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今ここに確かに存在するのに、有ったり無かったりする「自分」について。

自分が無いという言葉も、自分が有るという言葉もある。自分を信じるとも自分を疑うとも使う。もっとも身近で、ままならない自分とは何だろう。

自分が無い。主体性がないのだろうか。自信が無かったり、遠慮したり、その瞬間はたまたま気が向かないだけかもしれない。
自分がある。自己理解が高く、明確なビジョンを持って生きていることだろうか。

では、自分探しは? 僕はここにいるし、あなたはそこにいるのに。
そもそも、自分とは、有ったり無かったりするものなのだろうか。
問いは適切なのだろうか?

自分探しを勧めたい例を、1つ思い出した。

昔の友達に、こんな人がいた。僕と話していると、僕が言うようなことを言い出し、別の日に会うと共通の知人が言いそうなことを言う。

とても影響されやすく、他者の意見に簡単に染まる。カルト宗教やマルチ商法の立場から見たら、理想的な状態だ。他者の意見の吟味も咀嚼もしていないから、一貫性は生じない。意見の闇鍋のどこに真意があるのか訊ねても、困惑するだけだった。

自分の意見を、考えた事が無いのかもしれない。観察していると、他人の頭で考えさせて問題解決をする癖がある。そんな癖が有ると、本人は客観視していない。自覚も出来ない。

他人の意見に染まるだけでなく、他者の脳を利用する。そうまでして、自分の頭を使わないのは何故なのだろう。自分の頭を使った方が、早いのに。

とても厳しいご両親の下で育ち、「正解を決められて、優等生でいないと居場所がなかった生育歴」のある人だから、素人目には関係性が有るように思える。思春期に自己形成する機会を、持てなかったのかもしれない。

この例は、自分の頭の使い方を知らないように思える。有る・無いで表現されるのは、適切な自分の頭の使い方を知っているか否かでは無いのだろうか。

私にとって、自分は有って当たり前のもの。根気強く耕して、根を深くまではれるように育て、関わり続けるもの。(己の根をはりやすいように耕すことが出来るのは、人間だけだろう)

自己理解も、情報の吟味も、思考の仕方も、全てそのための道具であり、「耕す」ことの一部に見える。

例えば、帰納法なら確率、演繹法なら推論。情報と接するなら事実確認。そんな知識を用いて、耕すことで、自分が初めて自分になるのでは無いだろうか。

私にとって自分とは、使うものであり、自分とは「成る」ものだ。


Thank you for taking the time to read this.