せる。

 温かな日差し。日曜日和。
 このまま。どこか遠くに。
 夢という名の旅に出よう。

 さあハナシをはじめよう。
 タイムリープはこれからだ。

 書きかけの原稿を仕上げて。
 壊れたヘッドフォンを外してみよう。

 瞳を閉じれば物知りの御隠居が火鉢で餅を焼き、せっかちな八っつあんが駆け巡り、酒を抱えて熊五郎。

 そこは江戸の町になる。粋でいなせな奴らが集う貧乏長屋は笑いが絶えないステキなところ。

 そこははたまた剣と魔法の世界になる。荒野を旅して栄光を掴み、美女を求めて旅に出よう。

 さてさて今日のお噺は。

自称元貸自転車屋 武術小説女装と多芸にして無能な放送大学生