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法が無くても悪いことしないと選んだのは、いつのことだろう?

「悪法も法なり」と言うけれど、意図の分からないルール、例えば憲法と矛盾してると思えるなら、場所を変えるなどして従わないのも選択だと思う。子どもは自分で決められることが、大人ほど無いから、見守り配慮する必要がありますね。

例えばナンセンスな校則が話題になったりするけれど、誰かの頭の中で考えただけで、具体的なチェックが働いていないから、起きると思うのです。子どもたちに、その校則で何を学ばせたいのか哲学が見えないと、単に従わせることが目的であり、子どもたちの自尊心を折りたいのかな? と、困惑してしまいます。

法の話。例えば「盗むな」も「殺すな」も、このnoteを読んで下さる方は、わざわざ刑法で決められなくても、しないと思うのです。いや、法が無ければしますけどって方は、こっそり教えて下さい。

私達は生まれた時から、「盗むな」や「殺すな」を理解していたでしょうか。自他の区別どころか、目についたものは何でも口に入れるところから、始めていますよね。タバコや石鹸を食べちゃった、なんて話も聞きます。(タバコが燃えている概念が無くて、食べてるから短くなると思ったと、聞かせてくれた人もいました。よく覚えてるな、そんな幼い日のことを)

「他人に迷惑をかけるな」から始めて、自由の範囲を理解します。法やルールを通して、自分が属する社会での自由とは何かを理解します。
結果、法やルールが無くても、問題を起こさないことを選択出来るし、法があっても息苦しくなりません。

自転車の補助輪と法の違いは、必要無くなっても、法は社会にあり続けることです。
残念だけど、禁じられても他者に害をなすことをやめられない人がいるから。個性や興味関心の違いかもしれないけれど、同じ赤ん坊からはじめて、法が無くても他者を害さない人と、法があっても他者を害する人になぜ別れるのでしょう?

環境と教育がキーだと仮定しているのですが、幾つの段階で別れてしまうのでしょう? 「いじめ」を例に考えると、小学校低学年ではっきり出ますよね。大人になるまでに、気づいて改める機会は無かったのでしょうか。

私達は自分になる過程で、幾つもの別れ道を選択します。誤った選択をした場合、分かるところに戻ってやり直したいですが、日々の忙しさが許さないこと、ありますね。

どんな別れ道を通ってこられましたか?

Thank you for taking the time to read this.