読書と私
今日はエッセイみたいなものを書いてみようと思います。
前半は自分語りです。後半では読書の意義について考えます。
読書が趣味、とてらいもなく言えれば、どんなに楽だったことか、と思います。趣味の欄に「読書」と書くことができるようになったのは、つい最近のことです。「ゲーム」とか、「洋裁」とかより、当たり障りがなく、対外的にはよい趣味といえます。しかし、長い間私には読書習慣があったのにもかかわらず、読書が趣味、読書が好き、とは「口が裂けても言いたくない」という時期がありました。
もともと私は本好きの子供ではありませんでした。母親はよく本を読む人で、家にはたくさん本がありましたが、子供向けに本を積極的に買い与えるということはあまりされておらず、私はゲームのほうがずっと好きでした。つまり、よく言われることですが、家に本があるだけでは、本好きの子供は育ちません。
小学六年生のとき、ゲーム関連のコミュニティから、ライトノベルを知りました。オタクの世界に足を踏み入れたということです。『キノの旅』などが出始めた頃です。それでようやく自分から本を買ってほしいなどと言うようになりました。
本格的に読書習慣ができたのは中学にあがってからです。仲がよかった友人たちとクラスが分かれ、新しい友達もできませんでした。それで、学年の廊下に置いてあった本棚のところに休み時間ごとに行って、そこにある本を読みました。廊下にいれば小学校からの友達と顔を合わせる機会もあると思ったからです。
この頃、その本棚にあった本はほとんどを読みました。中一向けのチョイスだったとは思えません。ヴェルレーヌなどのフランスの詩集や、なだいなだの小説などがありました。どれもボロボロで、明らかに教師が家で読んだ本を持ってきたようなものでした。しかし、この頃の読書は私の読書生活を形成するものだったと言ってよさそうです。
その後、親のライトノベル貶しを真に受けて「純文学以外はちょっと……」といったような中二病を煩い、澁澤龍彦の本に出会って外国文学しか読まなくなり、というような道を辿ったのは順当と言えるでしょう。
高校〜大学にかけてはSFも読むようになりました。ラヴクラフト全集を買い揃えて全部読んだりもしました。このあたりも、中二病のようなもので、心躍る物語を読みたかったというよりも、古典を押さえておくべきだという気持ちや、難解な作品を読んで理解している自分を確認したいという気持ちが根底にあったと思います。
「本が大好きで、図書館の本を全部読んだ」というような文学少年少女だった方を時に拝見します。私はまったくそのタイプではありませんでした。
本が大好きだと思ったことは思い返すとあまりありません。私は孤独感から逃れる必要に駆られて本を読み始め、その後も自分を規定するために本を読んでいました。いわばキャラ作りです。難しい本を読みこなし、引用したり、参照したりできるような人間でありたくて、本を読んでいたのだと思います。特に澁澤龍彦への憧れは強いものでした。同様の人は多いと思いますが、今はその憧れを客観的に見ることができています。この話はすると長くなりますが、怖いのでできません。
ここまでの私にとって、読書は呪いでした。
読まずには自己を保てないものであり、前向きな気持ちはありませんでした。
大人になってからは、あまりフィクションを読まなくなりました。エッセイとかではなく、なんというのかわからないのですが、人文書??? というカテゴリー分けされている本をよく選びます。人の考えたことが、整理され、指摘や論戦を経て研ぎ澄まされ、再度整理されたものを、読むことに楽しさを感じます。
小説であっても、よくよく練られたものが好きです。筋書きの面白さよりも、著者の伝えたいことが、思いつきでないと感じられるようなものでないと、私は楽しくありません。展開は二番煎じでも構いません、というのが私の好みです。
最近の私にとって、本当に最近この言葉がしっくりきたのですが、読書はフィットネスのようなものです。単なる筋トレということではなく、人の思考をまとめたものを読む、それについて自分の思考がどう反応するかを観察することに読書の意義を感じます。
結局、読書はいいものだと思います。
読書は自分との対話です。著者との対話ではありません。著者は私のことなど知らないからです。著者の思考だけを借ります。それを使って、壁打ちをします。
スポーツ選手も孤独に筋トレや基礎体力作りをする時間が、きっとありますよね? 読書は、それにあたると思っています。人と話したり、思考をぶつけあったりするための、基礎訓練です。社会生活を送るための。
呪われた読書には、このような意識がありません。知識を吸収すること、実績解除などが目的になっていました。筋トレは、私はやったことがないのですが、正しいフォームであることや、自分の必要なトレーニングが何かを理解した上で行うことが重要であると聞いたことがあります。そのためには、自分の肉体との対話が必要になってくることでしょう。そうした意識がないままのトレーニングは、おそらく身体を壊すことや、偏った筋肉につながっていくのだと思います。
だから本は受け身ではなく、つまり呪われた状態で読むのではなく、能動的に読んだほうがよいのだと思います。そちらのほうが、健康づくりにはいいです。
もちろん競技シーンで勝ちたいのであれば、つまりアウトプットによって論敵をブイブイ言わせたいのであれば、このような基礎体力はきっと役に立つのではないでしょうか?
ところで、私の社会生活は非常に弱々しいものです。前述のような読書の傾向から、思考をぶつけ合う場面では、それなりの手応えを感じます。しかし仕事の休憩時間など、雑談や一般的な感情の動き、会話の流れに対する予測ができず、私ははっきり言ってコミュ障としか言えない存在です。
もう少し感情ベースの本を読むことでこのへんを訓練していきたいと思いました。
おわり。
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