しろい膝小僧
朝は5時に起きて、まずお米を研ぐ。
それから着替えて、顔を洗って、エプロンをきりりと締めてお湯を沸かす。
春休み初日から、次男は学校の春季講習が毎日4時間あってふだんと何も変わらない。
お弁当を作る。
塩壺に塩を入れようとしたら、うっかりこぼしてしまった。
もうその頃には、おもては半ば明るい。
台所の窓からもうすあかりが感じられる。
塩の粗い粒はそのあかりの中でことさら美しく光っている。
塩をこぼしたのもまたいいかもしれないと思うように、かがやいている。
通院の日だった。
隣町なので、電車で一駅である。
座席には半分くらい人が座っている。
あおい長いシートの一つに腰を下ろすと、目の前の人の膝小僧が目に入った。
口髭を生やし、髪の毛は茶色くて、髭も髪の毛も半分ほどは白髪の男性だった。
うすあおい色合いのジーンズを履いているのだが、膝小僧から腿にかけて両膝とも二十センチ四方も破れている。
おそらくこれはこのようなデザインなのだろう、と思いはしたのだけれども、膝は白く頼りなげに光っている。
少し肌寒い風が吹く日だったから、しろい膝小僧はなんだか間違ってそこにあるように見えた。
男性の上半身は、骨格が黒く描かれたスウェットと革ジャンだった。
革ジャンの前がひらいているので、黒いあばら骨の模様が目につく。
あばら骨とともに、剥き出しの膝小僧がしろく見える。
どうにもその人のレントゲン写真を眺めている心地がしてきてしまう。
その男性の隣に、黒いトレンチコートのボタンをみんなきっちり閉じて、ペイズリー柄のスカーフを首元にきっちり巻いた女性が座ったものだから、より一層男性のレントゲン写真感はつよまる。
男性のあばら骨は黒々と、対して膝小僧はしろく光って左から右へ横向きに運ばれていく。
その横にある扉の上には黒い電光掲示板があって、「次は鎌倉」というオレンジ色の文字が左から右へ流れる。
オレンジの文字が流れる、というのは正しくないと思いながら、じっと見つめる。
実際には、長方形の掲示板にあるひかりのつぶつぶが次々ついたり消えたりして文字が流れるように見せているのだ。
ついたり消えたりしながら、文字が流れるように見せているさまを正しく把握したいと思って目を凝らしてみるけれど、どうしてもオレンジの文字が流れるように見えてしまう。
とてもくやしい。
これしきのことすら正しく把握できなくてどうする、と思う。
掲示板は、さっきと変わらず「次は鎌倉」という文字を流す。
その横にあって、男性の膝小僧は相変わらずしろい。
二十センチ四方も開いているので、腿と呼んでも差し支えないほどの部分まで剥き出しである。
そこもしろい。
わたしは朝の台所にこぼした塩のことを思い出していた。
わたしは黒いカシミヤのセーターを着て、黒いコットンのパンツを履いて、黒い薄手のコートを着ている。
持っているかばんも黒革だった。
黒くないのは足元のグレイのスニーカーと、首に巻いた白と黒のスカーフだけだった。
スカーフに描かれた模様の一つは、将棋の駒にカタカナで「スパイ」と書いてある。
きょうはこの「スパイ」が見えるようにしたいと思って、気をつけて首に巻いたのだった。
膝小僧を出して座っている男の人が、わたしが彼を観察しているようにわたしを観察する様子を想像する。
靴とスカーフ以外みんな黒い女の人が、自分のことをじっと見ている気がする。
スカーフにはカタカナで「スパイ」と書いてある。
電光掲示板の文字をちゃんと把握したいけれど、どうしてもうまくいかない。
そう思っていると想像してみる。
もう鎌倉駅に着いてしまって、首に「スパイ」のスカーフを巻いた黒ばかりの格好のわたしは、あおいシートから立ち上がる。
しろい膝小僧の男の人は立たなかった。
隣のトレンチコートとペイズリーのスカーフの女性も立たなかった。
降りるとき、もう一度男性をちらり、と見たら、膝小僧はやはりしろかった。
女性のスカーフは首が全く見えないほどきっちり巻いてあった。
電光掲示板を見るのは忘れてしまった。
風はすこし冷たい。
ホームの風に、わたしの首元のスカーフがなびく。
わたしの目にも「スパイ」が見えた。
スカーフは上等の絹で、こってりとしろく光って見えた。
電車は扉を閉じて、しずかにホームを走り出した。
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