高校生歌人「一音乃遥」と青春について

なんかどうしても書きたくなったので書きます。

一音乃遥のプロフィール

高校生短歌界隈の前線に立つ一音乃であるが、彼の踏破した大会は数知れない。

その詳細は彼のTwitterのbioに書かれている(※現時点)ので、そちらを参考にしていただきたい。

https://mobile.twitter.com/haru_shiika?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

最近の彼の動向を見ている中で、「青春」という言葉が高校生歌人たる彼を紐解くキーワードであるのではないかと筆者は考えるに至った。というか本人が言っとった。

青春を追い求めるような発言をしながらも、実際彼の短歌は青春の只中にいるのではないかということを、今回は検討していきたい。

青春とは何か

その前にまず青春という曖昧な言葉の定義について触れようと思う。

概ね世間一般で言われているところの「青春」について語るつもりだが、認識に齟齬があるといけないので、からすまぁ自身の青春の定義を紹介しておく、ということだ。

これはあくまでも参考にして紹介するだけであり、青春とは何かについて議論したい、というわけではあまりない。どういう前提で語っているのか理解していただければ幸いである。

コトバンクによると、青春の意味は以下の通りである。

《五行説で青は春の色であるところから》
1 夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。青年時代。「青春を謳歌(おうか)する」「青春時代」
2 春。陽春。

そもそも青春とは若い時分を差す言葉である。「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」の、「青春」。青年時代という表記があることからも、それは明らかである。

が、最近では青年時代という原義に加えて、年齢に関わらず「青年時代のように希望に満ちた行為や様子」に青春という言葉が使われるようになったように思う。

青春短歌甲子園においての青春の定義はこちらの色が強かったように思う。年齢を問わず、青春は謳歌できるという謳い文句からもそのことは現れている。つまりその内実に重きが置かれていたと言えるだろう。

が、からすまぁの定義では、若者の時間の使い方は全て「青春」に結びつくと考える。

青年期の時間そのものに特別さがあるのであり、何をしようと振り返ったときに輝きに結びつくのだ。つまり、若さは青春に包含される集合である。

ただ、年齢を問わずに青春を追求することを否定するわけではない。若さはあくまでも青春に「包含される」集合の一つなのであり、内容から追求された青春もまた青春たりうるというのが私の考えだ。

短歌に青春を見るということ

ここまで来ていやちょっと待ってくれ、という人もいるかもしれない。若さが青春に含まれる一つの集合なのであれば、一音乃遥は青年なのであるから、彼は必ず青春の只中にいるのであり、検討の必要などないのではないか、と。

その通り、一音乃遥そのものは青春に内包されるだろう。が、私がこれから見ていきたいのはその作品群である。

短歌というのは匿名で読まれることも多い。果たして彼の持つ青春性が彼が詠む歌にも現れているのか、というのが今回の問いなのだ。

ここまで書いてきて思ったが、青春短歌甲子園において内容が重視されたことは必然であったような気がしてきた。短歌における青春は、作者が見えない状態では内容からその妥当性を問うしかないからだ。学生らしい単語が詠み込まれていたとしても、それはフィクションかもしれない。逆に、リアルな学生が感じたアブノーマルな青春は除外されやすかったという側面はあっただろう。

一音乃の、学生としての自身の描き方

一音乃は紛れもない高校生である。てかおれの隣のクラスにおる。

が、彼は70歳を自称していたことがあるほど、最近まで自身を若者だと捉えていなかった節がある。他者と比べて豊潤な知識や達観した価値観がそうさせたのであろう。実際、彼は友人から一目置かれているところがある。一目置かれ過ぎてむしろ遠いほどである。

ではまず、そんな彼が「学生としての自分自身をモチーフとして描いた短歌」は、アノニマスな状態で読まれたときに青春性を感じさせるのか検討していきたい。

ここで彼が今日noteに上げた50首連作「わたしの神話」を取り上げようと思う。

当連作は角川短歌新人賞に一音乃が応募したもので、彼が自分自身と強く向き合った一連である。以下のリンクから読める。

「神話」とは「青春」なのか

タイトル”わたしの神話”とは、果たして何なのか。それがこの連作を読み解く最大のポイントであることは間違いない。

正直、本人に聞こうかと思った。「はるさんが角川に出した連作と青春は関係ある?」「はるさんが今まで青春と向き合った作品は?」と。でも聞いちゃうと面白くないのでやめます。以下、筆者が勝手な考察をします。というか、もうすでに勝手な考察です。ご了承ください。

連作のタイトルはこの歌から来ている。

性別を空欄にして渡すときひしとわたしの神話きらめく

これは連作の一番最後に来る歌である。「神話」という言葉はそれ以前に中盤で一度登場する。その後にももう一度出て来る。

人間の骨をあまさず持っている「明日の神話」の下を行くとき
個人史は神話 身体の凹凸のひとつひとつを肯うための

「明日の神話」は岡本太郎の作品であり、渋谷駅に飾られている。第五福竜丸が被爆した際の水爆の炸裂の瞬間がモチーフとなっている。

この絵の持つ意味について、岡本太郎記念館のホームページに、岡本太郎さんの娘である岡本敏子さんの以下のようなメッセージを見つけた。長いが全文を引用させていただく。

『明日の神話』は原爆の炸裂する瞬間を描いた、岡本太郎の最大、最高の傑作である。
猛烈な破壊力を持つ凶悪なきのこ雲はむくむくと増殖し、その下で骸骨が燃えあがっている。悲惨な残酷な瞬間。
逃げまどう無辜の生きものたち。虫も魚も動物も、わらわらと画面の外に逃げ出そうと、健気に力をふりしぼっている。第五福竜丸は何も知らずに、死の灰を浴びながら鮪を引っ張っている。
中心に燃えあがる骸骨の背後にも、シルエットになって、亡者の行列が小さな炎を噴きあげながら無限に続いてゆく。その上に更に襲いかかる凶々しい黒い雲。
悲劇の世界だ。
だがこれはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、酷い、被害者の絵ではない。
燃えあがる骸骨の、何という美しさ、高貴さ。巨大画面を圧してひろがる炎の舞の、優美とさえ言いたくなる鮮烈な赤。
にょきにょき増殖してゆくきのこ雲も、末端の方は生まれたばかりの赤ちゃんだから、無邪気な顔で、びっくりしたように下界を見つめている。
外に向かって激しく放射する構図。強烈な原色。画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。
あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる。
タイトル『明日の神話』は象徴的だ。
その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまき散らしたのではない。残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間、誇らかに『明日の神話』が生まれるのだ。
岡本太郎はそう信じた。この絵は彼の痛切なメッセージだ。絵でなければ表現できない、伝えられない、純一・透明な叫びだ。
この純粋さ。リリカルと言いたいほど切々と激しい。
二十一世紀は行方の見えない不安定な時代だ。テロ、報復、果てしない殺戮、核拡散、ウィルスは不気味にひろがり、地球は回復不能な破滅の道につき進んでいるように見える。こういう時代に、この絵が発するメッセージは強く、鋭い。
負けないぞ。絵全体が高らかに哄笑し、誇り高く炸裂している。

今における死と破壊、そこから見える明日の世界。そこに見えるのは更なる破壊か、それとも微かな希望なのか。

一音乃にとっては、それは後者であるように読んだ。表題作では「わたし」の中に生まれた「神話」が「きらめく」とされ、神話は肯定的なもの、眩しいものであると捉えることが出来る。

そして上の句から、「性別を空欄にして渡す」、男でも女でもない自分を自分が認められること、それが彼の神話の一助となる要素なのだろう。「身体の凹凸のひとつひとつを肯う」とあることからもそれが分かる。

けれどそれは彼が神話そのものになったことを意味はしない。神話に近づけたからこその「ひしとかがやく」なのだろうと思う。(「個人史は神話」は理想のことを言っているのではないか、と考える。)

「人間の骨をあまさず持っている」は一人の人として、自分自身と向き合ったことを意味するのではないか。

好きな人としてではなく推しとして君を挙げればヒトに留まる

連作の中で唯一「君」との関係性が見えるこの歌も、自分自身を「ヒト」と表している。

では、完全な神話は何を意味するのか。恐らくそれは「君」への想いを叶え、何一つ障害のないような恋愛をすることではないか。それこそ世間一般が「青春」と呼ぶような。

神話は神の物語であり、人間である一音乃は本当に神話になることは出来ない。そのことを分かりながらも、それでもかがやかせることでバットエンドの中の一筋の希望に縋るかのような、切実さのある終わり方であることが、(身内が)読み込むと分かってくる。

君を「推し」として遠ざけ、理想を「神話」として遠ざける。結論として、青春は神話のひとつであり(神話が青春なのではない)、一音乃は青春を自分から遠ざけてしまっているのではないか、という考えを得た。

一音乃と青春における可能性

彼が自らを語った短歌においては、青春性というよりも青春に対する切実な希求が見て取れた。

彼にとって青春は遠くにあるものであり、これを元に考えて見ると、彼が「君(=神話)」を詠んだ歌が青春の歌として高く評価されたのも納得がいくかもしれない。

うるみたり 世界の正しい部分だけ集めてできている君の目が

が、しかし、再度言うが一音乃は青春のただなかにいるのである。

青春とは若さであり、彼は若く、二度と帰らない時間を過ごしている。青春が遠くにあるように感じるのは、彼自らが遠ざけているからなのである。

彼の本質が青春にあることを表した歌を一つ上げたいと思う。

手を横にひろげて駅の階段を降りれば徐々に広がる渋谷

これは実話だ。紛れもない彼自身であり、一首は希望に満ち溢れている。

若さが許す無邪気な所作、広がっていく世界、この歌が無意識に生まれるということは、彼の本質は春の中にあるはずなのである。

再度「わたしの神話」から引きたい。

性自認という言葉に赦された姦淫を秘め歩く渋谷を
He is gay.(彼は陽気だ。)と黒板にあり教育に糾弾されている下半身

一音乃はゆるされている。一音乃を許せなかったのはあくまでも自分自身だった。糾弾されていると感じたのは彼自身の意識によるものであり、黒板は実際は別のことを言っているだけだ。そう考えるとHeySiri僕は戦うべきか、の答えは「いいえ、あなたは戦う必要はありません」なのかもしれない。

一音乃が自分の若さを本当に認めたとき、彼の青春短歌は真に花開くだろう。

年齢的にも彼の青年時代はまだまだ続く。これからの彼の歌もとても楽しみである。

※改めて筆者の独断と偏見にまみれた文章であることをここに断っておく。

読んでくれてありがとうございました。

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