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送らなかった人生

ときおり自分が送らなかった人生について、思うことがある。

わたしが25世紀に生まれていたら、
わたしが男に生まれていたら、
わたしがアフリカに生まれていたら、
わたしが短歌を作っていなかったら、
わたしが成人する前に死んでいたら、
役にもたたないそんなことを思いながら、川沿いを歩く。

雨の降る日であった。
傘をさしていても、雨はうすい長袖に包まれたわたしの腕や、濡れないように前に抱えているバックパックの表面を、細かな水の粒で濡らす。

川沿いの道をゆく。
ひと月も前にはそこは桜並木だった。
いや、もちろんそこは今でも桜並木である。
だが人々は花の咲いていないいちねんのほとんどを、それが桜の木であることを忘れて、写真を撮ったり、見惚れたりしないでふつうの顔をしてその横を歩いていく。

川の流れの上に、ちょうど川の流れに沿ってたなびくように何匹ものこいのぼりが紐でくくられている。
こいのぼりは、頭と尻尾を紐で固定されているので、今日のような強い雨の日にもだらりと力なく下がったりはしていない。
ただ、その身はぐずりと濡れそぼって重そうである。

わたしがこいのぼりであった人生について考える。
こんな雨の日に、川の上に紐で固定されて濡れそぼっているのはまったくぞっとしない。
わたしがこいのぼりでなくて、よかった、と思う。

こいのぼりをずいぶん気が早く出しているものだな、とちらと思ったが、いや、ついこの間が端午の節句だった。
こんなふうにわたしはしょっちゅう季節に置いて行かれてしまう。

川沿いの道を右に入る。
マンションや店が立ち並んでいる。
ライオンズマンションのエントランスがある。
今日は激しく雨が降ってるので、エントランスの上のひさしの角から鉄砲水のように水が滴り落ちていた。

ライオンズマンションが、どうしてタイガーズマンションや、ドッグズマンションや、エレファンツマンション出ないのかわからないけれど、ライオンズマンションだからエントランスの脇にはいつもライオンが座っている。
このライオンは、チョコレート細工みたいなつるりとした質感だった。
設計のときに想像が及ばなかったのだろう、鉄砲水のような水の滴りは、ライオンの肩のあたりをはげしく打つ。

わたしがこのライオンであった人生について考える。
ただしくは、人生ではないだろうが、ともかく考える。
ライオンズマンションという名前だからって、入り口に置かれるのは短絡的に感じてたいくつしそうではある。
しかもこんなふうに肩に水が滴る設計になっているとは、ますます自分が軽んじられているように思うかもしれない。
こんなものでなくて、ほんとうによかった、と思って通り過ぎる。

風俗店が立ち並んでいる。
手書きの文字で、店の入り口のひとつに
「男の夢が叶う、揉み放題の60分」とある。

わたしが男であったら、と思う。
ほんとうにこれがわたしの夢であろうか、と考える。
念の為に、夢であった場合と、違っていた場合の両方について熟考する。
夢であったとしても、わたしにはその店の佇まいと手書きの文字がどうしても気に入らなかった。
夢でなかった場合、この文句は心外に感じるだろうか。

首を伸ばして、少し開いた扉から中を覗き込むと、白シャツをきた店員らしき男の人が振り向いてこちらを見た。
その人の首すじはいやにつやつやとしていた。

わたしが男であって客としても、店員としても、あるいはサービスを提供する女性でもなくて、このうらさびしい店に入る羽目にならなくてよかった、と思う。

商店街のアーケードに入る。
傘を閉じた。
飲食店や小商をする店がひしめく。
ここは商品の札が日本語でなかったりして眺めて歩くのが楽しい。

あおい葡萄が、水色のプラスチックのカゴに盛られて売られている。
手書きの札には「青提」とあった。
魚屋の隅に、ボウルにたっぷりと盛られたイカの輪切りがあった。
ただ「処分 500円」と赤いマジックで書かれている。
イカはぴかぴかと新鮮そうであった。
フライから天ぷらから唐揚げから、揚げ物ばかりを売っている店があった。
売り物の全ては揚げ物だろうか、と気になって見てみると唯一「スパゲティ」というのが揚げ物でない売り物だった。
白いプラスチックのトレイに盛られたそれは、具がなくてやたら光って赤かった。

わたしがこの赤いスパゲティだった人生について考える。
この店の中では特別かもしれない。
でもケチャップと油にまみれた人生はそれなりにたいへんそうではある。
赤いスパゲティになってここで売られてなくて、よかった、と思う。

わたしには関係ないものは、もしかしてわたしが関係あったかもしれないもの。

こいのぼりも、ライオンも、スパゲティも。
時代も、ジェンダーも、職業も、寿命も。

日常のあわいのなかで、わたしは何にでもなれるし、なんでも経験できる。
そういうやわらかい部分をいつも守りたい。
そういう自由さをいつもたいせつにしたい。

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