手放したもの : 「良い子」の仮面と他者に嫌われること(評価されること)への恐れ
複雑な家庭で育った。「良い子」で生きることを選んだ。もう役目は終えたけれど、幼い日に赤ちゃんの下の子と初めて会った日に「お兄ちゃんだからしっかりしないと」と、「お兄ちゃんスイッチ」を自分で押したらしく、未だに兄をやめられずにいる。そういえば、猫や犬と接する時も、私は無意識に「兄」の顔をしていた。『3月のライオン』を読むと、たまに、ああ、私だけじゃ無いんだと思える描写があって嬉しい。
「良い子」に関しては、他人にとって都合の良い子であることを理解し、脱ぎ捨てたのは30代のことだろうか。「良い子」は嫌われることをとても苦手とすると、私は観察している。嫌われることを、いかに恐れなくなったのだろう?
誰かが私を嫌うか・無関心のままか・好ましく思うかは、相手の範疇で私のコントロールが及ばないことを知ることが、大人になる第一歩だと思う。モノサシやメーターが相手にあるから努力しないという話に飛躍させず、事実を考えていく。
最善を尽くしても、嫌われる時は嫌われる。ただし、嫌うより無関心の方が可能性としては確率が高い。そう知るだけで、無理に好かれようと努力することから自由になる。
自然と好かれることとは何だろう? 私は、相手に判断を委ねることだと思う。判断材料を用意して、気にいる・気に入らないを評価するのはその人。判断材料の1つが個性。
個性をわざわざ出さなくてもいいし、隠さなくてもいい。個性はかおるものだから、メッキは剥がれるし、隠しても隠しきれない。
言動も判断材料の1つ。裏表なく、悪口を言わず、穏便さを心掛けること、静かに振る舞うことは、良識を言外に示す方法だと思う。すべて「ねばならない」と義務感で選ぶのではなく、幕の内弁当に何を詰めるかと似て、自分の好むことを選んで集めた結果の「言動」だと、とてもいい。無理が無いので長続きするし、ストレスで破綻もしないから。
個性と言動を、無理せずに自然な状態で見せて、相手の判断材料にしてもらう。相手に評価されることを恐れず、慣れていく。良い評価もあれば、不本意な扱いもあれば、無関心もあるはず。どれであっても、私は私で何も変わらないし、明日は来るのも事実。
他人から見ると、自信や自分や芯を持っているように見えるかもしれない。実際に、それらが育って獲得するのに30年の試行錯誤が必要だったのだろう。
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