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一時保護所に保護された話。

入所生活3週間について。


さて、⑤の前編では保護されるまでの話だったね
一時保護所、一時保護に関しては保護された事のある人にしか分からない世界だと思う。
中でどんな事が行われていて、どういう流れで家に帰るのか、もしくは施設に入ってしまうのか、そして帰ったとてその後はどんなサポートが受けられるのか。


私の場合、3週間程度の保護期間・家に帰る選択をした・帰った後にどんな出来事があったか・どんなサポートを受けたのか。
……ということはここで伝えられる。


が、もちろん個人によって保護される理由も様々だし、帰るor帰らない、帰った後平和になるorならない、そして保護所自体も場所次第では環境が良かったり悪かったり…参考になるかならないかで言えば、ならない方が圧倒的に多い。
それでもここに書くのは、やはり誰かの道しるべになれたらと願うからである。

昨今よく目にする「子を連れ去られた」「無理やり絶縁させられた」とSNSで吠えている【親】。
私の母もほぼそれだと昔も今も思ってる。
普段良好な親子関係で本当に連れ去られてしまった人も居るのかもしれないとは分かっているものの、吠える親を持った事のある私だからこそ、私の経験を読む事で一度冷静に考えて欲しい。

本当に貴方は実子と良好な関係を築けていましたか?1ミリも自分は悪くないと胸を張れますか?実子が何に傷付き、何に怯え、相談員の先生の手に縋りついたか分かっていますか?
それらを全て考え直した上でも尚、「我が子を今すぐ返せ」と声をあげられるのでしょうか。

……とまぁ、前置きはこのくらいにして。
そろそろ本題に入りましょうか☺️




タクシーに揺られ一時保護所に辿り着いたのは消灯時間を過ぎた頃、22時前だった記憶がある。
コンビニのおにぎりを途中で買ってくれ軽く腹ごしらえを済ませてからの到着だった為、用意されていた部屋には既に布団が敷かれて居てその日はそのまま就寝、目まぐるしい一日だったせいかすんなりと入眠した。


ふと目が覚めると、見慣れない場所で一瞬混乱したもののすぐに昨日のことを思い出し泣いた。
悲しくて寂しくて泣いたのでは無い。
「安全な場所に居る、ホッとした、良かった」そんな感情が溢れ出し、涙が止まらなかった。


それが落ち着いた頃、個室のドアがノックされ応じると昨日の先生が立っていて布団の片付け方、掃除機の在処、洗面所の場所……要するにザックリと施設案内をしてくれた。


長い廊下があり、片側に個室が並ぶ。その突き当たりに食堂、そして個室の対面側に浴室兼洗面所、トイレ、レクリエーションルーム(学校の教室1.5個分の広さ)が並んでいる。
基本的にここの中だけで生活する。

1週間のスケジュールはザックリと
月  勉強  自由時間
火  勉強  散歩  入浴  自由時間
水  勉強  コラージュ  自由時間
木  勉強  中庭でレクリエーション 自由時間
金  勉強  散歩  入浴  自由時間
土  レクリエーション 自由時間
日  自由時間

うろ覚えな部分もあるが大体こんな感じ。
保護されている子供の年齢層は様々で当時は小3〜中3が居た。
なので学校の勉強とは全然違う、その子の学年に合わせたプリントが渡されそれを解く、そして丸つけをしてもらって訂正まで済んだらそこで終わり。それだけ。


しかも五教科やる訳じゃない、あるのは国語と算数のみ。
国語(100分) →漢字穴埋め問題 プリント3枚分
休憩20分挟み
算数(100分) →百ます計算 3枚分

これを解いたら終了。
保護されている期間だけ周辺の学校に通うなど不可能だし、保護されている全学年の教科を教えられる程の人員も居ない、そもそも先生と呼んでいるが教員免許を持った人達でも無いので無理な話。


当然保護されている期間に進んでしまった授業は、出所後塾にでも通うか、親切な学校の先生が別途教えてくれるかでない限り取り返しがつかない。
私の場合、算数の図形問題がこの期間に当たってしまい基礎を学べなかった為中学でも非常に困った。基礎が分からないのだから応用問題なぞ余計に分かるわけが無いのだ。(絶望)


スケジュールで気になるのはあとは入浴かな?
そう、週に2回しか入れなかった。
元々入浴嫌いな人間なもので、私自身はむしろラッキーくらいな気持ちだったけど(ぇ)
常人なら結構なストレスだよね。
でも最近調べてみると毎日入れてる子や週3以上に増えてたりという情報が目に入るので改善されてるんだなぁ、良かったなぁと思う。

最初の1回目は浴室の扉を開けたまま担当の先生が見張った状態で入浴をする。
そこで危険な入り方をする子なのかどうかの判断をしていたんだと思う、育児放棄だと安全な入り方を知らない可能性はあるもんね。
2回目からは扉は締められるけども、すぐ側に先生が待機した中で入浴。そんな感じでした。


一日のスケジュールは

6:30 起床、布団片付け、個室の掃除機かけ
7:00 皆で食堂で朝食
7:45 歯磨き〜休憩
9:00 国語
10:40  休憩
11:00  算数
12:40  昼食、食べた人から歯磨き
自由時間、散歩、入浴レクレーション
コラージュ、面談等
15:00 おやつ
自由時間、面談等
18:00 夕食、歯磨き
自由時間
21:00 消灯、就寝

記憶を辿って書いているので違う点もあるかもしれないけど、大体このような感じで1日1日が過ぎていく。

就寝に関して、男女の間違いが起こらない為に長い廊下の丁度真ん中に夜だけ設置出来る扉が常設されてた。
昼間は取り払われているが、就寝時間になると先生がそこを閉じて封鎖される、封鎖が終わると先生は帰って行く。
真ん中から向こうは男子の個室が並び、こちら側は女子の個室が並ぶ、そんな感じで配置されてた。


それでもやはり早めの時間に設定された就寝時間に対して、寝付けない子供はコッソリと部屋を抜け出して扉の前に集まる。
扉越しにくだらない話や、口だけで出来るしりとりやじゃんけん等をして眠気が来るまで遊んだり…修学旅行の夜のような日々で楽しかった記憶がある。

保護されている子供は様々で、私の様に虐待行為が原因の子も居れば、非行(夜遊び等)が過ぎて更生目的で入れられている子も居たし、親の離婚直後で親権が確定するまでの間と言う条件付きの子もいた。
それでも共通しているのは皆優しく、新しい子だろうと年齢が違おうと性別が違おうと暖かく楽しく全員が安心してその場に居られるように振る舞ってくれる子ばかりだったということ。


基本どの子にも2人ずつ担当の先生が付いていた。
生活態度、発達レベル、その子の特性を見落としなく判断付けられるようにだとは思うのだけど。
何故か私には3人の先生が付けられていた、それだけ酷いと判断されたのか?と今でも疑問🫠


度々面談に呼ばれ面談室にて発達診断テストや、数日間保護所で生活してみて心境に変化はあるか、主に「家に帰りたいと思えるか、帰りたくなければ児童養護施設という選択肢もあるがどうするか、今でも恐怖心はあるか」と言ったことをもっと柔らかく濁した感じでお話をする。

回数を重ねていくと、私の場合は「母親と会って話してみる?どうする?」
要するに、入所する原因となった対象である人物との対面をしたいかどうか問われた。
当時の私は「愛されたい」という願いを捨てきれていなかった為、顔を見て判断しようと思い「したい」と答えた。


入所が決定した日、朝から一言も交わす機会無く登校しそのままだったせいか罪悪感があった。
母を一方的に悪者にしてしまった、乳がん患者である母だからそれで苦しい分私に当たるのは仕方ない事なのかもしれない、入所した事でお互いに頭が冷えたハズだから改善されるかもしれない、残して来た妹に矛先が向いたらどうしよう。

色んな事が頭を駆け巡り、「家に帰るか、施設に入るか」選び切れないそんな折に母との対面を迎えた。


姿が見えた瞬間、母が愛しい、恋しい、欲しい、触れたい、という本能には逆らえず駆け寄って泣きながら抱きついた。
母もそれに対して抱き締め返してくれたし、泣いていた。
外面が良過ぎる世間体を大事にしたがる母の性格がハッキリわかっている今の私からすれば馬鹿げた茶番劇だと思ってしまうが、当時小5の私には分かる訳もなく「母は変わった、愛してくれるんだ」と思わせるには十分な時間だった。


ひとしきり泣いて落ち着いた私を交えて、担当の先生、母との三者面談が始まった。


それまでに受けていた発達診断テストや生活態度で分かったこと、「娘さんの知能レベルは実年齢の2個以上上ですが、行動力に関しては小学校低学年レベル」
だから、言動が大人びているせいで行動にも期待をかけてしまうのは分かるが、行動力に欠けるのが事実な為期待通りに動けなくて当たり前なのだからそこに対して怒るのは辞めてあげてください。


と言ったことを母に言っていた。
まぁ要するに口先だけはいっちょ前なのに当たり前の事すら出来ない子。
確かに見てるだけでイライラしちゃうよなぁと私でも思うが、それが個性なのだし努力でカバーしようにもどうにもならないあたり仕方無いことなのだと思う。
それを丸ごと受け入れて、こういう子なのだと納得し、愛すしかない。


親ガチャ失敗と私は言うが、母は母で子ガチャ失敗だったんだろうなと少し申し訳なく思う事もある。
それでも世間体を保ちたいプライド激高な母だから施設に入ることは勿論望まないようで、私が帰ってくる事を願ってたと後から先生に聞いた。


そんな三者面談を終えた数日後、私と先生だけの個人面談にて忘れもしない。

「家に帰る?施設に入る?……親を捨ててもいいんだよ、自分で選んでいいんだよ。申し訳ないとか余計な事考えなくていいから、本当にどうしたいのかよく考えて選んで。」


推測でしかないけども、この後の生活を、人生を知っている私は、先生方は母と私が離れた方がいいと確信していたのだろうなと思う。
それでも私が選んだのは「家に帰る」選択肢だった。


抗いようが無かった、三者面談の時に抱き締められて感じた優しさや温もりは嘘であろうと偽りであろうと、この人からしか得られない物だと本能で感じてしまったし、この一時保護のお陰で母は考えが変わって今後は優しくなるかもしれないと全身全霊で期待してしまったから。


帰るという選択をした私に対して「考え直せ」とは一言も言われず、トントン拍子で帰る日程が決まり、クリスマス当日に退所する事になった。
しっかりとクリスマス会も参加し、みんなと一緒に作ったクリスマスケーキを堪能して最後の思い出を作った私は、「助けが必要になったらこの番号にかけて」と言われコッソリ渡されたメモ紙を持って、笑顔で退所した。




これが私の入所から退所までの体験。
子供主体で、意思を尊重し、選択肢を与え、自分の力で選ばせた、いつ何時でも温かく全力でサポートしてもらえる安全な場所だった。


長崎こども女性障害者支援センター
の皆さん、当時は大変お世話になりました。
お陰様で私は今も生きています。


一時保護所に関してはもう少し話があるんだけどね、それは⑤の後編に織りまぜて書くよ。


良い施設もあれば悪い施設もある、私は本当に恵まれた人間だったのかもしれないしそうじゃないかもしれない。


私は入所する事で生き長らえることが出来たと確信出来る。
だが母は人生において汚点だったと思っている。


何度でも言う。
貴方は本当に子供を愛せていますか?
愛しているつもりではありませんか?
なぜ、我が子が一時保護されたのか分かっていますか?


本当に何かの手違いで保護されたのなら一刻も早く家族の元に帰れる方がいい。
でも、そうでないのであればそれ以上我が子の首を絞め続けないで欲しい。

私は祈るしか出来ない、当事者が真実に気付いてどう在るべきなのか考え直すしかない。
すべての親子が幸せにあれますように。




長くなりましたが一時保護についてはこんな感じです。
次回は⑤の後編、観察期間にどんなサポートがあるのか、そして退所後の親子関係の変化、私の人生はまだまだ続きます。

それでは👋






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